「雨が降っているわ、サイフォス」
 洞窟の入り口まで出てくると、私は言った。
ロイは何も答えず隣に立ち、空を見上げる。
 灰色の雲は低く垂れ込め、激しくもなく途切れる事もない、ただひたすら
静かに雨は荒野へと降り注ぐ。 
「エンシャントでは時折り雪が降ったわ」私は思い出そうとしながら言った。
「此処はどうかしら、……少しは積ったりするのかしらね」
 思い出す光景は誰の記憶かもうわからない。 探そうとする程、恐怖にも
似た思いが浮かんで来る。
 一一そんな事は、問題ではない。
禁断の聖杯を入手した事を、他の円卓騎士達はもう知っただろうか。
勿論、渡すつもりは無い。 彼らが彼らの言う所の『裏切り』に気付いたなら
必ず此処までやって来るだろう。
 私は相変わらず黙っているロイを見上げた。
「ねえ、サイフォス。 ……遊ばない?」

一一「小石を積み上げる、ですか」
「そうよ」言いながら自分でもひとつ拾い、山を作ってゆく。
「次は横に並べて。 ……そうじゃないわ、もう少し近くに寄せるのよ。
ふふ、ほらね。 綺麗な三角の山になったでしょう」
 大きくて、骨ばった手が無器用に動く度、積み上げた石はあちらへこちらへと
ゆらゆら揺れる。 不思議そうにしていたロイも、いつか慎重になり、
ゆっくりと時が流れている間、雨は静かに降り続けていた。
「ねえ、こういうのって、何だかいいわね。 何もなくて、静かで」
 二つめの山を作りながら、ふとついて出たようにそんな言葉を口にした。
「アーギルシャイア様」
 ロイは小石を持っていた手を止めた。
「このまま、為す術もなく此処にいるのは危険です」
「わかってる」しかし次の言葉を前に私は言い淀み、少しの間ロイを見つめた。
 ……もう後一秒でも、この時間が続くといいのに。

「アーギルシャイア様?」
「……わかっているわ。 サイフォス、頼みがあるの」



 高く堅固な壁に守られ、人々はかりそめの繁栄に身をやつし、誰も彼も
今日の平穏がまだ明日も続くと信じたいように笑顔を浮かべながら、その目には
どこか否定しきれない不安を浮かべている。
 ロティ=クロイス暗殺の報が市民達に与えた動揺は決して軽くはなかった。
彼は敵も大勢作ってはいたが、ともかく、リベルダムの主導者だった。
首謀者とみなされた冒険者が闘技場で謎の事故死を遂げても、人々の不安は
納まらず、彼らは今更のようにリベルダムがロストールやロセンとの間に
築いていた関係を思い出した。
 この時、ロティに変わり新たにリベルダムの主導権を握ったのが、彼の娘の
クリュセイスだった。
ロティ=クロイスの雇っていた傭兵、そして同時にロセン解放軍も彼女が
指揮する事となった。
表向きリベルダムの堅固な守備に何の変化もないように思われ、当初の不安も
徐々に市民達の間から取り除かれていった。
 アンティノはこの間、ひたすらクリュセイス=クロイスの補佐役を勤める事に
徹した。 そして、虎視眈々と機会が到来するのを待っていた。
 今日も陽は大きく橙色に町を染め、青い夕闇と鮮やかな対照をみせている。
あのいまいましい救世主ももういない。 もうすぐこれが自分の手中に納まるのだ。
 かくしてこの大陸一の自由と栄華を誇る商業都市は、混沌と影に潜む陰謀の果てに
ただ空しく横たわりその巨体を狙う者の足音を聞いていた。
 

