室内には静かな寝息だけが聞こえている。 目を覚ますとフェティは、
横たわったまま向いの様子をみた。
一一まだ寝てるわね。
壁に打ち付けられた狭い寝台で、こちらに背を向けて寝ているセラは
ぴくりとも動かない。
(今日は勝ちかしら)別に何の賭けをした訳でもないのだが、この男の前で
安心して眠っていたくはなかった。
そうかと言って、自分が先に起きてしまうと今度は、露骨に皮肉めいた
表情を浮かべ必ずこちらの気を逆なでするような言葉を残して通り過ぎる。
(だから同時に起きてやるわ)ああ全くどうしてこんな下等生物の為に
気を使わなくてはいけないのかしら。
フェティはそっと頭を巡らし他の二人が寝ている方を見やった。
レルラ=ロントンは確認できたがセルの姿は視界にない。
(また廊下に転がってるのかしら)みっともない、と溜め息をつこうとして
フェティは叫びそうな程驚いた。
「起こしたか。 悪いな」
セラが寝台に腰掛けている。
「ど、どうしてっ」抑えても声は上ずっている。
フェティは慌てて飛び起きた。
「あんた、だって、だって今までそこで……ええ? 何時の間に一一」
隣の寝台がもぞもぞと動き出す。 セラは月光を手に取り、立ち上がった。
「行くぞ」見下ろす目には迷惑だと言わんばかりの色が浮かんでいる。
「な、何であんたがアタクシに命令するのよ」しかし吊られるように
思わずフェティは立ち上がった。
「じょ、冗談じゃないわ。 アタクシが高貴で優雅なエルフだからといって
いつも寛容に対応してあげるとは限らなくてよ。 ねえ、聞いてる?
ちょっと、聞きなさいよ!」
頓着せずセラは先に立ち、扉を開けて振り返る。 仕方なくその前を
通り過ぎながら、フェティは顔をあげて相手をみた。
「な、何よ。 そんなにアタクシがいないと不安な訳?」
一一「部屋で騒がれると他の客が迷惑するからな」
外に出る。 ようやく安心したのかセラは口を開いた。
「他の客ですって?」フェティは意地悪く笑った。
「……どうせセルしか大事じゃない癖に」
「そうだ」
些かの動揺もなくセラは淡々と肯定する。
「そ、そうよね」虚を突かれてフェティは一瞬黙り、それから馬鹿馬鹿しいと
言わんばかりに首を振った。
「そんな事は、わかっていたわ」
大通りには誰の姿もない。 いつもなら街の人々が数人寄り集まり、立ち話に
夢中になっている花壇のある広場も今はがらんとして、蕾を閉じた花が陽が高く
昇るのを待っている。
少し前を歩くセラはずっと無言のままだ。 群れるなとも離れてろとも
言わないかわり、こちらを見もしない。 実際忘れてるんじゃないかと言う程の
早足で、フェティは文句を言いたくて仕方なかったが、そうはせず時折
ほの見える横顔に目を走らせながらひたすらついて歩いた。
(どこへ行く積りかしら)でもそれを問いかけたら、行き先を答えるより前に
きっと拒否の言葉が先に来る気がした。
(それは、聞きたくないけれど)
考えている内、ふとセラが足を止める。
「どうしたの、何か見つかって?」フェティは訊ねた後、急いで言い足した。
「でも断っておきますけど、別にあなたの意向を気にする訳じゃあないわ。
ただ前もって知りたいと思っただけ、それだけよ」
自分が言葉を止めると、沈黙に落ちる。 やってられない、そうフェティが
無言の内に悪態をついた時、セラはどこか一点を向いたまま低い声で言った。
「見ろ。 ……その角の店より向う側だ。 知った顔が二人いる」
「知ってる人?」フェティは鸚鵡返しに呟き、言われるままに見た。
同時に、向う側で何か話していた二人もこちらに気付き、顔を向ける。
「あのボルダンは街道で襲ってきた腕自慢よね」フェティは意に介せず続けた。
「全く、野蛮で下品なボルダンらしい奴だったわ。 まだ居たのね。
もう一人は誰かしら。 エルフ? ……何か違う気もするけど」
「ダークエルフだ」セラは注意深く相手の動向をみながら短く答えた。
「以前、セルがネメアと共にリベルダムで倒したという者だろう。
一度、街道でも二人でいる所に遭遇した事がある」
「二人って、あのボルダンと? 知っていたの?」
「いや、ネメアと」セラはそろそろ煩そうに答える。
