ずっと左手に小川の流れを見ながら北へと歩き続けると、小さな橋があり、
ついでその背後に遠く霊峰トールの山々が見えて来る。
あと少しで村だ。 セラは軽く安堵の息をついた。
ロセンを出て遠回りの道を選び、異形の怪物が徘徊するエンシャントをひとしきり
覗いた後、テラネのギルドへ向かう。 最近は専らこのコースばかりだ。
ひとり旅には慣れていたし、特に困る事もなかった。 強いていえばテラネでは
冒険者を泊めてくれる宿屋などないのが難点だったが、大抵は酒場で時を過し、
木の上に小屋のあるおかしな場所で星を眺めるか、街道筋の小さな宿まで歩くか
どちらかだった。
寂しいとは特に感じない。 危険じゃないかと云われれば、それは多少は
あるかもしれない。 街道も森もいうに及ばず、うろつく怪物どもが最近は
より一層凶暴になり、今までなら闇の勢力の強い、秘境の奥深くにしか棲息
しなかったような者まで這い出てきている。
世の中は荒廃し、激動したままそれもまた何処かへと流れてゆく。 奇しくも
今朝がた出てきた宿屋で青竜軍の噂を聞いたばかりだ。
「いつかやるだろうと思ってるけどな」訳知り顔に商人は囁く。
「将軍は二人とも死んで、もう一人もどうか怪しいらしいよ」
「一兵卒から将軍、そして皇帝か。 勢いってのは恐ろしいねえ」
そういえばミイスへ久しぶりに立ち寄った時もそんな風向きになった。
姉はディンガル帝国も将軍が台頭して出来たから、とごく平静に話しだす。
「そもそも神聖帝国アルレシア末期に一一」いや歴史なんてこりごりだ。
別にアカデミー出張授業を受けたい訳じゃない。
世界が変容しようが、自分はきっと同じ道順を辿り続ける。 歩く先に
みえてくる風景が草一本生えぬ荒野だとしても、迷わなければそれでよかった。
橋を渡り、足下にせせらぎの澄んだ音を心地よく聞き、村へと入った。
一瞬ではあるが、眼前の光景が見知らぬものに思える。 やや遅れてついてきた
記憶がその輪郭を正確になぞり、安心と、余計な意味をそこにつけ加えた。
ほんの僅かな空白が必ず差し挟まれる。 最近、よくある事だ。
何をみるにも万事この通りで、ちょっとした記憶の枷がかかる。
別に困る程ではないのだが、頭の中に薄い霧でもかかっている様で気にはなった。
セルが居たらどう言うだろう。 きっと、呆然と突っ立つ所をじっと穴の開く程
見つめ、にやにや笑いながら「いいや、何でも」と答えるに違いない。 全く。
無遠慮で、図々しいくせに、いつまでたっても何処かおどおどしていた。
最後にウルカーンで会って、もう大分過ぎた。
今でも時々気にはなるが、どうという事はない。 セルなら、たとえ一人だって
問題ないのはよく知っている。
一一「何か変わった事って?」
「ああ、そうだ。 何か起きたという話はないか」
重ねて問いかける。 そんな積りはなかったが、語調が幾分きつくなった。
ギルドの店主は腕組みをし、頬に手をあて何やら考えているような仕種をしてみせる。
「たとえば、神話に出てくる魔物が現れたとか、音信不通の村があるとかでもいい」
この質問もこれで何度目だろう。 誰に訊ねても、満足のゆく返事はなかった。
板壁が一枚、たわんで外れかかっている。 斜めに差し込む陽の光に当たっていると、
のどかな空気に無性にいらいらし、もういいと立ち去りたい気分にかられる。
「魔物ねえ……あ、そうだ」
店主はぽんと手を打った。
「この前、青竜軍の兵士が何人か、村に来てたよ」
「青竜軍が?」
「ほら、あれだよ、コーンス狩り。 この界隈にもちょっとはいたから」
話しだして急に周囲が気になったか店主は、いやな話さ、と最後はやや
声をひそめてぼそぼそ話した。
頼まれていた彫像を店主に渡し、幾許かの報酬を手にすると酒場へ向かう。
世間話に興じていた年配の女達が、一斉に黙り込み、輪の中から興味津々
こちらを見つめている。 たった一軒だけある宿屋からは、わざとらしく咳払い
する音が聞こえてきた。
テラネは余所者に冷たい村だ。 霊峰トールに参詣する客がひっきりなしに
往来していた頃は、もう少し賑わっていたと思うが。
今は無口なノトゥーンより雄弁な救世主の方がいいとかで、めっきり訪れる者の数も
減っている。 立ち並ぶ店はいずれも沈黙し、奥の方から誰か彼か注視している
らしい気配が伝わってきた。
監視されているようで、いい気はしない。 いや、コーンス狩りの話が最近なら、
事実その通りかもしれない。
酒場の木戸を開ける。 途端に甲高い喋り声と食欲をそそる匂いが漂ってきて、
外との違いにほっとする。
「いらっしゃい」奥から主人が声をかけた。 「今日は寒いね」
「取りあえず何か一一」勧められた席に腰を下ろし注文しようとするが、その声は
突然どっと沸いた笑いでかきけされた。 露骨に表情を険しくし、そちらをみる。
酒場は騒然としていた。 冒険者たちがぐるりと酒場の一隅を取り囲んでいる。
中心に小柄なエルフがふんぞり返って立っていた。
その顔をみてセラは驚いた。 いや、正確には驚くべきだという気がした。
何故そんな事を考えたか知っているのにわからず、それから記憶がより鮮明に
エルフを彩るとああこの女昔の仲間だったかと得心した。
エルフは余裕のある態度で、居並ぶ冒険者達をぐるりと見まわす。
「ではそんな事が貴方達の冒険ごっこだというの?」
以前と変わらぬ物言いで、周囲を罵倒し、挑発してやまない。
「お話にならないわ、全くもって幼稚ね。 卑小よ!