 遠くで灯が無数に輝き、夜の闇に覆われた街の中でそこだけ別世界の様相を
呈している。 中に時計塔が浮かび上がってみえた。 自由都市に憧れやって来る
旅人達は、未知の技術が集められて作られたこの時計塔のまわりに陣取り、
リべルダムを象徴するものをいつも驚嘆の目で仰ぎ見ている。
 私は再びアンティノの屋敷からその光景を眺めていた。 かつて激しく嫌悪を
抱いたそれも、今では何の感情ももたらさなかった。 時計塔の広場が起点に
なっている一一堂々とした広い表通りと、細かく入り組み、慣れていなければ
簡単に迷ってしまう裏通りとを把握すると、私は窓を閉め、後ろを振り返った。
 アンティノの姿はなかった一一おそらくクリュセイスの居るクロイス邸に
向っているのだろう。 もう冷めてしまった茶道具が卓の上に忘れられていた。
 (まだ少し早すぎる)私は茶碗を取り上げたまま口もつけず、苦々しく考えた。
ロセン解放軍とリベルダムの指導者は、押さえておかなければならない。
(でも、せっかちね)まあ、いい。 私は無理矢理彼らの事を頭から
追いやった。 一一何とかなる。 ならなくても、私には問題の無い事。
(あとは)広場も、町の様子もいつもと変わりはない。 しかし、闘技場にはまだ
人が残っていた。 その中には剣聖と呼ばれるボルダン族の勇士も混じっている。
あれはとても、普通の兵士の手に負える相手ではない。
 あと少しで門は開かれる。 
(お出迎えしなきゃね)私は屋敷を後にした。 暗く続いている坂道が目の前に
広がり、踏み外せばそのまま転がり落ちてゆきそうな感覚が一瞬胸をよぎった。


 城門の上に立ち彼方を見通すと、夜の底が淡く白んでいる。 アミラルへと通ずる
道の途中にある村のひとつか、或いはノーブルへ向うそれか、いずれにしても
まだこの先起きる事など何も知らぬ気に平穏のままそこに在る。
(そう、目の前に現れるその時まで、それが自分に及ぶなど思う事もなかった)
あの村のように。 思い出そうとするとかき消される、霧の向こうの微かな残滓。
 (勿論、今は何の必要もない) 私はともすれば沈んでゆく思いを断ち切り、
海の方角へと目を移した。
 はじめは何も変わらぬように思えた。 しかし暫く凝視していると、暗く蠢く波を
背にして、影の如き一団が音もなくやってくるのがみえた。 意外に手勢は少ない、
しかし暗き野を疾駆してくるそれは、まぎれもなくあの黒い鎧の者達だ。
 振り返り、門の内側へと目を走らせる。 守衛の任に当っていた兵士が一人、
欠伸をしながらしゃがみこんでいた。 異変など気付きもしていない。
 おそらく示し合わせたのだろう、建物の間から間へと、縫うように影が動いている。
そっと呪文を唱えた。 場にあるものはすべて静止し、舞い落ちる葉の一片ですら
見えぬ矢に貫かれたように空中に動かない。
兵士はまだ何が起きたかも解らず、不審そうに口を半ば開けた所で止まっている。
 おずおずと手引き役の者達が姿を現わした。 彼らは最初戸惑い、しかし
意を決したように互いをみて頷くと、城門へと駆け寄った。
一人が兵士をその短剣で殺し、他の者達は仕掛けを囲むように陣取る。 
誰も一言も発せず、低く唸る音を立てながら重い扉はゆっくりと開きはじめた。
向こうからは青竜軍の黒き一団がもはや誰の目にもわかる所まで迫ってきている。
けれども町の方では誰一人、気付いた様子はない。 時計塔のあたりは明るく、
まだ大勢人も出ているだろう。
 (ならば閉じ込めてしまえばいい)黒き鎧の一段の中にただ一人、巨大な鎌を携えた
青い魔鎧の騎士の姿を確認すると、私は城門を降りた。
 広場へ続く道には酔客がふらふらと歩いていたが、空間を割り、突如目の前に
現れた私の姿をみると目を丸くした。
「あんた一一」酔客は何か喋りかけた、が言葉が終わらぬ内その首から上は千切れ
吹っ飛んだ。 腕がまだがくがくと揺れ、ゆっくりと身体は後方へと崩れてゆく。
気にもせず歩を進め、広場へとつながる道に図形を描く。 何本か通じているとは
いえ、後は住宅街か港、闘技場へ逃れる道があるだけで、脱出路はなかった。
 目を閉じると、広場の方からはまだ何も知らぬ市民達のざわめきが伝わってくる。 
幾許もせぬ内此処は一一私は静かに深く、ひとつ息をついた。 低く呟く呪文と共に
地に描かれた図形が妖しく光を帯びる。 やがて中から古の怪物がゆっくりと
その姿を現わした。