尚もフェティが何か訊ねようとした時、向こう側にいた二人は頷きあい、同時に
反対方向へと道を違えて歩きだした。
「何だ、ただ話してただけじゃない」フェティは拍子抜けして言った。
セラもやや意外そうな表情になったが、すぐ何か思い出した様にこちらを向いた。
「……そういえば、街道であのボルダンと戦った後にもネメアと会ったな。
案外、そういう事かも知れん」
「何よ、わからないわよ」
「とにかく追うぞ」セラは無意識に月光へと手をかけながら言った。
「お前はどうする。 ボルダンの方へ行くか」
「じょ、冗談じゃなくってよ」フェティは気色ばんだ。
「アタクシがどうしてボルダンなんか一一」
「じゃ、ダークエルフの方だな」普段と変わらぬ冷たい表情に、この時微かに
笑みがさした。
「城門の前で会おう。 頼むぞ」
「アタクシは一一」まだ不満そうにフェティは何か言いかけたが、目があうと
驚いたようにその頬はうっすら紅潮し、俯いた。
「……いいわよ」聞き取れるかどうかの小さな声で呟く。
が、すぐにまた顔をきっと上げた。
「いいわ、安心なさい」一瞬みせた弱気の表情が許せなかったのだろう、
愛用の槍をどんと地面に突き、確かめるように繰り返す。
「そんなにアタクシの力が必要なら、頼っても結構よ」
言うなりフェティは踵を返し、堂々と通りの真ん中を追い掛けてゆく。
少し先にいたダークエルフは、ちらりとその様子を振り返り、足を速めた。
「尾行になってないぞ」駄目だな、と苦笑しながらしかしまあいい、とセラは
もう一方へと視線を向けた。 ボルダンは既に城門の方へと姿を消している。
だが道は一本の筈だ。 セラはすぐに後を追った。
遠くで鳥がぎゃあと鳴き、レルラは目を覚ました。 何か夢を見たような
気もしたが、はっきりと思い出す事はできなかった。 いつもそんな物だ
一一もう一度会いたいと思うなら、いつかの偶然に期待して別の世界へと
行くしかない。
寝台に起き上がると、もう二人の姿は消えている。 一体どこまで早起き
なんだ、とレルラは欠伸をしながら思った。 フェティが事ある毎にセラへ
突っかかるのは誰もがわかっていたが、セラも適当にあしらう様でそうとも
言い切れない。 他人に遅れを取る事を認められない。
……そして、行き着く先はこの早起き戦だ。
(朝から本当に元気だなあ)まあいいや、とレルラは壁の杭にぶらさがった
袋を下ろし、肩に背負った。 近くを蟻が歩いている。
「ここには何もないよ」レルラは話し掛けた。 彼の荷物は小さかったが、
きちんと整頓された最低限の必需品が一目瞭然に詰められていた。
先に行った二人も同様で、ただ、セルだけはどうか怪しかったが。
何だかわからないがいつも何かが詰っている。 混沌としているが、かき
廻すと必ず奥から目的の物が出てくる。 それこそ宝箱の武器から子どもに
貰ったおもちゃの果てまで一緒くたに入れられているので、セラなどは
薬の類いを自分で管理し携行していた。
そのセルは……とりあえず床には落ちていない。
(また階段を占領してるのかな)手早く身支度を整え、外に出る。 今日は
エンシャントを出る予定だった。 次の仕事が入るまで、また暫く町から
町へと旅が続く。 それも悪くはなかったが、そろそろ何かあってもいい筈
だとレルラは考えた。 セルにも通り名がつき、一応名前が知られて来た
今となっては。
ギルドの前を通りがかる。 主人はちょうど店を開けようとしていた。
レルラはわざとまわりをゆっくり歩き、何か言いたげにうろついた。
「おや、クリスピーじゃないか」
主人はやっと気付いたというように声をあげる。
「レルラ=ロントンだよ」
「そうだ、そうだったな」主人は大して気にもせず頷いた。
「依頼を探すなら、昨日のままで置いてあるからみていいぞ」
「折角だけど、決めるのは僕じゃないんだ」レルラはいかにも何気ない風を
装いつつ、何とかそこに微妙な調子を盛り込もうとして言った。
「ほら、セルが。 赤い流星のセルが、今リーダーだから」
「セル? どこかで聞いたな。 ……あ、そうだ!」
主人ははたと膝を打った。
「忘れてたよ、お前の所に確かに赤い流星のセルがいるんだな?
