……やっぱり、暗くなるんだな。 
狭い室内に射し込む日の光は細く長く奥まで達したかと思うと衰え、
急速に辺りは薄暮へと移りゆく。 何もない日。
 寝台に腰をかけ、片膝を立てたまま壁にもたれている。 妙に感覚は鋭敏で、
わずかな震えすら直に聞き取れる癖に、一方では何か張り巡らされた膜の内側に
閉じ込められたような、こもった感じもしみついて離れない。 この部屋、
自分のいる僅かな空間だけが全てで、あとは時の流れすら自分から遠く、
離れているように思えた。 
 立ち上がろうと思ったのは、いつだったか。 振り向いた視線の先にはただ
からっぽの空間だけが広がり、そのうち思い出そうとした事すら吸い込まれ
どこかへと消えてゆく。
けれど他の事ならたっぷりと詰っている。 このまま干涸びた屍体になるんじゃ
ないか、とか、じっと壁ばかりみていてどうかしてしまうかも知れないとか、
そんな悲観的で楽しい妄想には不思議と安心させる力があって、もっとひたれ、
深く身を沈めよ、とつい引き摺られてみたりもしたが、それも一旦醒めてしまうと、
そんな事あるわけがない、そう承知した上の耽溺である事もよくわかっていた。
どうにかなってしまうには、まだ早い。 いや、むしろもう遅いのか。
 醒めるというのは妄想を白日の下に晒されるという事だ。 余りの恥ずかしさに
赤面し、意味もなくじたばたともがいてみる。 勿論、胸の内で。
 どうせ……今より更に腹が減って、どうしようもなくなってからまだ幾らか
時を逸した頃、きっとのそりと立ち上がり、階下へと降りてゆく。

 やれやれ、と呆れ顔を押し隠しきれぬ様子で宿屋の主人は料理を運んでくる。
それはそうだろう。 もっともだ。 主人の嘆息には深く頷ける。
あるいはごく控えめに、一体この後の旅のご予定は、くらい訊ねてくるかも
しれないし、もう随分と長い事お泊まりですねえ、くらい言い出すかも知れない。
 え、とんでもない。 気に入っていただけて何よりですよ。 そうそう、
今朝ほど野菜を持ってきた子どもが話してくれたんですがねえ……
「明日だ」主人と会話に興じる気はない。 「明日には次の町へ向かう」
 主人はいささかむっとし、しかしすぐに笑顔に戻る。 これでいつまでも
居座り続ける客が出てゆくとわかったからだ。 それは残念、まあ気を
つけてまたいらして下さいよ、とかありきたりの言葉を並べる。
 そう、明日だ。 明日はここを出よう。 少なくともその積りである事を
言い出したりはするだろう。 階下におりさえすれば。
いやもっと前、寝台から立ち上がれば、だ。

 馬鹿じゃないの、何が立ち上がればよ。 くだらないわね。 一一

 小柄なエルフは扉近く、薄暗がりの中腕組みしたまま辛辣な口をきく。
顔を思い出すのに時間がかかった。 
 いったい何処へ行ってた。
 乙女の鏡よ、怪物が出るってここの人間が言ってたじゃない。
 本当に退治に向かったとでもいうのか? 信じ難いな。
 うるさいわね。 ド下等生物にあれこれいわれる筋合いは一一
小柄なエルフは何度も同じ台詞を少しだけ違えて繰り返す。
 ド下等生物にあれこれいわれるなんて、あれはどうだって、冗談じゃなくてよ
ド下等生物にそんな事いわれては…… 
長くなる言葉は迷っている間に途切れた。 半端に実感を伴った妄想は去リ、
何もない暗がりだけが残る。 

 いつまでたっても誰もこない。 フェティは本当に乙女の鏡へ行ってしまった。
宿屋の主人に頼まれたと話していて、いつのまにそんな殊勝な冒険者になったのかと
笑うと、やる事があるのよとむきになって怒っていた。 
それでも、誰か来るんじゃないかと考える。 自分の知らぬ所から誰かが突然に。
 階段のきしむ音を思い出そうとすると、微かに聞こえたように思う音が果たして
本当に外で鳴っている音なのか、記憶を反芻しているのか判別がつかなくなる。 
 誰かにいてほしいとか、一人でいるのは寂しいとか。 そういう訳でもない。 
少し退屈な気はして、それから色々なくだらない事が思い浮かぶ。
今何時だろうとか、スープに入っていた得体の知れない野菜とか。
そしていつしかそんな事もどうでもよくなり、ひたすら白い紙を広げているような
錯覚にとらわれて抜けられない。
 それから一一いや、そのくらいにしておこう。