 高き城門をくぐり、リベルダム市中へと侵入した青竜軍は、眼前に広がる光景に
思わずその足を止めた。
「こ、これは……」兵士の声は上ずり、震えた。 その視線の先には、大形の
怪物が何匹も群がり、立ち並ぶ家々を執拗に襲い、壊していた。
何度も古く傾いた家に体当たりするその度に、怪物の皮膚は裂け、汁が流れ出る。
木っ端を散らしながら瓦解するその陰より、たまらず住民が走り出てきた。
一斉に数匹、そちらへと顔を向ける。 蒼白になり動けぬ住民を我れ先にと
襲い掛かり、べちゃ、と潰れるいやな音と共に住民は怪物の群れの中へ没した。
血と臓物で身体を染めながら、怪物は尚その先にあるものを襲い続ける。
「カルラ様、この怪物共は一体……リベルダムに何が起きたと言うのでしょうか」
 側近が直後に居た青鎧の騎士へと問いかけた。
「んー? そうね、ちょっと気持ち悪い援軍が現れたって所かな」
 カルラは勤めて動揺を表に出さぬよう答えた。
「大丈夫、だいじょーぶよ、彼らはちゃんと制御されてる。 こちらへは来ない。
……作戦に変更はなし」
「それでは我々は港及び出入り口の封鎖に向います」側近は部下を集めた。
「後の者も反乱軍の首魁クリュセイス=クロイス及び奸商アンティノ=マモンの
確保が済み次第順次町へと廻るんだ、行け!」

 城門近くのスラム街に幾つも火の手が上がる。 悲鳴は止む事もなく響いていた。
カルラは部下数名を従えたまま、ふと足をとめた。 
行く手に佇む影を見極めるように凝視し、一見何もなげにゆったりと携えられたその
巨大な鎌は、いつかの夜の時と同じ、瞬時にこちらの首をはねとばそうと油断なく
狙っている。
 私は静かに言った。
「ようこそ、リベルダムへ。 ……ひさしぶりね」
「随分熱烈な歓迎じゃない」カルラの背後で炎が揺れている。
「あーあ、ここを占領したらアンティノ=マモンに任せるはずだったのに。
こんなに壊しちゃって、困ったなーどうしよっかなー」
「あら、そうだったの。 ……どうしよう、壊しちゃったわ?」
 言う側から大きな音をたてスラムの一角が崩壊する。 アンティノは知らないのだ。
交渉の水面下で取り決められていたそれと反する事柄を。 薄く笑う私に、
カルラも口の端を歪め面白そうに、しかしどことなく不興気に笑い声をあげた。

 市民たちは突然の来襲にただ怯えて逃げ惑い、統率を失った市民兵や傭兵たちは
なす術もなく続々と投降してゆく。
リベルダム制圧は着々と進んでいたが、ただ一角、青竜軍が劣勢であるという
報告が入った。
「闘技場近辺です」走ってきた部下も手傷を負っている。
「内部にいた者の中には手練れの冒険者や魔道士がいます」
 カルラは無言でこちらを見た。 
「自由都市、終焉の時ね」私は言った。 「舞台に上がっているのが今迄
厭われてきた非市民ばかりというのも、皮肉な話だけど」
「本当に自由が欲しい奴なんて、皆そんなもんでしょ」そう応えながらまだ
カルラは決めかねている様だったが、やがて頷くと周囲の部下達を見渡した。
「いい? 此処へ来たのはあくまで帝国に逆らう不穏分子の掃討の為、我々は
彼らが戦いをやめ朝までに出てゆけば一切干渉はしない。
もう後続の船が着いている頃よ。 手筈通り闘技場を破壊し、彼らの戦意を
喪失させる! 我々は確かに数の上では劣るかもしれない、けれど戦場を
駆け抜ける青き死神と謳われた精鋭ならば。 我々なら、ただ数を寄せ集めた
だけの烏合の衆など、蹴散らす事もできる。
行きなさい、ディンガルの威光を、彼らにみせつけてやるのよ!」

