久しぶりに訪れた湖は変わらず青く澄んでいて、遠くになるにつれ、
徐々に色を薄め白くけぶるもやの中にその輪郭を失っている。
 セルはその縁をなぞるようにゆっくり歩いていった。 遠くに巨大な
イエティがのっしのっしと歩いている。 ゼリー様の不思議な球体を浮かせた
スライムがふわふわとその辺りを漂っていたが、いずれもセルには気付いて
いなかった。 
戦闘にならないなら、その方がいい。 今は一人でいる事だし。
何よりこんな綺麗な場所で血を流したくもなかった。 
 湖の中程に楽器を想起させる形をした遺跡がみえている。 エストはいつも
そこで古代文明の調査をしていた。 普段なら彼が目を輝かせ語る
夢物語の如き未来の話を聞くのは楽しかったが、今日は幾らか気分が沈むのを
感じながらセルはその場所へ向った。

 遺跡に着いてみると、何故かエストの姿はない。 当惑と、どこか
安心を感じながら尚去り難くセルがその場に佇んでいると、遺跡よりやや
外れた湖の際の方から不意に声がかかった。
「どうしたんだい、セル? 僕を探していたの」
「エスト……」
 金色の髪の若き考古学者が、深い青の瞳を瞬かせ近寄ってくる。 しばし
此処へ来た目的を忘れ、セルは嬉しくなり笑顔をみせた。

「今はちょっと別な所から調べているんだよ」
 エストは採集した石の欠片を見せながら誇らしげに語る。 それは
そこらに転がっている石と何ら変わりはなく思えたが、セルは所々頷きながら
聞いていた。
 尤も、心の中ではいつ話を切り出そうか考えていた。 闇の神器の探索一一
それは、この異端と呼ばれる考古学者の手から、彼が心血を注いで日夜研究して
いる存在を奪う事をも意味していた。 そんな事はできない一一久々に自分の
意見を聞いてくれる相手に会って喜ぶエストをみていると、そんな依頼は
拒否してしまいたい衝動に駆られる。
だが、この場合は、この神器は一一
「何かあったの、セル」
「えっ」
 セルは間のぬけた返事をして顔をあげた。
「さっきからずっと悩んでいるみたいだ。 言ってごらん。
僕に、話があるのかい?」
「は、話は……」セルは慌てて否定しようとして、すぐにそれも止めた。
結局、言わなくてはならなくなる。
「そう、話は確かにある」セルは曖昧に笑った。
「でも、まだ決めてなかったから」ためらいつつ言葉を選ぶセルをみて、
エストは不思議そうな表情に変わった。
「その話は、」エストは相手の反応を探るように少し間をあける。
わかっていたが、思わず狼狽するセルに、何か確信めいたものを感じたの
だろう、エストはゆっくりと訊ねた。
「……それは、もしかして、闇の神器の事?」

「……そう」仕方なく、セルは肯定した。
「何か知りたい事でも? いや、それならそんなに顔を曇らせたりしないよね」
「エスト、……あなたの持っている闇の神器を、渡して欲しい」
「そうだろうね」エストは予期していた風に微笑した。
「確かに僕は、神器をひとつ持っている」だがその表情は、先程までの親しさとは
まるで別種のものだった。 不意に枠の外へ出されたような寂しさと痛みを、
セルはその口調に感じた。
「こんな事を言うのは申し訳ないと、思ってる、でも一一」
「でも、神器は渡せないよ」エストはきっぱりと答えた。
「どうして渡すなんて事、考えられる? 君も幾許かは知っているだろう?
闇の神器は全部で十二、それぞれに今の学問では及びもつかない力が宿って
いるんだ。 研究して、それを解明する事がどれ程この世界の繁栄に貢献
できるのか。 勿論、それは闇の力だ。 気をつける必要があるのは認めるよ。
闇の力は、用いる所を誤ると恐ろしい事態を招いてしまうからね」
「……破壊神を呼び起こすのに使われる、とか言ってた」
「そうだよ、僕もそれは知っている」エストは相手の言葉に噛み付いた。
「闇の神器は破壊神復活の恐ろしい道具、だけどそれだけじゃない筈だ。
あんなに強大な力を秘めてるんだから。 僕が今まで話していたこと、
聞いていただろう? あの力を別の形に振り向けられれば、人間はもっと
便利で、豊かな生活を手に入れる事ができる。 
君はわかっていないんだよ、セル。 伝承を聞いて、怖くなってるんだ。
僕は古代の文明を信じている」
「いや、わかるよ」セルは慎重に言葉を選んだ。
「今まで、各地に散らばる遺跡で調査している所をずっとみてきたんだから。
エストがどれだけこの研究に真剣なのか、よく知っているつもりだよ」
「だったら、何故闇の神器を渡してなんて事が言える? 
あれは絶対に渡せない、僕はまだ研究が一一」
「そうじゃない。 ……そんなのいいんだ」セルは語気を強め否定した後、
ふいと傍を見やり顔を背けた。
その横顔についぞ見た事もない陰鬱な影がさしているのをエストはみとめ、
訝しみながらおそるおそる「どうしたの」と訊ねると、セルはまだ何処となく
含みのあるまま、僅かに微笑を浮かべ答えた。
「ごめん。 何かね、気乗りしないんだ。 本当は神器は恐ろしい力を
秘めてて、世界に闇をもたらすかもしれないから、集めなくてはいけないとか
そんな事を言わされる為に私は此処へ来てるんだろうけど」
 確かに闇の神器を集めて欲しいって依頼は受けた。 自分にも神器を
追い掛けなくちゃいけない理由はある。
でも、そんな依頼、受けたくなかった。 破壊神だとかネメアだとか、
急いで探しに行かなきゃならないって皆が言ってるのを聞きながら、何だか
これはまだ夢の続きをみているような気がしていた。


