ギルドを出た頃にはすっかり暗くなっていた。 依頼の片がつくと、
ついつい主人と話し込んでしまう。 別にそれは、今にはじまった事では
ないが、とレルラは思った。 誰も彼も皆、吟遊詩人に話をせがむ。
それでどうなったんだ、とせっついてくる。 ねえ、洞窟の奥深くで出会った
不死の邪竜は? 炎の巨人をただ四騎で蹴散らした英雄は、ねえ。
「待ってよ、もう喉がカラカラだ」彼は手をあげ、水のたっぷりと注がれた
コップを受け取る。 飲みながら、固唾を飲んで待ち構える誰かの目とあい、
小さく笑う。
「もう少しだけ待ってくれる?」
 しかし今は、誰も彼に注意を払う者はいなかった。 酒場の前には
女が数人、退屈そうに立っている。 鼻の頭をかきながら、疲れたのか
壁にもたれ、また思い直して辺りを見回した。
 傷付いた石畳。 月明かりの下ではいくらかましに見える。 目をあげると、
壁が剥がれ落ち今にも崩れそうな空家の隣に下品な程きらびやかで新しい屋敷が
にょきにょきと生えてきて、見ているだに目眩がした。
 これでも随分ましになった方。 彼は思い出す。
実際ロセンが青竜軍の策によって陥落した時、誰もがその荒廃ぶりに驚いた。
やっと開け放たれた大門からも、さまざまな物が入り込んでくる。
それは際限もなく膨れ上がり、混じりあい、夕闇を混沌に変える。
恐れれば連れてゆかれるが、しかし他のどの町にもここ程の気やすさはない。
 尤も、それは冒険者や素性も知れぬ者たちにとっての話ではあったが。

 いつもの如く酒場へと直行する。 無意識に目が泳ぎ、薄暗い店内に
知った顔を探していた。
誰かが袖をひっぱる。 「何か歌やってくれよ」
「後でね」簡単に答え、振り放した。 大袈裟な舌打ちが聞こえる。
奥で数人、盤を囲んでしきりに喋り立てている。 中で対戦しているらしい
ドワーフの男を見とめるとレルラは驚き、あ、と小さく声をあげた。
「デルガドじゃないか」間を割って近寄り、話し掛ける。
「どこの酒場にも座ってる気がするよ」
「そりゃそうじゃ、大陸中の美味い酒を呑んで回る旅じゃからな。 って、
そういうお前も酒場でしか見かけない気がするぞ、なあ?」
「僕はきちんと仕事もしてるよ」レルラは答え、丸い木の椅子を引き寄せ
側に座った。
 対戦相手の男は何やら唸りながらぶつぶつ呟いている。
一旦手を伸ばしたかと思えばまた座り直し、更に盤上くまなく凝視する。
「朝になっちまうぞ」誰かがからかいの声をあげる。
「やめたやめた」対戦相手は駒を投げ出しはあと大息をつきながら
椅子を逸らせて仰け反った。
「強いよ、このおっさん。 やるんじゃなかった」
「もう降参か、若いの? うひゃあ、そりゃ酒代儲けたわい」
 相手は立ち上がり、小銭を数えて盤に投げ出した。 わっと一斉に
周囲が話し出す。 騒音の中、レルラはまだじっと盤面をみている
デルガドに訊ねた。
「もう勝負はついたんじゃないのかい、それともまだ」
「まあ、大勢は決したという所じゃがな」デルガドは視線を外さず言った。
「しかし、この外から強襲して一一」
「それから?」駒に手をかけたまま考えているデルガドに、レルラは
急かすように言った。
「その後は、どうするのさ」
「ん? はは、お前もやってみるか、今夜はいいカモが来るのお」
 笑いながら、すっ、すっ、と駒を滑らせ固まった陣形を散開させてゆく。
一見隙のなくみえたそれが、徐々に薄くなり一手では救援に迎えなく
なるのをみると、レルラは感心してほうと息を吐いた。
「こういう手もあるのう、まあ、好きずきじゃが」
 器用に素早く駒を戻し、途中からまた別の形に進めてみせる。
「へえ、このままなら絶対崩れなさそうなのに」
「そりゃそうだが、変わらなきゃ勝てんじゃろ。 守りは守りで、
攻めは攻めでと思っても、相手も必死に突いてくるでな。 相手は
こうなりゃ一番いいと思う手を指してくる、だからこちらはそれを
見越して指さなきゃならん……面白いもんじゃ」
 デルガドは髭をいじりながらまだ盤面を見つめていたが、隣に座る
レルラの暗い表情に気付くと面白そうに声を上げた。
「ん、どうした詩人よ、うまい言葉でも思い付かなくて拗ねたのか」
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ何だ、昨今のリルビーはそういう憂鬱なのが流行りかな?
陰気じゃのう、こっちまでふさぎこむわい。 あの子に少し教えて
もらっちゃどうだ一一ほら、あのリルビーの、ルルアンタだったか」
「まだ子どもじゃないか。 からかうのはやめてくれよ、本当に
そんなんじゃないんだ。 ただ少し疲れただけなんだよ。
今日もギルドの仕事をすませたばかりだし、受けようかどうか
迷ってる依頼もあるし、それに一一」
「ほう、そりゃベテランの冒険者氏に失礼だったかの」
「大体、ネメアが行方不明になって、エンシャントはあの通りだし、
ロストールも政変でがたがた、あれだけ迫害されてたエルファスを
今じゃ皆大っぴらに救世主だと呼んで崇めてる。
世界が音を立てて崩れていくのに、どうしてこんなに無頓着なんだ?」
「成る程、救国の英雄達再来か。 お前達詩人の稼ぎ時という訳じゃな。
よし、リルビーに負けちゃおれん。 わしも郷里に帰り名剣を打って一一」
「僕は、」レルラはまだ急いで言いかけ、それから呆として絶句した。
「僕は一一」
「笑っとけ」デルガドはずっと横に置かれたまま忘れられていた酒杯を
取り上げ、いつになく穏やかな口調で言った。
「こういう時は、笑っとくもんだ」