だったら伝えてくれ。 大切な話があるんだよ、こう名指しでな、その
赤い流星に依頼したいってエルフがこの前来たんだ」
「わざわざセルを指名してきたって事? そりゃあ、すごいや」
レルラはすっかり興奮して訊ねた。
「ねえ、その依頼って何? 化け物退治とか? 宝物探索とかかい?」
「宝っていえばそりゃあそうだろうが……何だったかな。
確か何とかの皿とか器とかで、大層な値うちもので……駄目だ」
主人は店の扉を開け、レルラに手招きした。
「入んな、中にきちんとした依頼書があるから」
紅い髪のダークエルフは、港を通り過ぎ、更にその先へと歩いてゆく。
駆けている訳でもないのに、異様に速い。 フェティは必死に追いかけ
ながら、何故こんな所へ、とその目的を訝しんだ。
(この先には墓地と、それからライラネートの神殿くらいしかない)
正面に優しい微笑みを浮かべた像が立つ、白亜の神殿の前まで来ると、
ダークエルフは立ち止まり、一旦逡巡してから思いきった様に中へ入った。
フェティも急いでそちらへと走り、開いている扉の向こうから驚く誰かの
叫びと複数の話し声を聞くと、入り口付近に立ち、そっと中を覗き込んだ。
一一「それで? オイフェだったかしら。 ディンガルの騎士様が、何か用?」
「あなたには何の興味もないし、どうでもいいわ、ケリュネイア」
ダークエルフが冷たく言い捨てると、神殿の奥に立っていた白い服の女は
表情をこわばらせた。
こちらの方は前に見た事がある、とフェティは思った一一いつだったか。
大層立派な弓を背負いどうやらエルフのようだが、その目鼻立ちはどこか
人間のそれを思わせ、背格好も並び立つダークエルフが長身にみえる。
「何も無いのなら出て行って。 それともこの国では祈りですら軍人に
監視されるのかしら」
「何故、ネメア様の邪魔をする」ダークエルフは相手の露骨な嫌悪にも
動ぜず、遮って言った。
「ネメアの邪魔ですって? わからないわね」
「このエンシャントで不穏な動きがあれば、すぐ政庁に伝わる。 ましてや
それが神器の行方に関する話ならなおの事よ」
「怖いのね」白い服のエルフは声をあげ笑った。
「帰ってネメアに伝えなさい。 闇の気配を追い続ける貴方は自分から
魔王への道を歩んでいるのだと。 神器を好きにはさせないとね」
「そんな事にはならないし、神器は必ずこちらが手に入れてみせる」
(神器ですって?)フェティは段々眠くなってくる頭で思った。
何かセルも前に言ってたわね。 まあ、どうでもいいけど。
だが堂内の二人は真剣そのものといった表情で互いを睨みつけている。
やがて白い服のエルフが沈黙を破って言った。
「それじゃ貴方が噂に聞くネメア直属の親衛隊って訳ね。
闇の神器を探すには闇の者って事? でも貴方に勤まるのかしら」
「侮辱は許さない、こそこそと影で企むハーフエルフなんかに! 神器の
行方ならもう情報が入って来ている。 一つはウルカーン、もう一つは……」
「ロセン」ダークエルフが言い淀む隙に白い服のエルフは悠然と答える。
「ロセン北東の、罪深き者の迷宮よ」
「知ってるわよ!」ダークエルフは叫んだ。
「誰だろうが、無限のソウルだろうが、神器は渡さない。 ネメア様の
望みを邪魔する者がいるなら、私が倒してその先へと進むわ一一」
「貴方こそ、無限のソウルの持ち主を軽く考えているようね、オイフェ」
白い服のエルフは相手の調子には合わせず続けた。
「セルはもう、屋敷に迷いこんできた時の彼女ではない。 どこまでも
強く成長してゆく魂の主は、時に世界を変える程の力を持つのよ……」
この時、唐突にフェティの背後からやたら暢気な声がかかった。
「あれ、フェティそこで何してるのー?」
「レ、レルラっ!?」
リルビーの吟遊詩人は軽い足取りで近付いてくる。 堂内の二人にさっと
緊張が走った。
(ば、馬鹿っ)フェティは必死に両手を振りまわし、あっちへ行けと
叫びたいが声もあげられず、苦り切った顔でちいっと睨みつけた。
(何こんな所に来てんのよ、場違いなのよ、どうしてリルビーって
どこにでもしゃしゃり出てくるの)
「ど、どうしたんだい?」レルラはフェティの意外な反応に戸惑い乍ら訊ねた。
が、すぐに覚ったらしく足を止めた。
(そうそう、それで良いのよ)フェティは安堵する。
フェティがほっとした表情を浮かべると、戸惑っていたレルラも安心した
のかまた数歩進みでた。
(何するのよ!)
