夜明けと共に足音やかましく冒険者たちは家を出てゆき、また猫屋敷に
静けさが戻ってきた。
庭ではまた一匹だけになった不細工な猫が、退屈そうに欠伸をしている。
そこだけを見ればまるで日常の光景。 
けれど、とケリュネイアはがらんとした室内へと視線を移す。
どんな時にも落ち着き払った低い声の主は、家具のように当たり前に在ったその
ひとが、そこにはもう居ない。
 遠い昔、世界はこの場所だけだった。 精霊の子らが奇妙な姿で徘徊する
深い森をふざけながら遊ぶうち、穏やかに聞こえていただけの声は様々な
響きをもつようになり、おもちゃや何の役にも立たないけどひどく大切にして
いたものを持っていた手には、閃光を放つ弓が握られている。 隣にいて同じく
ふざけていた兄は、いつしか自分より背が伸びて、必ず少し前を歩くようになった。

 ずっと変わらぬはずの世界は自分の前からそっと静かに立ち去り、
かわりに現れた魔王が君臨し獣性の支配する荒野に足を踏み入れた時も、
何も恐れる事はなかった。 隣には父と寡黙な剣聖がいて、前にはその
誰よりも強い兄がいる。 それで十分だった。 だから。
 一体いつからだろう。 怖さを感じるようになったのは。
魔王を倒す旅を終えた頃だろうか。 それより前、妖術宰相の予言を聞いてから?
人を超え強すぎる力を持つ兄にこそ、闇は降臨するだろうと宰相は語っていた。
その時の光景はよくおぼえていない。 兄は何も答えず、ただその手にした槍を
ぎゅっと強く握り直したのだけが、何故か強く印象に残っている。 
旅を終えた後、剣聖は途切れることなく続く闘いと歓声の日々を求めその居住する
商都へと戻り、再び目にしたこの屋敷には前と変わらぬ平穏な時間が流れている。
ただひとつだけ残して。 ……兄は、魔王亡き後の帝都に残っていた。 

森を歩く。 その懐かしい声は木々にこだまし、姿は幻影となっていつも少し前を
歩いている。 兄だけだった。 他の誰よりも兄が一緒にいれば、それで戦えた。
だから、怖いと思ったのはきっと予言を聞いた時ではなく、魔王バロルを目の前に
した時でもなく。 ただその幻へと伸ばした手が、さっと空をきった時。
自分のよく知っていた兄が、もう自分の中にしかいない幻とわかった時。
闇を倒した筈の英雄は、世界を手に入れるという言葉と共に再び大陸に戦火をあげ、
血塗られた獅子の進むその背後には、瓦礫の山と声なき声が続いている。
予言は確実に成就されてゆく。 何故という問いはいつも沈黙にかき消される。
どうしていいか、わからない。 結局、本当には憎む事もできなかった。


 キイと乾いた音をたて、扉が開いた。 庭にいたネモが入ってくる。
「何だ、結局お前も行くのかよ」不細工な猫は驚いていった。
「ううん、彼らには彼らの目的がある。 私は一緒にはいられない」
「行く所は同じだろ? あの男女も必要なら手を貸すくらいに言っといて、
内心は行く気満々だったからな。 怖い怖い」
「兄さんはきっとエンシャントに行くわ。 だからよ」
「まあ、それはわかるがね」ネモは渋々頷いた後、幾分ぎごちなく言い出した。
「だが、その、何だ……だったらお前、あの弓やらなきゃよかったのによ。
閃光の弓とかって奴。 あれ随分と凄い得物だったじゃねえか。
言っちゃなんだが、今のエンシャントからは、尋常じゃない闇の匂いがするぜ?
そこへお前、ひとりでのこのこ出かけるなんてな……」
「大丈夫よ」自分を案じる年老いた不細工な猫魔人の言葉にケリュネイアは微笑し、
そっとその背をなでた。
「なっ、何しやがる! 俺を猫と一緒にするな」
「これでも魔王を倒した4人のひとりですもの。 心配は要らないわ。
それにね、私は闇を倒しに行くのではないの。 それは、彼らの目的……
無限の魂の主や、彼女と共にゆくことを選んだ仲間の。
父さんや、剣聖がそこに加わっていても、私は、私だけは、兄さんの行こうと
する先へ、どこまでもついて行く。 そう、決めたの」

 ネモはふうと溜め息をつき、まあ俺は関係ないけどな、とぼそりと呟く。
心配性な魔人のとがった耳をなぞり、やめろやめろとネモが耳をぱたぱたさせ
退散するのを見届けると、ケリュネイアは服装を整え、目を閉じて深呼吸した。

 半端に開けられた扉から、どこか懐かしい感じのする風が流れて来る。