「さすがはディンガルの将軍様といった所かしら」
 兵士達が去るのを見届けると、私は言った。
「なーによ、皮肉?」
「誉めてるの。 それより……」跪き、呪を唱える。
 召還されていた怪物達が次々また闇へと還ってゆく。
「用事があるのを思い出したわ。 闘技場はもう、貴方達だけでいいわね?」
「勿論」カルラは手にしていた死神の鎌で地面を軽くつき、抱え直すと言った。
「入ってみたら終わってるんだもん。 もう、とっても助かっちゃった」
  軽く流す口調にどこかそれまでと違う嶮がある。 以前、ロセンに送った
人造モンスターは確かその頃まだ密偵をして居たこの将軍と、カノン達によって
倒されたとは聞いていたが。
「無理しなくていいわ。 ただ、遊んでいただけだから」
 所詮は人間、多少は冷酷だと見聞きしていてもこんなものだろう。
踵を返す私に、背後から声がかかった。
「ねえ、あんたって……おぼえてるかな、ロセンに来た時の事。
あの時は、普通じゃないってのはわかってたけど、でもやっぱり人間かもって、
魔力の高い人間なんだろーな、ってそんな風に考えてたのよね。
でも、大間違いだったわ。 あんたって、本物の……魔人なのね」



 クロイスの屋敷付近にはまだ怪物が残っていた。 怯えて前に出ない
兵士達をすり抜け、ほどなくして闇へと還すと私は、そのまま屋敷へと
ゆっくり歩を進めていった。
 ここはまだ荒らされていない。 内部は恐ろしく静かで、誰の姿も
見かけなかった。 おそらくてんでに逃げ出したか、あの混乱の中
どうする事もできず、降伏したのだろう。
 遠くでやっと元気を取り戻したか、兵士達の叫ぶ声が聞こえる。
解放軍の首魁クリュセイスが追われているのを、私は知った。
「哀れね、まだほんの子どもなのに」
 庭園の草花が、主の異変など余所に月の光を受けて揺れている。
一際目をひく大輪の百合が、分かれた茎から幾つも白い花を咲かせていた。
佇んでいると、甘くひそやかな香りが漂ってくる。
「カルラに、花には手を出さないで、と釘を差しておくべきだったわ。
今の兵士達なら、見境なしに踏んで歩きそうだもの。
全く人間って、どうしようもなく嫌な生き物ね。 そう思わない、アンティノ?」
 静まり返った庭園には一見誰の姿も無かったが、そのまま暫く待っていると
やがて諦めたように物陰からアンティノが姿を現わした。
「カルラはリベルダム攻めを手引きする代わりに総督の座を任せると
言って来ていた」
「そうらしいわね」
「だが、いざ事が成ると待っていたのは委任状ではなく逮捕状だった。
甘言に騙された俺を愚かだと笑うか?」
 答える前に私はもう一度アンティノを見つめ直した。 動揺して額に
脂汗を浮かべた小男は、尊大な面持ちで自分の置かれた境遇に憤っており、
未だ本当には状況を理解していないように思えた。
「連中はロセンを奪還しようと画策し、武器を集め人造モンスターを用いて
リベルダムを混乱に陥れた反乱軍を捕らえろと叫んでいた。
カルラめ。 あの小娘、裏切りおったか、と俺は最初思った。
だが、お前の姿をみて考えが変わった。 そうだ、何故気付かんかったのか。
嬉しいだろう、お前を魔人に渡した俺が没落する樣は。 何が望みだった、
リベルダムか? それとも世界を無に帰す力か。 なあ、シェスターよ」
「私? リベルダムなんか要らないわ。 私が欲しいのはただひとつだけ」
 遠くで地鳴りにも似た音が断続的に響いている。 ぱっと街中は明るくなり、
また夜へと戻された。 異様な空気が辺りを支配している。
「貴方もどうしても叶えたい望みがあるのだと、言っていたわね。
だから私は、貴方を信じた。 無駄ではなかったわ、彼女に会わせてくれたもの。
貴方が彼女に器を渡す手段を講じている間、私はずっとその代償を最大限に
支払わせる事について考えていたの」
「俺をディンガルに引き渡す事……か」
「実際、とても役に立ってくれたわね。 カルラに通じる一方で、解放軍にも
表向き力を貸し、今回はリベルダムを混乱に陥れ青竜軍を招く理由まで作った。
ありがとう。 最後にもう一つだけ済ませていって、罵声を浴び処刑される