急転直下、フェティは今にも食い付かんばかりの形相に変わる。
(帰れ、帰れ帰れこのリルビー! 詩人の癖に空気も読めないの?)
進みかけていたレルラの足が空中で止まった。 半笑いのまま引きつり、
そのままそろり、そろりと後退する。
フェティはまだ鬼の形相のまま口角をあげ笑顔というにはあまりに
凄まじい様子で笑った。
「フェティ……」
ようやく理解したらしいレルラは、その場に立ち、身ぶりで墓地へ行くと示した。
(墓地? 物好きね)
フェティは頷く。 レルラは微笑し去ろうとして、ふと付け足した。
「そうだ。 ……セルに会ったらギルドに寄って、って伝えてくれないかな。
すごいんだよ、赤い流星を名指しで神器探索の依頼がきたんだ。 それじゃ」
来た時と同じく、歌うように滑らかに、漂うように軽やかに、吟遊詩人は
去ってゆく。
フェティはそっと神殿を振り返った。
オイフェとケリュネイアは呆気に取られてこちらをみていたが、目があうと
はたと顔をそらし、まるで何もなかったように急いで言いはじめた。
「そ、そうそうどこまで話したかしら?」
「無限のソウルの所までよ、一一で、とにかくネメア様の邪魔はさせない」
「そうだったわね……ええ勿論そう上手くは行かないわよ」
二人は声をあわせ高らかに笑った。
(何よ、無視するつもり?)フェティはつかつかと神殿へ入っていった。
(冗談じゃないわ、リルビーやセルはともかくこのアタクシを無視するのは
許さないわ。 この高貴で優雅なアタクシを誰であろうと無視するなんて!)
「ちょっと、そこのエルフみたいな二人」
ぱたりと笑い声が止まる。
「今、セルがどうこう言ってたわね。 それって、あの下等生物の事?」
二人は黙ったまま相手を見交わす。
「赤い流星、セルの事よ」白い服のケリュネイアが答えた。
「でも、それが何か? 部外者に邪魔されたくは一一」
「関係あるわよ!」フェティは声をあげた。
「すぐに人間達はセル、セルって騒ぐけれど本当は、このアタクシがいてこその
ド下等生物なのよ。 アタクシなしには何も出来ないといっても過言じゃないわ。
いえむしろ伝説はアタクシの為にあるようなものだと……」
「行くわ」紅い髪のオイフェはケリュネイアに向って言った。
「確かにあなたの言う通りよ、ケリュネイア。 無限の魂は私にすら別の未来を
垣間見せた。 けれどそれでも私は負けない」
「またいつか会いましょう」ケリュネイアは鷹揚に答えた。
「お互いどう変わっているか、とても楽しみだわ」
「ちょ、ちょっと貴方達、アタクシを無視して話を進める気?