 暫く沈黙が続いた。 エストが調査の手を止めている事にセルは気付き、
幾分申し訳ない気持ちになって相手を見た。
エストもすぐ顔をあげ、セルを見返す。 予期していた様な困惑や嫌悪では
なく、ごく親しげで、僅かに寂しさを混ぜた平静な表情だった。
セルはほっとし、そっと静けさを壊さないように言った。
「邪魔しないようにしてるから、もう少し此処にいてもいいかな」
「いいよ」エストも表情を緩め頷くと、前から抱いていた疑問を口にした。
「セル。 君は、どうして闇の神器を追っているの?」
「うん?」曖昧に問い返すと、セルはその場に腰を下ろした。 暫く何か
考えている風だったが、やがて大きくのびをすると呟いた。
「静かだねえ、こんな所で昼寝したら気持ちよさそうだ」
 エストは笑った。 
「構わないよ」彼は再び調査を続けようとして、ふと思い付いたように言った。
「そうだ、研究に何か進展があったら、必ず知らせるよ。
ロストールにある屋敷へ、時々立ち寄ってみて。 伝言を残しておくから」
 セルは驚いた。 ありがとうと言おうとしたが、それは声にならなかった。
相手も別に言葉を待っているようでもなく、調査に没頭している。

「エスト」
「……何だい、セル」
「いや、そのままでいいんだ。 返事もしなくていいから、聞いてて」
 セルはずっと視線を湖にむけたきりだったが、エストは頷いた。

「昔、といってもそんなに前じゃないんだけど、その神器を探しに
魔人がひとりうちの村に来てね。 
小さい村で、皆互いをよく知ってて、それが窮屈だと思うこともない訳じゃ
なかったけど、でも、そんなに悪い所でもなかった。
今思えば、それは神器の存在を隠しておきたい為だったんだ一一そんなに
静かな場所だったのはさ、本当は結構近くに町とかあるんだよ。 でも、
結界が張られてて、外の世界と隔絶されて、誰か迷いこんだら騒ぎになってた。
 そんな村に、その魔人は突然現れた。
ひとたまりもなかったんだ……森にいた魔物を倒して、帰ってきたらもう
村は火に包まれてた。 魔人はその真ん中に立ってて、まだ生き残りがいるのを
知ると、こっちを振り返って「くすっ」って、……何かもっと軽い声で
楽しそうにくすくすって笑って。
 もう一度目覚めた時は、村も、家族も、知ってる人はみんな、私の前から
消えてた。 神器なんか一遍もみた事なかったよ。 でも、それを奪って、
魔人は去っていった一一確かに闇の神器には、他の使い方もあるんだろうな。
その魔人の目的も、破壊神の復活じゃなかったよ、そうオルファウスが言ったし。
 でも、いいんだ。 どんな使い道だろうが、それがどんなに凄いもので
あっても、とにかく神器を取り戻したら、何か深い穴でも掘って、誰も
どうにもできないように捨ててしまいたいって、ずっとそう思ってた。
……今もそう思ってる。 あんたの邪魔をする気もないけど」
 話が長くなったな、と弁解でもするようにもごもご呟いて、セルはまだ暫く
その場に座っていたが、やがて立ち上がると名残惜しげに湖を見渡した。

 固い地面を刻み、軽いとも沈んだともつかぬ奇妙な乾いた足音が遠ざかる。
 エストはずっと機械的に動かしていた手をふと止めた。 湖面に陽が射し、
静かに揺れる波の上で千切れた光が反射している。
 覗き込むと底に沈む小石が手で触れそうな程近くに見えていた。 しかし
実際に腕を差しいれてみるとそれが存外深い所にあるのを彼は知っていた。
澄んだ水はたちどころに茶色く濁り、はっきりとみえていた底をも覆い隠す。
 それでも……いや、と首を軽く振り、エストは採集した石の欠片に視線を戻した。
じっと見ている内、はたと其所に刻まれた痕跡に気付く事がある。
そしてその時から、それはただの石ではなくなるのだ。 彼はそれを、どうしても
みつけたかった。 そう、信じていた。