裏切り者の役を」
「そしてお前は望み通り聖杯を手に入れ、デスギガースよりもっと凄い怪物を
作るという訳だ。 そうか、そうだったな。 お前も聖杯を欲しがっているんだ
からな、そうだろう、アーギルシャイア」
 その名前に思わず少し笑いが洩れた。 
「そうよ、今の私のどこを探しても、魔人だったという記憶しかない。
器になったシェスターが、どれ程恐怖したか、その間何を思っていたか、知る事は
できるというだけ。
じゃあ、私は魔人なのかしら。 いいえ、そうではないわ。
私は、魔人として魔術師を乗っ取ったと思っている魔術師。 そういう事になるので
しょうね。 けれど、私は魔人じゃないかしら。 そうとしか思えない。
そうでしょ、絶対。 そうよね、私が人間の筈がない。
自分の姿をみようとすると、いつまでも止まれなくなるわ」
「いいや、お前はシェスターだ。 ずっと見てきた俺だからこそわかる。
無惨なものだな、心をなくすという事は。 たがが外れ、ただ欲望だけが
染み付いたように残り、その為になら魔人の奴隷になっても構わんか。
……だが、俺はそれを笑う事が出来ん」 
 兵士達の怒号に混じり、女の悲鳴が細くきれぎれに響いてきた。
「お別れね、アンティノ。 解放軍は潰えたようだわ」
「いいや、まだだ。 ひとつ取り引きをしないか、シェスター。
いや、魔人か。 どちらでも構わん。 
お前も、このままカルラが手をこまねいてるとは思わないだろう。
どんな条件を交したか知らんが、忘却の仮面と危険な人造モンスターが
開発されている。 理由なら十分だ。
だが、もし儂が見つからなければどうなる? 解放軍の残党がまだいると
思えば? あの小娘なら必ず搦め手を考える。 すぐには潰さん。
人造モンスターがどれ程の威力かは、実際みて知っている訳だしな」
「なる程ね」
返答だけはしたものの、相手の言葉は殆ど聞いていなかった。
代わりに、私は別の光景を思い出していた。
「炎に包まれる町、こだまする悲鳴。 理由は違っても、起きる事実に
そう変わりはないのね」
「ミイスか」
「貴方は気付いていた? あの場所に隠されたものの正体を」
「いや、どこかにあるだろうとは思っていたが……そうなのか?」
「忘却の仮面。 私が管理する筈のものだという事を置いても、どうして
彼女がこれ程気にするのかわからなかった。 
必要だったのよ。 望みを叶えるのに十分なものが、そこにある。
本当なら、それだけで足りていた。
ただ、聖杯なしにそれを知る事は、できなかっただけ」
呪文を唱えると、デスギガースは空を割って現れ、私をみて嬉しそうに
けたたましい叫び声をあげた。
「貴方にこの子を貸してあげる。 闘技場はまだ冒険者や傭兵達が占拠していて
カルラの支配は及んでいない。 逃げるなら其所だけよ」
「逃がすつもりになったというのか」アンティノはやや疑い深げにデスギガースと
私を見比べた。
「だが何の為に? まさか憐れみからでもあるまい」
「聖杯は、持つ者に膨大な知識をもたらすわ。 それをもってすれば、
私の望みをかなえる事ができる。 造れるわね、アンティノ?
命の連鎖を離れ、究極の静寂を内包する完全なる存在を」
「聖杯?」けげんな表情を浮かべた彼は、一瞬の沈黙の後、驚きと半ば
確信をこめて声をあげた。
「では手に入れたというのか、禁断の聖杯を! お前が、ついに!」
「言葉には気をつける事ね、アンティノ。 私は貴方のご主人様なの。
シェスターなんてもう何処にも存在しないわ。 今はもう、破壊神の円卓騎士。
心をなくすもの、アーギルシャイアなのよ。 ……そうでしょう?」
「いいだろう、この場はお前の提案に乗るとしよう。 究極の生物を、
現出できるというのなら俺もそれを是非みてみたい」
「では、まずは此処から脱出する事ね」
 頷くと、デスギガースはアンティノの方へのろのろ歩いてゆく。
「聖杯は研究所にあるわ。 ……期待しているわね」







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