彼は邪竜の生贄に捧げられる女の素性を知っていたから、壇に横たえられた
その姿を見た時、ほんの少し複雑な気分にはなった。
もっとも、それはさほど重要な事でもなかった。 救世主は眉をひそめ
「外に誰かいるのか」と問いかけたが、彼は軽く肩をすくめ曖昧に笑った。
 どれもこれも皆、とりたてて興味をそそる様なものではないのだ。
目を瞑れば駈けて来る足音がどんどん大きくなり聞こえてくる。
さぞ必死になって現れる事だろう。 怒り心頭という所か。
それとも猫屋敷の賢者にうまく焚き付けられ、使命感に燃えていたりするのか。
 好きにすりゃいい。 彼はもう一度短く笑い、それから天井を見上げた。
ひとつだけ気に入らない所があるとすれば、この何の愛想もない薄闇か。
同じ洞窟でもアルノートゥンの邪竜の方は綺麗なものだった。
岩肌に浮いてくるような青白い輝きが点在し、辺りを星の海に変えている。
ここは如何にもじめじめして、祭壇も使えるのか使えないのか、粗末なものだ。
いや、そんなものはどうだって構わないのだが。 せめて陽でも差せば。
こんな所では死にたくないな。 唐突にそんな事を思い浮かべたが、別に
不思議でもなかった。 何かある度に考える事だった。
いつもはっきりと描ける光景。 それは、高い木々に囲まれ、そこだけ
ぽっかりと開いた高い、高い青空だ。
見上げると視界がゆっくり、回転をはじめる。 
 そうだ。 こんな洞窟ではない。 死に場所なら断然……

「太陽の下だね。 照りつける太陽の下」
 あの日みたのと同じ青空を、200年探してた。



 セルは一度俯くとゼリグの側から離れ、ゆっくりと立ち上がった。
荷物の中から拳具を取り出し、装着する。 金が無いと言っていた割に、
ずいぶんと派手な作りで、しかもよく見る鍛冶屋のそれとは大分異なっていた。
おそらくは魔道王国か、それとも更にその昔の、今はもう朧げにしかわからぬ
古代文明の残滓か。 いずれにせよ、現代のドワーフ達にはそれがどうして
造られたのか説明する事もできないだろう。
 武器だけは大したものだ。 しかし、こちらを睨みつけるセルの目は、
先程とは違い迷いが消えていた。 焦りや、怒りといったおよそ何の色も浮かばず、
どちらへ転がるともわからぬ賽の行方をただじっと見守る人の、空虚な表情が
そこにはあった。
 腐っても無限のソウルという事か。 どう間違ったのか運命に選ばれてしまった。
何もなければきっと、世界が黄昏に包まれる時、大勢の名も知らぬ群集の一人と
なって露と消えていただろうに。
それもまた、別に悪い死に方でもないだろう。 少なくとも、救われたいと
信じて魂を投げ出すのだから。 
こんな所で戦って死ぬよりは、ましな筈だ。 が、そんな選択は、もう出来ない。
そして、目の前の相手はそれを別段苦にしているようでもなかった。
 まあ、嫌だといった所でどうしようもないしな。
自分も、そうだった。 祭壇の上の奴とは違ってたんでね。

「生まれた時から、ダークエルフ。 家族して、暗い穴で怯えながら暮してたよ」
 何でそんな事を言い出したのかと思う。
「でも、あの日、兄貴が俺を誘ったんだ。 とっておきの場所へ行こうって」
 さわれそうな程鮮やかな景色。 まだ覚えてる。
高い木立が黒々とした枝を突き出して空を削っていた事、ほんの一握りの
草原で、折れて横倒しになった老木に腰かけるとひどく落ち着かない気持ちに
なった事、おどおどする自分に兄が笑いながら上をみろと指差した事。
 つられて顔を上げるとはじめて見る太陽はまぶしすぎて、思わず目を瞑った事。

「それが、外だった。 明るくて、温かくて、清潔だった」
 笑いたくなり、無性に嬉しくなって、横にいた兄に喋りかけようとした。
「兄貴はその光の中で死んだよ」
「エルフに見つかって、笑顔のまま射抜かれた」
 視界に映ったものは、綺麗に矢が首の後ろから飛び出している横顔だったっけ。
その後はもう覚えていない。 次に起きた時は、家族は皆、肉の塊になってた。