いっその事、あの女を追い掛けてみるというのはどうだろう。 乙女の鏡は
そう迷う所でもなかったし、手に負えない怪物がでてくる地点なら尚の事
限定されている。
まあ、やらないが。  そういえばあの女はその話を持ちかける時、当然一緒に
くるものと思っていたらしい。
一一「どういう事? アタクシにあんな所までひとりで行けっていうわけ」
「断ればすむ話だろう。 とにかく俺は行かん」
「何でよ」
「何でもだ」
「怪物退治なんてくだらない仕事だから? アタクシだってそれは思うわ。
ただちょっと気になるだけよ」
「それならなおさら勝手に何処へでも行けばいい。 簡単だろう?」
「そうよ、簡単よ、あなたの力なんかひとつも必要じゃなくてよ」
「ああそうだ。 大陸一の冒険エルフ様なんだからな」
「ええその通り、アタクシが困っているから言ったんじゃないの。
アタクシの素晴らしさに感服し、寛大にも同行を許した事に深く感じいろって
教えてあげているだけ」
「実に有り難い話だ。 しかしせっかくだが丁重に辞退させて頂こう」
「アタクシだって本当はあんたなんかお断りよ。 ……そうよ、嘘じゃない。
自分がどれほどの幸運を投げ捨てたか、そこでゆっくり噛み締めている事ね」一一


 幸運ではない。 それは確かだが、まだ怒りながら部屋を出てゆく背中に、
多少なりとも惜しむような感情がおきたのも否定はできなかった。
おかしいだろうか。 自分でも少し不思議に思う。 ごく自然な感情の帰結と
いわれたらさすがに赤面するだろうが。
 ここの宿屋に着いて、数日が過ぎた。 その間、あの女はありとあらゆる
文句や誘いをいやという程もちかけてきた。
 いつまで此処にいるの、どうして行かないの、もうすぐアミラルで祭が
あるらしいわ、アキュリュースで風桜の見ごろだって聞いたけど。
「あんたロセンに行くんじゃなかったの?」
 心底不思議そうな声はまだ憶えている。 ロセンか。 
ひとりで旅をするようになってから、あの女にも話した通り、テラネから
エンシャントを経由してロセンへと辿りつく道のりを延々歩いてきた。
その内にここを出たら、自分はやはりロセンへ向かい、ギルドで何か変わった事が
ないか尋ねるのだろう。 そうだ歩きだせばだ!
だがもう疲れた。

 本当はロセンに配達する手紙など持ってない。 テラネを発つ時、あまり急いで
いたからだ。 だが別に構わないだろう。 そんなものはどうでも良い事だ。
結局は同じ道を辿る口実にすぎないのだから。 誰への口実? 勿論自分へのだ。
 此処を離れる訳には行かない、その理由を持っておく為だ。 歩いてゆかなければ
ならない、そう思い続ける為だ。
 そうしていれば、考え込まずにいる事ができた。 離れていないのだから、
何か起きればすぐに駆け付ける事ができる、そう安心しているつもりになれた。
 そんなもろい感情を、あの女は遠慮なく試しにかかる。
何故どこへも行けないの。 その問いに答えともつかない拒否をし続け、今朝
勢いよく扉を開けてあの女が出てゆくのを見送った後、まず感じたのは
もう責められないという安堵だったか、あるいは多少なりとも気にかけただろうか。
いや、そんなきっぱりとしたものではなかった。 残念なような、楽になったような、
急に力が抜けて、寝台に仰向けに寝転がり、暫く天井をみつめていた。
その間は他の事も考えられなかったと云ったら、あの女はどんな顔をするだろうか。


 いつの間にか、寝台の斜め向こうの壁をじっと凝視している自分に気がつく。
また、振りかえらずにいられない、か。 同じ事を飽きもせずよく繰り返すものだ。
次は、其処に座っていた者の幻がまるで今実際にいるように錯覚する程、強い存在感を
もって現れる。 ……正当な手続きを経て思い出に囚われる訳だ。
 まるで何かに義理立てでもしているみたいに。
途中までは円滑に進んだが、顔を思い出すのにまた少し時間がかかった。
その事に愕然とした。 ような気がした。 いや、気がするべきだと思った。
 が、きっとこれからもっと時間がかかるようになる。 思い出す回数も減り、
会話に上らせないよう慎重に避けている内本当に話題にでなくとも平気になり
その事実にすら気付かない。
今ですら、こんな目的を失い腑抜けのようになって一番辛い時にある筈の今ですら。