……待ちなさい、そこのダークエルフ、待ちなさいったら!」
構わず通り過ぎようとするオイフェの腕を、フェティはがっしと捉えた。
オイフェは振り返った。
「……何?」
抑えようとしても隠し切れない激しい感情が瞳に渦巻いている。
「貴方達がくだらない目的にどれ程熱くなろうが、どうでもいいわ。
けれど、セルの事だけは流せない。 アタクシを前にして、セルについて
勝手に無限の何とかや器だのって話す事は見すごせなくてよ」
オイフェは一瞬じいっとフェティの目を覗き込むように見つめた。
「話す事は何もない」
「な、何ですって一一」
「口だけのエルフに用などないわ。 でもセルに会うなら伝えて。
あなたには負けない、と」
オイフェは強引にフェティの手を振り解いた。
「頼んだわよ」
エンシャントの墓地をみるのは久しぶりだった。 以前は頻繁に訪れ、
しばし誰に邪魔される事もなく静寂を楽しんでいたが、セル達と共に
旅に出るようになってからは、目の前で次々移り変わる出来事を追うのに
忙殺され、こんな時間の過ごし方がある事も忘れてしまっていた。
それでもまた忙しくなるけど。 レルラはひとり、嬉しさに笑みを洩し、
浮かれてくる思いを抑えるように俯いた。
依頼された仕事が楽しみだとは、長い冒険者生活の中でもそう無かった
気がする。 実際、ここ数カ月は驚きの連続だ一一突如魔物の復活した町、
古の砦に現れた異世界への入り口。 全て、セルと会ってからだ。
何故だろう、一応通り名は貰ったが別に強くもなんともないのに。
むしろ、あんなにいい加減な冒険者も珍しいくらいだ。
(でも違う)レルラは考えた。
(初対面の時からわかっていた、他の誰とも違うって)
かさり、と乾いた音が響き、レルラはそちらを向いた。 ドワーフの神官が
一際立派な墓の前で佇んでいたが、レルラの視線に気付くと相好を崩した。
レルラも軽く会釈をした。 以前にも何度か会い、顔見知りだった。
ドルドラムというそのドワーフは、よく墓地周辺を散策し、過去に思いを
馳せるのを無上の楽しみとしている。 レルラも此処で、墓地に眠る
人々について彼が哀惜の念を込めて語る話を聞いた事があった。
「こんな朝早くに墓参りかね」神官とはいえ、戦神ソリアスに仕える為か
堂々たる体躯で、良く手入れされた斧を持つ所などすぐそのまま戦場に
立てそうな雰囲気を感じさせる。
「何やら随分と楽しそうじゃの」
「あなたこそ目が輝いているよ、ドルドラム。 何かあったの」
「儂が?」ドルドラムは大声で問い返した。
「いや、そうかも知れんの」そうして笑い出す。
沈黙が辺りを満たしている空間の隅々まで、その嬉しそうな声は通った。
「実は、しばらく旅に出ようと思っとる」
暫くすると彼はそんな事を言い出した。
「そんなつもりは殊更無かったがな……たまには賑やかなのもいいじゃろ。
おかしいか? この年で、こんなにはしゃいでいるのは」
「そんな事ないよ」レルラは慌てて首をふり、微笑して言った。
「どこか他の町で会えるといいね。 ……もう行き先は決まったの?」
「んー? 行き先か、そうじゃな」ドルドラムは急に言葉を濁し、相手の
心の内を計るように慎重に見定めた。
「本当に探索をやめさせる気なら、もっと他にやり方がある筈よ」
黙ったまま立ち尽くすフェティに、背後から声がかかる。
ケリュネイアがこちらを見ているのは知っていたが、フェティは振り向きも
せず、じっと前を見つめた。
「でも、オイフェにそんな様子は微塵も見当たらなかった」
「それが何」
「自信からか、ただの独断なのか……」
ケリュネイアは考え込む。
「わかったのは只、彼女がこれからセルの行く先に現れるだろうという事」
「どうって事ないわ」
「あのダークエルフを軽視しない方がいい」
嗜めるように言い、それから急に声を明るくした。
「でも、彼女達はまだ、三番目の神器の所在を掴めていないわ。
……ねえ、セルがもし此処に来ないのなら、言って。 遺跡を探して、と。
ロストールのエスト=リューガ博士よ、その人間が神器を持っている」
フェティは無言のまま歩き出した。
「それだけは邪魔されず目的を達成する事ができるの。 お願いよ」
フェティは振り返らなかった。 ケリュネイアもそれ以上言う事はせず、
ただ去ってゆくエルフの意外に華奢な背中を見送った。
「行き先はあるがな、だがそれは儂のものではないのじゃ。