「でも、あの日の空は忘れていない。 気持ちのいい感覚が、記憶に残ってる」


 セルは何の反応も示さず、ただ話が終わったのを確認するように視線を送り、
微かに息をふうと吐いた後、一瞬の内に突っ込んできた。
その余りの速さにジュサプブロスは驚いたが、落ち着いて応戦する。
が、斬り掛かるその先にセルはいなかった。 隙を突いたと思っても、必ず
予見したように受け、更に殴りかかってくる。 剣など間に合わない。
構えようとした時にはもうそこに居る。
 何だ、強いじゃないか。 弱い弱いと皆言うから、どんなものかと思っていたら。
思わず可笑しくなった所にまともに入り、壊れた祭壇の先まで吹っ飛ばされる。
起き上がろうとする時にはセルはもう、目の前に来ていた。
息つく間もなく、拳が突き下ろされる。 一瞬、装具の棘がきらりと反射して光り、
顔面に鈍い衝撃があった後、吹き上げた血で世界は赤く染まり、次いで暗くなった。
だがセルは手を緩めない。 殴られる度、自分がぐちゃぐちゃに崩れるのがわかる。
 
 
 何だ。 死に場所を考えるのは別に不思議でもなかったじゃないか。


 ちぇ、やだなあ。 ……結局こんな暗い所で死ぬのか。


 だが再び目を開けてみるとぴたりと攻撃はやんでいる。 セルは息を荒くはずませ
ながら、苦しそうに顔を歪めていた。 もう一歩も動けない、といった様子だった。
まあこちらも似たようなものだが。 省みて笑う。 
 まだ生きているのか。 どっちにしろ、瀕死なんだろうが。
いや、……ジュサプブロスはそろりと腕を持ち上げた。 剣は何処かに落として
しまったのか、見当たらない。
 しかし、その必要は無さそうだった。 セルはまだ敵が動ける事を察してか、
止めをさそうという様に構えたが、すぐに脱力して肩を落とし天を仰いだ。
もう座っているのがやっとなのだろう。
後は簡単なものだ。 次元を操る能力にはこの前も助けられた、同じように今度も
誰も戻れぬ虚無の深淵へ招き入れればそれでいい。
 そうしたら……もう、それ程長くはない気もするが……いや、まだわからないか。
前も、そうだった。 胸を射られて、それでも生き残れた。
終わってしまってもいいと思った時間の中でも、まだ見たいと願うものはある。
そうだ。 生きなければ、それも出来ない。 此処を出よう。
まずは次元にすきまを作り、煩い無限の魂を送り込んで。 
今にも見えるような気がした。 あの温かくて、気持ちのいい感じ。
忘れた事などなかった。 そこへ行こう。 今度は、陽の射す下で。


 僅かに頭を浮かせ、ぐらぐらと揺れながらジュサプブロスは歯をかくかくと
鳴らし、焦点の定まらぬ瞳で何処かを見つめ笑う。
「もし、生まれ変わりとかあるんなら、今度は太陽の下で一一」
 残る力を振り絞り、セルが拳を叩き付けても、まだ半分程残った唇は
何か言いたげに僅かに動いていた。
 もう何も出来ない。 セルは引き摺るように身体を動かし、祭壇へと
近付いた。 オイフェの横顔がみえている。 話す事も、考える事もできず、
セルはその場にぺたりと腰をおろしたまま荒い呼吸を繰り返した。
「ちょっと、複雑な気分ですね」
 背後でオルファウスが喋っている。
「ですが、邪竜の復活は未然に食い止められました。 ……ひとまず
私の家に戻り、これからの事を考えるとしましょう」
 戻る? 何だか別の世界の話を聴いているようだった。
ひとりでリベルダムまで来て、セラに会って、邪竜の断層に入って、
オイフェやドルドラムに会って、ゼリグが現れて一一
もう何もしたくないのに、後ろの猫は気軽にそんな口をきく。
 でも、オイフェをこのままにも出来ないか。 セルがのろのろと後ろを
振り返ると、オルファウスは制止するように言葉を挟んだ。
「ああ、大丈夫ですよ。 私の家まで転移しますから」
「……魔法、使えたの?」
「話はあとです。 さあ、いきますよ」
「……勝手に行ってくれよ」
 そんな捨て台詞などあっさり聞き流し、オルファウスは呪文を唱える。
最初にオイフェが光の輪に包まれた。 次にセルが、最後にオルファウスが
その中に入り、辺りが眩しくて何もみえなくなったかと思うと、軽く風を
切るような音と共に感覚が遠くなった。