……セルは。

もう過去のことになりつつあるんだろう。 

一旦その名前を出してしまうと、ずいぶん気が楽になる。
 そうだ、どうかしてしまうなんて事は、起こりうる筈もなかった。 耐えられ
ない訳がない。 少なくとも姉を探していた時よりは。 姉の身体を乗っ取った
魔人が妖艶な微笑で目の前に現れた、あの頃に比べれば。
このくらい、何だというのだろう。 相手の心配か。 そんなもの。
「せいぜい、酒が過ぎてその辺でひっくり返っているか、闘技場の片隅で
全財産すって泣きじゃくっているか、その程度だな」

 変な奴だった。 一緒に旅をしていて特によい事もなかったが、つきあいも
長い所為でいつの間にか情が移っていたらしい。
好きであるとか、嫌いだとか、そんなものを持ち出されて問われても困るが。
姉を考慮に入れずとも、……こういう時大抵比べてるんだろうと云われるが、
そうじゃなくても人間というよりは猿か何か、別の生き物にみえた。
どうでもいいが、いないと気になる。 認めたくないが。 実際、薄れつつあるし。
 だが追い掛けたいと思うだろうか。 今こうして何処にもそれず、ただ同じ道を
回り続けるのは、そういった気持ちから来るのだと説明できないことはない。
そう考えられれば、楽だった。  

 しかしこれから先も、きっとあの猿に似た奴の姿を探そうとはすまい。
そうして此処から離れる事もきっとありえない。
あの女が笑う声が今から聞こえてきそうだ。 
馬鹿だといわれようが、罵られようが、結局の所。
 自分はこうしなければいけないと思わなければ不安で仕方ない。
観念的なものではなく、もっと、具体的に。 
誰かに。 何かに。
 姉も心配そうな表情でごく控えめに話していた。 後残り九割は精霊と自然の
関係と歴史とこれからの展望に埋まっていてうっかり聞き流すには最適すぎるくらいに。
 一一もう、私に縛られる事はないのよ、セラ。
そういわれると却って、何だか見放されたような気がした。
気がした、ではなく実際、無意識の内にお互い、相手を自分から切り離して
考えることを覚えたんだろう。 真向かいから覗き込まれるというのは、時に
ひどく寂しい気持ちを起こさせるものだ。
 姉は少し口ごもり、顔を曇らせる。
「今のあなたは、とても、辛そうに見えるわ」一一

 辛い? 
縛られる? いや、姉の言を借りていうなら、それは違っている。
もう縛られてなどいない。 だがもっと、どうしようもないものに縛られた。
つまり、
「縛られたいんだ」

 口に出し、その声の大きさに我ながら驚く。 
そうだ、その通りだ。 縛られたい。 自分もそこらの人間と何ら変わりないと
いう事だ。 癒されない孤独? だが、そのくらい。
孤独で、誰にも心を許せないのだ、と思っていれば幸せになれる。
このまま自由に何処かへと旅に出る事は気がとがめる、そう思う事が自分を支えた。
安心できるからだ。 行動に、思考に、選択肢をもちそれ以外の可能性を引き算する。
後は細く残る道だけを辿ればいい。 
 そうだ、それだけの事だ。 姉はもう心配ない。 セルも要らない。
必要なのは自分を縛る鎖と、はめておく枠だ。 そしてそれがなければならないと
思う事そのものが自分を緩く薄く縛り、幸せにしてくれる。
 何だ、自分はもう幸せなのではないか。 気付かなかっただけで。
そう、自分は既に、「縛られている!」
 高揚した気分のまま部屋を飛び出した。 転がりそうな勢いで階段を駆け降り、
慌てて起きてきた宿屋の主人に早くしろと金を渡す。 
 ああ、もう何も気に病む事はない。 何故どこへも行けぬと悩む必要もない。
思わず笑いがこぼれる程自由だ。 どこへでも行ける。 何でも出来る。 
ただ、どこへも行けないと、これしか出来ないと、縛られているだけで。



 いつものようにエンシャントへ向かうついでに、乙女の鏡へ寄ろうか少し
迷っていた時だった。
 吹き付ける風はいやに冷たく、辺りははや暗くなりかけている。
幾分気持ちが醒めるのを感じつつ、どんよりと曇った空をみあげた。
また先程の宿屋へ戻りたくなって、暫く立ち尽くす。
何をしようがひとりだ。