儂はただ、見守るだけよ。 それがどこへ行くのか、旅の果てに何を
見つけるのか、な、その時まで同行しようと決めたが、さて」
ドルドラムは辺りをうかがい、道化た調子で声をひそめ囁いた。
「これが中々凄くてな、嵐のようじゃ。 過ぎた後は草一本残らん。
それが二人も集まっとる。 さあ困った一緒にゆくと言ったはいいが、
いつそっと抜け出そうか考えとる所じゃわ」
ドルドラムはいい終わると、高らかに声をあげ笑った。
いつも穏やかに過去を語る神官の、それははじめて見る姿でもあった。
余程その仲間との旅が楽しみでならないのだろう、とレルラは好ましく
眺めながら、どこか心の底に引っ掛かるものを感じ、しかしその事は
おくびにも出さず荷物から古びた手帳を取り出した。
「古い知己に、懐かしい場所に別れを告げ老いた神官は旅に出る、か。
今その佇む所だけで詩になりそうだよ、ドルドラム。
でも、そうだね。 僕も僕自身というより、他の誰かの旅をみている。
嵐は……うちの場合三人いるからなあ」
「ほう? だが数で劣ってもうちの姫は特別じゃぞ、その弓と同じでな、
生半可な相手は容赦無く射抜いてしまう」
「うちの高貴で優雅なエルフ様も特別だよ。 槍を使わせたら大猪だって
一撃で仕留めるし、魔法を唱えれば天変地異起きて空俄かにかき曇る、だ」
「そうそう、あのボルダンもあれで中々腕っぷしが強くてのう。
何でも街道で出会う冒険者に片っ端から挑戦したらしいが、ただ一度除いて
ほぼ無敗だったそうじゃ」
「うちの剣士も腕は立つのに惜しいんだよね、精々闘技場へ出てみる位で
もっと名前売ればいいのに、勿体ない。
でも正直いって、彼にかなう者なんてそうは居ないと思うんだ。
彼が世界でたったひとり認めた人間に会うのが、今から楽しみだよ」
「ほっほっ」ドルドラムは顎に手をやりながら愉快そうに何度も頷いた。
レルラも言葉を止め、神官の背後にある立派だが粗野で新しい墓へと
視線を移した。 それはある人々にとって特別な感情を呼び起こす存在が
眠る場所である事を彼は知っていた。
「レルラよ」少し趣きの違う、しみじみとした響きの声が語りかける。
「儂が本当にその旅を共にしようと思うのは、実は他におられるんじゃ」
「他の人?」
「そうじゃ。 正確には、その方は一緒に道を歩く訳でもなければ、
日頃顔をあわせる訳でもない。 じゃが、儂はその方の行き先が気になる。
その方の目的に辿り着く為なら、儂は何処へなりとも喜んで足を運ぼう」
「特別な人なんだね、あなたにとって」レルラの言葉に、ドルドラムは
深く頷いた。
「あの方とそれに関わる一切の出来事は、儂にはどれも大切な記憶での。
此処に立っていると、風の中に澄んだ声が混ざって聞こえるんじゃ。
遠い昔、儂の名を呼んでくれたその声がな。 忘れられぬ。
彼の人の事も、あの方の苦悩も、……そうじゃ、あの方が捨てようと
せんかった闇を、少しでも軽くできるのならば幾らでも助力は惜しまん」
「……わかるよ」最後の方は自分に言い聞かせているのか消え失せそうな
相手の言葉に、レルラは口を挟んだ。
「僕もそんな人に出会えたら、きっと同じように考えるだろうし」
「まあ、老人の繰り言よ。 ……時に、嵐は3人居ると言ってた様だが」
「ん? ああ、もうひとりいる」
レルラは手帳に書き込んでいた手を止め、視線を彼方へ走らせた。
「最低の冒険者だよ、依頼の品物はなくすし、大事な彫像は壊すし、
町に着いたらギルドより先に酒場に入って一歩も動かない、もう僕は
その度セラやフェティを宥めて、ギルドで謝って、大変なんだ本当に。
だけど、」
「……だけど?」
途中で言葉を止め、黙り込むレルラに神官は問いかける。
「だけど」
レルラは神官を振り返り言い直し、それからまた彼方をみつめた。
(この辺にいる筈だ)セラはエンシャントの大門まで来ると、内心
驚きながら立ち止まった。 誰もいない。
見失ったか? ……いや。
ともすれば上がる息を抑え、耳を澄ませる。
今では向こうが、通りの真ん中に突っ立つ自分を見定めている。
そっと妖刀月光に手をかける。 こんな所で一戦交える気も無いが、
相手はあの街道で襲ってきたボルダンだ。
ほとんど何の音も聞こえない。 だがセラは確かに背後で何か
動いたと思った。 ……そうだ。 間違いではない。
