朝まだ早い内に乙女の鏡を訪れると、湖面に薄く白く靄がけぶり中程に
遺跡が黒き影を映している幻想的な光景を目にする事ができる。
しかも今日はそれだけじゃない。 影がむくむくと起き上がり人の形になり、
やにわ両腕を振り上げのびをし、体操まではじめる、そんなおまけ付きだ。
 だって、岩だらけの場所で寝起きするとあちこち痛むんだもの。 夜明け前の
星も消える暗いとも明るいともつかぬ時はしんと冷えて、湖から流れてくる
冷たい風に思わず目がさめたし。

「全く、どうしてアタクシが」
 喋り出した声はそのまま何のひっかかりもなく、するりと吸い込まれ消える。
「……こんなことを、」
 此処に何人いようが、自分の声は自分にしかきっと届かない。

 言葉はそのまま途切れる。 フェティはきゅっと薄い唇を引き結び、ちらりと
元来た方向へ目を向けた。
 きれいな湖なのかもしれないけど、ずっと見つめていたい程じゃないわ!
さっさと怪物退治でもなんでも片付けよう。 あても外れちゃったから。

 乾いた貧弱な苔がこびりついた地面は、剥き上がった皮を幾重にも薄く割いて、
踏み出すと下に沈む泥と混じってぬちゃりと気持ち悪い感触を与えた。
 眠くって仕方ない。 うんざりしつつ、半分は惰性で歩を進める。
今更依頼された怪物を見もせず帰る訳には行かない。 何しろそこらへんの
遺跡で野宿までしてようやく来たのだ。 前は絶対にいやだと主張して
譲らなかったものだが、今は言った所で無駄というかそもそも誰もいないし、
自分で考えろという前に既に辺りは日が沈みかけていたりする。
大体行動計画を練るなんて性にあわない。 なくたって何とかなる。
 セル達といた頃は、あのリルビーが姑息に適当に予定を詰め込んでいた。 
だから大抵は人の集まる町へ向かう様になっていた。 祭があるとか、
大きな酒場があるとか。
もっとも、それに気付いたのは彼らと別れてからの事だけど。 まあとにかく
そんな下らない事情はどうだっていい、それは確かだ。

 顔をあげるとすぐ近くに思えた湖の向う側がまだまだ離れていて嫌になる。
さっきと殆ど変わらないんじゃないかしら。 こういう時は何も考えず地道に
歩き続けた方がいいには違いない。
 それにしたってつまらなすぎるのよー! と一度後ろを振り返ってみたが、
こちらも行きとそう変わらぬ長い道が延々続いていて若干ぐらついていた気持ちは
一瞬で吹っ飛んだ。
 行くわよ。 別にどうって事ないわアタクシには、これくらい。 ええ勿論よ。

 地道に着実に確実に近付いている気がしない程ごく僅かな進度に退屈して、
何か別な事を考えようと必死に頭をめぐらせる。
つまらない。 本当につまらなすぎる。 時間の浪費としか思えない。 何たって
ひたすら歩いているだけ。 
聖光石をめぐる戦とか、洞窟の奥に封印された秘密とか、如何にも人間らしい
俗な英雄潭ならいくらでもあのリルビーが夜話に聞かせてくれたけど、大抵それは
苦難の旅路を乗り越えたり、奇妙な町を訪れたり波乱には事欠かなかった。 
そうして話の工夫が尽きたら主人公はいきなり魔王の城の一歩手前に立っているのだ。
 結構な落差だ、もう止めようかなとか思ってるけどじゃあ、っていう決断する
きっかけも別になくてそのままのそのそ歩いてる。
 とはいえ以前も大して変わらなかった筈だけど。 本当につまらない旅ばかり。
聖杯を巡る冒険にしてはやってる事といえば延々町から町へと手紙を運んでいて、
合間に偶然出会ったゴブリンを追い掛けるけど必ず見失う。
あれが冒険ならどこか理解の範疇を越えてる。
それなのに、やけに楽しそうに皆歩いていて。 うっかり自分まで何だか
愉快な気分に乗せられる所だった。 ああ危ない。 
 そろそろ少しは前に進んでいてもいいのだけれど。


 いつか歩いている内景色は森の中に変わる。 先にはドワーフの地下王国へ続く
赤茶けた道が連なっていて、どっとわいた意味もつかぬ賑やかな声が辺りを包んだ。
顔をあげれば其処には、ああそうだね、うん大丈夫じゃないかなとセルが適当に
相槌を打ち、目の前にはレルラの赤い帽子がぴょいぴょいと揺れて踊っていて。
一一ちょっと、また同じ事繰り返す気なの。
隣を歩く無愛想な男に声をかける。
「世界が驚きに満ちているって結局どうなったのよ、このままだと行き先は
湖に住む怪物から大きな酒場になっちゃうわ。 それで必ずあの髭だらけの
ドワーフが先に来ていてこちらを見つけて馬鹿みたいに笑うのよ」
「それなら、一一それでもいい」
「冗談じゃなくてよ、アタクシは戻らないわ、絶対に嫌よ」
 輪郭だけ整っているそれはいつもより更に黒く染まり、いくら問い詰めても
決して思うような答えは返ってこず、そうしている内に不意に世界は元へ戻った。
 旅の挿話も材料が尽きたらしい。
ぐるりと湖をまわり丁度向う側に見えていた紫色をしたセヅネが茂みを
作っている空き地のような場所にさしかかる。
高額な依頼の対象となる怪物は、だいたいこの辺りに出没していた。 筈だった。