 そんなに大事ならそれこそどうして普段通りギルドの仕事をしているのか、
とも彼は言わなかったし、何故独りで旅をしているかにも特には触れなかった。
まあ、もともと関心がないのかも知れないが。
 しかし、それは今の場合レルラにとっては有り難かった。 皆、話を聴こうと
する一一竜が舞い上がり、今にも呑み込みそうな勢いで咆哮する様を。
危険で深い森の果てに不意に開ける、断崖絶壁を打つ波の美しさを。
 だが、知らない、のだ。 少なくともここ最近の出来事について、レルラは
その辺の噂話と同程度にしか聞いてはいなかった。
 最後にセルと話したのはアミラルだった。 丁度祭の最中で、セルは何もいわず
海王像の壇の端に腰掛け、賑わいを見つめていた。
 アキュリュースにアンティノがいる事を伝えると、セルは目を輝かせ、
少しの間笑い、何か返す言葉を探すように迷った後、短く礼を云った。
 それで本当に終わりだった。 失望した訳ではない。 セルは自分が舞台に
立たされている事を承知していた。 熱意はなかったが、与えられた役は
終えようと努力はしているのもよくわかっていた。
きっともうすぐその旅も終わる。 あのどこか寂しそうだった横顔も
活気を取り戻した町の向こうへ消えるのだろう。 そうでなければ、ただ
世界が滅びるだけの事だ。 いずれにせよレルラはその旅に自分が必要ない事を
知っていた。 

 離れた席に座った男が甲高い声を張り上げ喋っている。 盤上の駒を
動かしつつ話していたデルガドは、その様子をみるとこっそりレルラに
ささやいた。
「なあ、先週はそっちの端の奴がツイてたんじゃよ」くつくつと笑いが混じる。
「闘技場で幾ら儲けたって、そりゃ煩くてな。 その前は真ん中。
じゃから今日は絶対この席だと思ったんだが、おかしいのう。
先に向こうへ寄り道したようだわい」
レルラも笑い、男から目を離した。 主人が空になった杯に注ぎ入れる。
途端に、卓から酒杯が消えた。 あ、と驚くレルラの前で、デルガドは
ゆうゆうと杯を傾け、また空にする。
「どうした、酒場に来ても観ているだけかね」
「ドワーフに酒で勝てる筈ないだろう」レルラは答えた。
「じゃあ他の事でなら勝てるのか、ああ? ようしそれならこうしよう、
儂がこれから歌を歌う。 そうしたらお前さんは剣を打つんじゃ。
これなら勝負になるじゃろ、どうだ」
「訳がわからないよ」

 何もする事がなかった。 セルがオイフェや猫屋敷で何か重大な
話をする時、大抵彼は側に立ってそれを聞いていた。
いつもの様に、行き先に迷ったセルが問いかければ、すぐさま答を
返せるように。
 が、セルはただ黙々と事にあたるだけだった。 解錠や解毒も、
何か起きれば先陣を切るのも、もはや彼の役目ではなかった。
加えてこの頃では、彼らが向かう敵もギルドの依頼で出てくるような
生易しいものではなくなっていた。 彼は続けざまに何本も矢を放ち乍ら、
その与えた傷の浅さに内心愕然とする事もよくあった。
 挙句にこれだ。 一旦パーティから離れるが最後、セルは決して
レルラに戻るようにとは言わなかった。 
いや、そんな筈はない。 彼は考えた。 少なくともまだ、自分には
選ぶ事のできる道があるのだ。 セルが盤上を自在に駆け巡る駒とするなら、
自分はその脇の地味な形の駒かも知れない。 が、駒には違いない。
ここにいる盤からこぼれ落ちたような輩じゃないのだ。
 そう思って顔をあげると、座っている者達が誰も彼も何処かおかしく
みえてくる。 さっき自慢話をしていた男は肘をつき、しきりに
「だから歩く事にしたんだよ、だから歩く事にしたんだ」と繰り返していた。
先週ツイていたらしい席に座っていた奴は後ろばかり振り向き、椅子ごと
ひっくり返りそうになっている。
注がれた酒を一息で呑み、また杯を空ける内、ドワーフといい勝負なんじゃ
ないかと思えてきて、しきりに気分は高揚し、今だったら剣の一本ばかりも
打ってやるよと叫びたくなるのを笑ってごまかした。
 デルガドはとうに出来上がっている。 
「お前に新しい歌のネタを提供してやるぞ」と言うなり卓に片膝ついて
立ち上がった。 盤が揺れ動き端に寄せられた駒が皆床へと落ちる。
あーあ、と店の主人がぼやいた。 構わずデルガドは皆に注目しろと手で
合図し、くねくねと腰を振りながら服を脱ぎはじめた。
誰かが口笛を吹く。 ごつごつした老ドワーフがそちらへ秋波を送って
みせると、皆どっと湧いた。
 何かする度、デルガドは意味有り気にレルラをちらりと見る。
仕方なく笑い、もう何杯かともわからぬ酒に手を伸ばした時、その揺れる
面に自分の目が映っていた。 
見たくもない顔だ。 彼は目を瞑り半分程空けた。 この虚ろな顔は誰だ。