急いで振り返り相手を確かめようとする。 途端に視界が遮られ、
月光を引き抜くのとゼリグがその拳具で殴りかかるのが同時だった。
一一「では探しているのはあくまでも闇の神器という訳だな」
「さあな、そうかも知れぬ。 何れにせよ、うぬ如きを相手にする暇は
我にはない」
「何だと」セラは気色ばんだ。 先程のは確かに無様だったが、
懐に入られなければ話は別だ。 しかしそれにしても。
セルにだけは知られたくない、彼はそう考えた。 背後から突然とは
いえ、一太刀も浴びせず顔面を殴られて終了とは。
「気にさわったか? まあいい、不意を突かねば此方がやられていた」
急に興味が湧いてきたのか、ゼリグは宥める様にそう言い出した。
「下手に長引けばどちらも大怪我をしていたろう。 大事の前に
それは避けねばならぬ」
「まあ、俺も無意味な剣など揮いたくはないが」
セラもやや表情を和らげる。
「神器の件はわかった。 ……では、ティラの娘について知らないか。
大陸各地で妖術宰相が古の術を用い復活させていると聞いたのだが」
「知らぬな。 ……しかしティラの娘といえば伝説に残る古の怪物。
お前が相手では……みすみす命を落とす気か」
何、とセラが鞘に納めた妖刀に手をかけた時だった。
かつ、かつと甲高い靴音が響き、フェティが姿を現わした。
「全く、仲良く話しているかと思えば、何? これは。
流石野蛮なボルダンと下等生物は喧嘩大好きね」
「……失礼する」
立ち去ろうとするゼリグをフェティは呼び止め、言った。
「あなた達のリーダーによく言っておおきなさい。 神器を取りたいの
なら、なるべく急いで行くことね。 今日がいいわ。
……そうじゃなきゃ、全てセルの手に落ちてしまう事よ」
ゼリグは何か言おうと振り返った。 が、思い直したように
首を振り、また歩きだした。
「……承知した」
「負けたんじゃないでしょうね」ゼリグの姿がみえなくなると、
フェティは隣をみあげ、抑えつけるような声で訊ねた。
「……うるさい」
「やっぱりね。 いいわ、アタクシがいるのよ、安心なさい。
……あのダークエルフ、次に会った時は絶対後悔させてやるんだから」
「負けてなどいない。 ただ、……ただ、戦う気がなかっただけだ。
そうだな、多少遠回りにみえるとしても、神器を奴も追っている筈。
探す事が無駄にはならないだろう」
「何ブツブツ言ってんのよ。 ……ところでセルはまだなの?
あの馬鹿リルビーは? 一体どうして皆こんなにのんびりしてるのよー」
起きると辺りは暗闇に包まれ息苦しかった。 頭からすっぽりかぶっていた
掛け布団の中で空気は澱んでいる。
どうせまた、誰も居ないに違いない。 居たら居たで、「さっさと起きろ」だの
「たまには床にのさばらないで寝てくれる?」等煩くて仕方ない。
見ろ。 今日はしっかり寝台の中だ。 奇蹟だな、とセルは思い、そんな事を
考えた自分に放っといてくれ、と毒づいた。
中途半端に厚い癖に手ごたえのまるで無い布団を押し退け、起き上がる。
陽光が部屋中どこもかしこも無遠慮に晒している。 ぐるぐると何かが
回り続ける妙な感覚を覚えながらセルは、起きたけど何をするんだっけ、と
ぼんやり考えた。
ああそうだ。 ギルドに行くんだった。
けれど寝台に足を投げ出し座っていると、いつまでたっても動き出す気に
なれずただ徒らに時間が過ぎてゆく。 今動こう今動こうと思いながら
暖かい日ざしは、ああまた朝が来たという憂鬱な感覚を呼び起こし、何も
起きぬ今からもう気分はどんよりと曇っている。
小蝿がふらふら飛んでいる。 今にも捕まりそうな目の前を行き過ぎる
癖に、決してどこかへ止まろうとしない。
向いてないな。 セルは思った。 人並みより速いっていっても、
別に大した事ないし。 やめようか、もう。 転職だ。
袋に入っている武器とか全部売って一一ああ、セラとかフェティが
納得する訳ないな。 よし、奴等ももう放り出そう。
ギルドに伝言しておいて、見つからないようにエンシャントを出て
一一そういや、兄の件が残っていた。 仕方ない、兄もこの際忘れて一
一「しょうがない、行くか」
状況を変える為には何かやらなければゆかない。 が、何かを考えるのが
そもそも面倒だ。 セルはのろのろと立ち上がった。
人込みを抜けギルドへと向かうとセルは、どこかから自分をじっと見ている
気配に気がついた。
(……誰?)