 目覚めると、巨大な転送機が視界に飛び込んできた。 動いているのか
いないのか、低く震動が床を通して伝わってくる。
 猫屋敷か。 そうとわかるのに少し時間がかかった。 辺りには誰もいない。
起き上がろうとすると身体の節々がぎしぎしと悲鳴をあげる。
 壁を支えにようやく立つと、隣の部屋から話し声が聞こえてきた。
高い声でしきりに喋っているのはケリュネイア、ぼそぼそとくぐもった声は
オルファウスと見当はつくが、何を話しているのかまではわからない。
 オイフェはどうしたんだろう。 行かなくては、とはすぐに考えたが、
反して内心を吐露するように思わず溜め息が洩れる。
 ああ、本当はこのまま帰りたい。 エンシャントにはセラが待っている。
もう愛想を尽かしたかも知れないが、多分いる筈だった。
 行きたくない、を十回程繰り返した後、セルは仕方なく扉を叩いた。
「オルファウス、そこにいるの?」
 だが話し声の主はそんな雑音など耳にも入らぬらしい。 いよいよ高い声は
驚いたように大きく、低い声はあくまで小波のように長く連なっている。
「オルファウ……いないみたいだな、じゃ帰るか」
「何してんだ、入って来いよセル」
 小さく扉が開き、ネモが顔を出す。 隙間からケリュネイアが凄い剣幕で
何か言おうとしているのが見てとれた。
「オイフェも起きたみたいだぜ、どうした? 何遠慮してる」
 娘の驚きにどこ吹く風といった調子で尻尾をゆらゆらさせているオルファウス。
「……いやあ、何か取り込んでるみたいだし」
「気にするな、お前も今回は大活躍だったからな。 さあ入れ」
「そ、そうか……それじゃあ遠慮なく……」


 部屋に入ると、ケリュネイアは少しだけこちらを向いたが、すぐ
オルファウスの方へと視線を戻した。
「エルフは私達ハーフエルフを虐げてきた、その長が私を育てて……」
「そうですね、そんなエルフの長が。 それは偽善というものではないか? 
何度もそんな疑問が頭に浮かびましたよ。 でも一一」
 壁際の寝台にオイフェが腰掛けている。 治癒の術を施されたのか、
どこといって目立つ怪我もしていない。 安堵するセルのその表情に
オイフェは意外そうに目を見開き、それからこちらの思惑を探る様に
上目遣いでじっと見つめた。
 何が言いたいのかはわかっていたが、セルは今はそれに耐えられない
気がした。 黙ったまま、目をそらすとオイフェはまだ暫くこちらを
見て考えているようだったが、やがて俯くセルの耳に待切れぬように
問いかける声が入ってきた。
「取り込んでいる所を悪いけど、私の質問に答えてもらえないかしら」
「ああ、すみませんね」
 オルファウスは懇々とケリュネイアを諭していたが、別に気を悪く
したようでもなく、言葉をとめ頷いた。
「ゼリグはどうして私を襲ったの? ドルドラムは?」
 胸に鋭い痛みが走る。 本当になるものなんだな、とぼんやり思う。
「……どうして私はここにいるの?」
 答える前に、オルファウスは少し間を置いた。 
「話すと、少し長くなるし」低く穏やかな声が、やけに大きく響いている。
「とても悲しくなると思いますが、それでも構いませんか?」
 オイフェがどう答えたのかはわからなかった。 オルファウスが話して
いる間、セルはずっと俯いていた。 淡々と語られる、その一部始終に
嘘はなかったが、それでもそれが今し方自分の身に起きていた事のようには
感じられなかった。 いや、自分でもまだ全部は振り返れなかった。
思い出そうとするとまず苦しくなり、断片がそれを覆い隠すように次々
現れては消えてゆく。 
 洞窟の中のどこからか差し込む光に、舞い散る白い粉がちらちらと反射
したのを、何故かはっきりと覚えている。
ゼリグはそれを全身に浴び石と化しながら、我に帰った様子でセルを見た。
刹那に後悔ともつかぬ曇った色が目に浮かび、すぐに物言わぬ冷たい白に
没してしまった。
 泣きたい気もするのに、力が抜け落ちてそれすら出来ない。
ドルドラムの亡骸はまだあの場所に横たわっているのか。 乾いて砂まじりの
風が、口に入って気持ち悪かった。 邪竜の気配に惹かれてか、どこからか
集まってくる怪物がそこら中を彷徨う断層。 途中で倒した怪物も、岩場に
血を流し弊れている神官も、程なくあの風の中に消えてしまいそうだった。