「新しい歌は出来たかな、詩人よ」
 再び席に戻ると顔を真っ赤にしたデルガドがこちらを覗き込む。
「今はそんな気には……」
「おやおや、あれだけやってもまだ足りんのか。 難しいのう」
 汗をぬぐい、大仰に嘆息する。 だが目は楽しそうに輝いていた。
ふとレルラは興味を覚え、訊ねてみた。
「これから、どうするんだい」
「何がじゃ?」
「これからだよ。 ずっと、このままでいる訳じゃないだろう」
「何か、いかんのか?」
 そういうとデルガドは性急に笑い声をあげた。
「ずっと、こうしてる積りだったがのう、いかんかったかね」
 突然周囲がやかましく騒ぎだし、続きは聞こえなかった。 
デルガドはまた誰かに勝負を挑まれている。 誰かがカウンターまで
よたよた歩いてくると料理が遅いと文句を言った。
「そりゃ悪かった」主人は手慣れた様子であしらう。
「今持ってくよ、……ところで注文てのは川魚の塩焼きで良かったかね」
「いや、違う違う。 いや、それだったかな」
 客はぼんやりと呟き、カウンターに座っていた者がそれを笑うと
しばらくののしり合った。
 元気だな。 レルラは幾らか眠気を催し、頭を掻きながら思った。
いつまでも、いつまでも誰か喋っている。
「この後はどうするんじゃ」
 喧噪の合間にデルガドの声が聞こえた。
「別に宿とかは取ってないよ、明日はそのままどこかへ一一」
「そんな事は聞いとらん。 どうする積りなんじゃ」
 デルガドの相手はじっくりと考え、駒を進める。 読んでいたのか
すぐに応じて彼はまたこちらを見た。
「同じだよ、今までと何も変わらず同じ……冒険者だ」
「成る程な」
 相手がまた一手打つと彼は待ちかねたようにすぐ駒を進めた。
ガチャンと何か割れる音がする。 皆そっちを向くと、椅子がひとつ
ひっくり返っていた。 男が笑いながら、大丈夫大丈夫と手をふり、
帰ろうとしてはあちらの机にぶつかり、首をひねってはこちらの
壁をいやという程震わせている。
先程と同じく皆一斉に元の所へ向き直ると、この空白の時に何気ない
表情で一手打った相手はにやりと笑いデルガドを見上げた。
「うん?」余裕綽々としていたデルガドは一転驚き、腕組みをしたまま
凝視する。 やがて口をあんぐりと開け、大袈裟にのけぞった。
「そうか、そうだったか一一こりゃやられたわい」
 また数人、集まってくる。 服の柄が何重にもちらつき、大きくも
小さくもなってみえた。 
「おや、大丈夫かね」主人の声が遠くに聞こえる。 ふと自分が
巨大な筒の中にいるような気がした。 白く筋の入った向こうに、
デルガドも、他の客も、皆すべてがやがやと集まっている一一


 目が覚めると朝で、彼は石段の上に寝転がっていた。
「おや、早いの」デルガドが下に座りあくびをしている。
 向かいの酒場の前にはゴミが散乱し、辺りには誰もいなかった。 
「たまにはギルドの仕事もいいじゃろ。 一緒にどうかね」
「あんたと?」
 レルラは驚き、少し経ってから口を開いた。
「鍛冶屋で蘊蓄垂れ流さないなら、いてもいいよ」
「お主こそ、いちいちただの会話で歌いださんでくれよ。 
……まあいつかは、戻る事もあるだろうがな。 まあ、いつかは、じゃ」
 レルラは立ち上がった。 頭がくらくらしている。 
まあ、いつかは、か。 彼は考えた。 いつかは、またこの日の事を
歌にし、人々に聞かせる時も来るかも知れない。 だが。
「それじゃ、依頼をみてこようか?」
「ああ、今なら長話もいいぞ。 わしゃ喉が乾いてたまらんわい」