見回すと通りの向う側に、エルフが一人立っていた。赤く長い髪に灰色の肌。
背に弓を負い、痛い程まっすぐにこちらを見ている。
(誰だったか……)確かに会って話した覚えはあるのだが、思い出せない。
だが知っているひとには違いないんだろうと、セルは愛想よくにいっと笑った。
貼り付いた表情のまま、何度も小さく頭を下げそそくさと通り過ぎる。
だが相手は終始変わらず無言のままで、その目には厳しい光が宿っている。
(逆効果だったか? しかし何だってんだ)
どうも腑に落ちぬままセルは通りを渡り、ギルドの重い扉を開けた。
「おやおや、こりゃ偉い人のお出ましじゃないか」
待ちかねた様子の主人はカウンターの奥から仏頂面で声をかける。
セルはいささかばつの悪そうな顔で
「おはよう。 ……って時間でもないか」と笑った。
「ま、お前さんが夜明けと共に清々しく起きだすなんて思ってもないさ」
言いながら、幾分表情を和らげギルドの主人は椅子を引っ張りだした。
カウンターの前に椅子を置く、これは話が長くなる事を暗に示していた。
(最近は怒られる事なんかしてないのに)
セルは勧められるまま腰をおろし、しかし何だろうと訝しげに目をあげた。
「ああそうだ、さっきレルラ=ロントンが寄っていったよ」
「え、レルラが?」
「そうさ、伝言もあるよ。 ……ほら、この手紙な。
一足先にロセンに侵入するとさ」
「え、ロセン?」セルは聞き直した。 「……何、何の事」
外へ出ると、件のエルフはまだ同じ場所に立っていた。
考えている内、彼女はこちらへ歩み寄り、低音だが明瞭な声でこう言った。
「依頼されたのはやはり貴方だったのね、セル」
セルはわかっているという風に頷いた。
「今の内に手を引くべきだわ。 闇の神器は、ネメア様がずっとその
行方を追っているの。 貴方が引き受けたというなら、それは私達を
敵に回すことになるわ」
ああ、さっき聞かされた依頼か。 セルは真顔を崩さぬまま、面倒な
事になったな、などと考えていた。
(レルラのいう期日ってのもそれなんだろう)手紙には曖昧な記述しか
残されていなかった。 ギルドの主人が話した依頼と、レルラの伝言から
彼は闇の神器に関する何かの日取りを調べにいった、というのがやっと
わかっただけだった。
一一やめてくれよ。 セルは考えた。 やる気なんてないんだから。
セルの沈黙をエルフは挑戦だと受け取ったらしい。
「他にもゼリグとドルドラムが同行するわ、強力なパーティよ」
そう言われてもやはり誰だかわからなかったが、セルは兎に角この話を
早く終わらせたいと思った。
(また随分とやる気に満ちあふれて)とりあえず頷いてみる。
「そう」
何か理解したらしい。
「わかったわ」
どうしよう、自分にはわからないが相手には自分がわかっている。
「……その時は容赦しないわよ」
そんな時は永久に来やしねえよ。 セルはやっと去ってゆく相手にほっと
安心すると、気が変わって戻ってきたりしないようにさっさと逃げ出した。
エンシャントの大門にはセラとフェティがもう待っていた。
二人は何か熱心に相談していたが、セルが近付くときっと顔をあげた。
「お、おはよう。 早いね」
「そんな事はどうでもいいわ。 ほら、さっさと出発するのよ」
「乙女の鏡に立ち寄ってから行くと効率がいい。 どうする」
「ど、どうするって」セルは二人の剣幕に恐れをなしながらそっと言った。
「どうするって、……何?」
一斉に二人が勢いよく喋りはじめる。 怒っているのか、説明しているのか
それすらも聞き取れない。
セルは困惑しながら、ある単語を耳にとめるとおそるおそる言った。
「え、……名指しの依頼? 断っちゃったよ」
「何ですって! どういう事なの、セル」
「何か話したがってたけど、いいっていいって。 そんなの。
聞かれたら、あ〜忘れてた、って言っとけば。 それよりレルラが一一」
「もう一度行って来なさい!」
フェティが怒鳴る。
「ちゃんと聞いてくるのよ。 許さないわあんなオイフェとか言うダークエルフに
先を越されるなんて!」
「さっさとギルドへ行って来い」
呆れたのか言葉を失っていたセラも無愛想に言い足した。
「ウルカーンまでは長旅だが、道中でエストという学者に会っておこう」
「エスト? オイフェ?」
セルは曖昧な笑顔を浮かべた。 一体なんなんだ。
皆どこへ行っちゃったんだ。 置いてかれている、私が話の中心らしいのに、
私だけが置いてかれている!
「え……何?」ますます混乱している。 「……誰?」