せめて邪竜の一匹くらい倒してからいらっしゃい。 全く哀れね。
え、アタクシ? あら貴方アタクシの崇高で壮大な旅の話が聞きたいわけ?
よろしくてよ、特別にアタクシが闇の神器を手にするまでの経緯を教えてあげるわ!」
この頃にはすっかり思い出している。 相変わらずだな、とやや呆れ、或いは
畏敬にも似た念をおぼえ、セラは無言で立ち上がった。
どちらにせよ、もう過去の話だ。
「おや、どうしたんだい?」出て行こうとする背中に店主の声がかかる。 しかし、それも
かき消すように金属的でやたらとうるさい声が被さり場に響きわたった。
「何ですって貴方達、禁断の聖杯も知らないの? ド下等生物ってこれだから困るわ。
あれは奇蹟よ! 野蛮なドワーフですら禁酒に成功するという至高の逸品一一」
とうの昔にツィーネの森に帰ったものと思っていたが、まだ旅をしていたのか。
セラは村の出口までくると木の柵にもたれ、暫し休憩をとる事にした。
そういえば此の場所で、よくあの女と話をした。 セルはギルドへ、レルラが
なじみの道具屋へ「ちょっと顔だしてくるよ、何か欲しい物ある?」と明るい声で
尋ね去ってしまうと、後には何の用もなく、これといって知己がいる訳でもない
二人だけが残る。 露骨に嫌そうな表情を浮かべ、嶮のある言葉で当たり障りのない
会話を思い出したようにぽつり、ぽつりと交していたが、そのくせ意外というか、
それ程相手を不快に感じることもなかった。
慣れてしまった為かもしれない。 実際、はじめて会う人間はまずあの女の
そっくり返って尊大な様子にむかむかし、ついでその天上はるか高みから見下ろした
嘲笑に眉をつりあげ、我が道を邁進して他など省みない態度に怒りだすだろう。
「何で出て行くのよ、失礼ね」
そう、この口調だ。
「あんたはもう、とうの昔にミイスの村へ引っ込んだものだと思っていたわ。
まだ旅をしていたの」
以前とひとつも変わる所のないあたり、さすが長寿で千歳をゆうに越える
エルフというべきか。 時間の感覚が人間とは違うと聞いたことがあるが。
顔をあげ、向き直ると、その女一一フェティは口端を上げ微かに笑った。
何だ気付いていたのか、と思いつつ、こちらも仕方なしに苦笑する。
笑いながら、ふと気になった。
「もう、アタクシの高貴さに気後れするのはわかるけど、何か言ったらどう?」
この女、何をしに現れたのか。 知りたがっているという世界の驚きも、
自慢げに喋っていた闇の神器も、既に自分には興味のない事。
それを話して聞かせた者はもう、一緒にはいない。 何処へ行ったかもわからない。
妹が単身旅に出ている事を心配したロイ達が、それとなく連絡をとってはいたが、
セラは決してそこに加わろうとはしなかった。
「先に言っておくが」
目の前の仁王立ちするエルフに負けじとこちらも背中をそらせ顎つきあげる。
見下している、というのを最大限に表した目で相手をみつつ、セラは口を開いた。
「お前を連れてゆく気はない。 他人の面倒をみるつもりはないからな」
忽ち女の表情が険しくなるが、全く意に介さない。 もう慣れた。
「ただし、自分のことは自分でやる、足手まといにはならないというのなら、
同じ道を歩いていても構わん」
今にも叫び出しそうに口をとがらせ、相手はぐっと堪えている。
ようやく平静を保つと、押さえ付けた低い声が返ってきた。
「あら、結局は一緒に来て欲しいんじゃない、わかっていてよ。
さあ、アタクシの優しさに触れて感激の余り涙を滝のように流しなさい。
構わないわ、後ろをみっともなく這いずっても必死についてくればそれで」
「ああ、それと目の前をうろうろするなよ」
邪魔だから、とはさすがに口を控えた。 相手は顔を真っ赤にほてらせ、何か
しきりに言い出したが当然というか終わりまで拝聴する気は毛頭なく、セラは
黙って村の出口へと歩き出した。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
怒りながらフェティはついてくる。
「荷物がまだなら待たんぞ」
「そんなもの、ここに全部あるわ」担ぎ上げたらしい音がした。
「まさか、宿屋に置いてきたとか思ってないでしょうね。 ここはテラネよ」
だが宿を取る事ができないのは冒険者だけ、といいかけてようやく思いとどまる。
酒場でこの女は自慢げに、そして楽しそうに大陸一の冒険者の伝説を話していた。
……かなり歪曲して誤解を振りまいてはいたが。 だが楽しそうだった。