一一「と、こんな感じです」
 流れるようなオルファウスの言葉が止まった。
ややあって、オイフェの声がそれに答える。
「そう……二人とも、死んだの……」最初は虚ろだったが、徐々に力が
戻ってきた。
「話してくれて、ありがとう。 ……本当の事を知らないより、気が楽になったわ」
「そうですか。 強いのですね、貴方は」
 その声にはどことなくほっとした様子があった。 やはり猫屋敷の賢者様と
いえど、気は重かったのだろうと察せられた。

「セル」
 オイフェが声をかける。 ずっと俯いたまま、セルは少しだけ顔を上げた。
「私を、あなたの仲間に入れてくれないかしら」
 皆が一斉にこちらを見る。 セルは答えず、もう少しそちらへ目を向けた。
「闇の神器を持つあなたといれば、ネメア様を探せる。 それに、ゼリグを
操っていた奴も、きっとあなたの前に現れる筈。 仇は、取りたいわ。
足手まといには、ならないはずよ」
 答えがまるで浮かばない。
「どうかしら、セル」
 断る理由もなかった。 けれど、喜んで迎える気にもなれなかった。
もう何もしたくない。 何も考えたくないと考える事すら鬱陶しかった。
 ……ああ、でもエンシャントには帰らないと。 セラが待っている。
 不安げなオイフェの視線とぶつかる。 セルはゆっくり頷いた。
「いいよ。 一緒に行こう」

 どうやって部屋を出たのかわからなかった。 が、暇を告げようと
振り返ると、ネモが飛び出してきてセルを遮った。
「エンシャントへ行くんだろ」彼は如何にもどうでもいいと言いたげに、
しかし端々にかなり勢いこんだ口調を残しながら話し出した。
「別にどうでもいいんだけどな、その、近い内にまた戻って来いよ。
俺は構わないんだが、ほら、お前、そうじゃない奴もいるだろ?
まあ、あの、そのオトコオンナが張った結界も丈夫だけどよ、別に
万全じゃないからな、だから一一」
「すぐに戻ってくる」セルは微笑した。
「だからザギヴの事、頼むね。 ありがとう」
「いや、その俺は一一」
 構わず扉を開け、外へ出る。 もうだいぶ陽は落ちて暗くなっていたが、
西の空はまだ明るかった。
「晴れているのね」
 後ろからついてきたオイフェは、空を見上げながら呟いた。
「雪が降りしきる中に、ゼリグが佇んでいる夢を見たのよ。
あまりはっきりしていたから、夢だなんて思えなかった」
「……オイフェ」
 セルはやっと口を開いた。
「明日必ずここへ戻るから、それまで待ってて貰えないかな」
「わかったわ。 私の方でも、色々調べてみたいし」
「悪いね」セルは数歩進み出たが、すぐまた足を止めて言った。
「あの、その雪ってさ、……」
「え、何?」
「い、いや」セルは背を向けたまま首を振った。
「何でもないんだ、ごめん。 ……それじゃ、明日来るから」

 森に入るとあちらこちらに薙ぎ倒された樹木が転がっている。
また凄い怪物でも出たのか、まあ道が明るくていいがと思いながら
セルは歩を進めた。
 すぐに暗くなって来る。 頭上には幾つか星が瞬きはじめた。