目を閉じると初めて会った時と同じ、微かな風が吹いている。
久方ぶりにみるその場所は変わらずとても静かで、誰が世話していたのか
やっと新芽を出していた枝には花が咲き誇り、早くも散りはじめた物もあった。
ドルドラムはゆっくりと、純白の、或いは灰色に変わり這い上がる苔に覆われた
物言わぬ石の列を懐かしむように見て歩き、最後に一際大きく、まだ岩面を
剥き出しにした粗野な墓の前で立ち止まると、亡き人を悼むように胸の前で
両手を組み合わせ、暫し俯いた。
ここには忘れられた人々の歴史が残っている、既にその微笑も、息遣いも
感じる事は叶わなくとも、彼らが置いていった過ぎ去りし日々に思いを馳せた時、
どれ程戻りたいと思っても決して戻れぬ時への感傷へ身を委ねる事ができた。
しかし、今日の彼はどこか落ち着かず、しきりに咳払いをし、何か物音がする度
顔をあげた。 思いが及ぶのもその墓所に眠る人ではない。
共に闇の神器を探していた仲間と別れて二週間、そろそろ何らかの音沙汰が
あっても良い筈だが、未だ知らせは届かない。
一応、少なくとも一方の目的地はわかっている。 千年を見渡す風の巫女エアの所だ。
獅子帝がその去就について尋ねたとされる会話の詳細など、知ってどうするものかと
彼は思い、事実そう進言したのだが流石というか何というか、鉄火姫と呼ばれた
美貌のダークエルフは、頑として受けつけず遠くエルズまで行ってしまった。
もう一人の行方は杳として知れなかった。 オイフェが旅立った後、一緒に
エンシャントまで戻るとドルドラムは信じこんでいたのだが、これも厳しい表情を
崩さぬまま、短い会話の後「暫く考えさせてくれ」と言い残し姿を消してしまった。
単純で頭の固いボルダンめ、一体何をやっているのやら。
ドルドラムは内心毒づいた。
決して同行していて楽しい訳でも、好意的な感情も持ち合わせはしなかったが、
それでも彼は二人の事を完全に心の隅から追いやる事はできなかった。
どちらも目的に対してひたむきで、どこか無器用な所まで似ていた。
行く手を塞ぐものを迂回する事などできず、荒々しく闘志を剥き出しにして進み、
宿敵との邂逅を怖れない。
仲間内で意見が対立しても、まるで折り合うという事を知らず、彼は幾度も
仲裁の労を取ったが諦めて投げ出し、事態の沈静化を願って見守る事も多々あった。
しかし今度の様な事はなかった一一ドルドラムは深く溜め息をついた。
此処には大股にどんどん進み、後ろなど気にもせぬダークエルフのよく通る声も
なければ、ぼそりと不満をもらすボルダンの呟きも聞こえない。
一一「何故じゃ、どうしてエンシャントで帰りを待たない?」
「無理にでも行くというのなら、もうついてはゆけぬ。 我は抜けると言っただろう」
ゼリグは彼の問いににべもなく答えた。
「それはあくまで今度のエルズ行きの件だ」老いた神官は食い下がった。
「お主とて、本当は気になっている筈じゃ、ごまかされんよ。 ……そうでなければ、
もうとっくに……去っているだろうからな」
「短い間とはいえ、共に旅をした仲間だ、多少は情も移る。 ……だが、それだけだ」
「お主がこだわるのは、そんな詰らん意地より、むしろ別の事ではないのかな」
ドルドラムは黙って少し考えた後、静かに口を開いた。
「うちの鉄火姫がこともあろうにセルと組んで、儂らの言う事も聞かず飛び出したと
いうのが、お主には我慢できんのじゃろう」
ゼリグは忽ち顔を紅潮させ、気色ばんだ。
「そ、そんなことは無い!」
「まだあるぞ」ドルドラムは構わず続けた。
「山賊の砦で取り残された子どもを見つけた時も、オイフェだけが何とか助けて
やろうと言い張った。 お主は突っぱねたが一一」
「甘い考えだ。 神器の行方がわかったというのに、愚図愚図できる訳もない」
「そう、確かに戦場でひとりひとり迷った子どもを拾って歩くような真似は、儂等は
出来ぬし、そんな暇もない。 如何にも女らしい、感傷的な見方じゃ。
が、やはり奴は自分の意見を曲げず、埒があかぬとわかると居合わせたセルに
手紙を言付けた」
「……何が言いたい」
「聞かんでもわかっておろう」ドルドラムは渋面を作り、目を合わせようとしない
ボルダン族の大男を憐れむように見上げた。
「いざとなれば宿敵にですら命を預けて悔いぬその一途さを、お主は我らの間でこそ
発揮して欲しいと内心思っていた。 そんな事は無いと否定する前に、よくその胸に
聞いてみるのじゃな。 どれだけ反発しおうても、結局お主はオイフェを嫌いきれては
おらんのじゃ。 頼りにする相手がセルだという事が、我慢ならんのじゃ。
奴はどんどん強くなってゆく。 その姿をみる度、くだらん自尊心に傷を付けられる
のが不愉快でたまらんのじゃろう、違うか?」
ゼリグはかっとして何か言いかけた、一一が、あくまで冷静なドルドラムの目に
ぶつかると、言葉につまり、悔しそうに顔を歪めた。
「……我はこの地を離れる」ややあって、ゼリグは目をそらせたまま呟いた。
「主の言葉を否定はしない。 だが……暫く考えさせてくれ」
あれから帝都エンシャントに帰り、住み慣れた家で寝起きしても、もう以前と
同じ生活には戻れない。
あの時ゼリグに話した言葉も、彼の苦渋に満ちた表情も、全てそれは自らにも
いえる事だったのだ。
いつかの日々と同じように散策し、変わる事のない静謐な空間に佇み、穏やかな
陽光を浴びてアスラータの加護を祈ったとしても、心はすぐにうつろい、
微笑する死者の幻影は失せ、突風の如き激しい声が生々しい実感を伴い響いている。
一足先に蕾を開き、まださほど色褪せぬ花がひとひら、風に乗り老いた神官の
眼前で静かに舞い降りた。 急に胸を掴まれたように寂しい思いが突き上げ、彼は
顔をぐしゃっと歪めるといつまでもその場に立ち尽くしていた。