「此処じゃないのかしら」
 ぐるりと見渡す。 目を皿にして見回す。 血眼になり草一本に至るまで探一一
す事は流石にしなかったけれど、どこをどうみても怪物など影も形もみえやしない。
それどころか、いつもその辺をうろついている水辺のジェリー達もだ。
 とりあえず見切りをつけ、湖も離れ奥地へと進む。 よく知っている通りその先は
行き止まりで、岩の間から湧き出る水が小さな池を作っている。
そこにも何もいない。
「おかしいわね」
 そう言いながら池に近付く。 ただの一匹も姿を現わさないなんてと呟きつつ
背に負った袋を開け、小さな瓶を取り出した。
その水を詰め、エンシャントを迂回して西へと向かい、アキュリュースのギルドに
持ってゆく。 それが今抱えている依頼だった。 テラネへの配達の帰りに寄っても
十分間に合う、そう計算して引き受けた。 
 一一でも。

 テラネからここに来るまで、セラにそれを話す気にはなれなかった。 宿屋の
主人が怪物退治を持ちかけなければ、そのまま通り過ぎたかもしれない。
話せば、さっさと行けと言われるに決まっている。 それこそ何のためらいもなく。
「冗談じゃなくてよ、何でアタクシが、どうして高貴で優雅なエルフであるところの
アタクシが、あんな男にそんな事を言われなきゃならないのかしら。
むしろその場にひれ伏し涙を流しながらフェティ様ああどうか私めを置いて行かないで
くださいと必死にすがりついて頼むのが本当ではなくて?
そうよ、そう言わせなくちゃ一緒になんかいてあげられないわ!」
 ひとり滔々と喋り悦に入り、いい気分になった所で手にした瓶を思い出す。
この水を持って、アキュリュースに行けば依頼は終わる。 一方、何事もなかったかの
ように宿屋へ戻り、セラと旅を続けるという選択肢もあるにはある。
一一あの男は、それがどんなに光栄であるかなんて微塵もわかってはいないけど。

 冷たい水に手を浸し、思わず身震いする。 考えようとしても、まるで浮かばず
迷ったままで、けれど幾らも経たず何故か訳もなく腹が立ってくる。
「ああ、もう、どうしてこんな事で悩まなくっちゃならないのよー!」
 腕を高々と掲げ、そのまま捨てようとしてまた一瞬動きは止まった後、何もかも
思い切るように頭を打ち振り力を込め瓶を放り投げた。
弧を描きそれは岩壁を越え、森の向こうへと消える。 耳をすませたが、壊れた
ような音はしなかった。 暫く佇み、何故こんな所にまだいるんだろうと薄く笑い、
元来た方へと振り返る。

 これで後は宿屋へ戻れば良いのだ。 しかしそう思っても特に気は晴れず、
いつまでもぐずぐずと辺りを逡巡し続ける。
そういえば湖に出るという怪物はどうなったのか。 大体予想はついたが。
怪物。 以前にもセル達と此処へやって来た事があった。 通常の依頼とは違う。
ティラの娘と呼ばれる古の怪物退治だ。
その時にもセヅネの茂みのある場所からずっと何もいず、最奥の池に至って
やっと姿を現わした。
 さあ行こうという時に変な仮面の騎士が来て一一そう、丁度今いるこの場所だ。
あれも不思議といえば不思議だった。 セルやあの鈍感で無愛想な男は何か知っている
ような口振りだったけど、結局本当の所は何もわからないままで。
各地に出現したティラの娘退治の時だけ来るので、多分名を上げたいとか力を
試したいとか、冒険者によくある性格だったのだろう。
 案外今回も来ているかも、ふとそんな事を考えた。 普段ならどうでもいいが、
何だか急に気になってたまらなくなった。
「別に宿屋に戻りたくない訳じゃないけど」
 誰にいう訳でもなく呟き、いそいそとセヅネの茂みのある方へ歩きだす。
確かこのあたりを通り過ぎようとして声がかかった筈だ。 確か一一

 誰も来なかった。
そうよ、そりゃそうよ、今回はティラの娘じゃないもの、当たり前だわと笑い、
さあやっぱり宿屋へ行きましょうと歩きかけたが幾らもせずにまた戻ってきた。
「もう一度くらいやってみても一一」
「何だ、ここに居たのか」
 誰と確認する前に無愛想な声が降ってくる。 驚いて口がきけずにいる相手を
セラは不思議そうに一瞥すると、つかつかと奥の池のある場所へ歩きだした。
「怪物なんて見なかったわよ」
 ようやく気を取り直し、フェティは声をかける。
「そうらしいな。 ……それか、もう退治された後か」
 池の前まで来るとセラは、何か思い出している様に暫し佇んだ。
「はっきりしないわね。 セルが来ているの、知ってたでしょ」
「居ないのなら仕方ない。 先へ進むか」
「あんたはセルを追いかけているだけよ」
「お前だってそうだろう」
 いくらか投げやりな口調でセラは答えると、背に負った袋を開け、小さな瓶を
取り出した。
「ハッケエの滴は時折依頼に出るからな。 少し貰っておこう」
「ちょ、ちょっと……それは」
「何だ、お前も欲しいのか?」
 面倒だと云わんばかりにセラは振り返る。 要るとも要らないとも答えられず、
言葉にならない声をあげた後、何だかどうでもよくなりもういいそんなもの
構わないわと半ば自棄気味になってフェティは高々と笑い声をあげ胸をそらせる。
「安心なさい」
 眼下に唖然としたセラがぼんやりと映っている。
「寛大なアタクシはあなたを決して見捨てたりしなくてよ!」
 セラはそそくさと池に向き直り水を詰めはじめた。