あの研究所を去ってから暫くの間、何をするべきかわからなかった気がする。
とりあえずはエンシャントに戻り、あてもなく、宿屋の窓から外をみていた。
ロイは冒険者になるよ、とも父の跡を継いで神官になる、と言ってはいたけど、
ギルドにも神殿にも足を向けようとはせず、私もとりたてて急がせる必要を
感じられなかった。
 アンティノは行方不明になっていた。 時々、私達は彼のその後についての噂を
あれこれと聞かされた。
ロイはあまり興味もなさそうに「そうですか。……ずいぶん悪い事もしていた
ようですからね」と答えを返すのが常だった。
 私も何も言いはしなかった、が無関心にもなれなかった。
そして、初めて彼に会った時の事を振り返っていた。

 あの時もいつものようにアカデミーの図書室で勉強していたと思う。
「熱心だね」
背後から掛けられた声に驚いてふりむくと、裕福そうな中年の男が立っていた。
「いえ、そんな事は」
「いやいや、そこの席でしばらくみていたが、その間一度も顔をあげなかったよ。
成績も常に最上位だそうじゃないか」
「え……?」
 何故そんな事を知っているのだろうと訝りながら相手を観察する。 確かに見た事の
ある顔だが、すぐには出てこなかった。
「ああ、私はリベルダムでちょっと商売をしていてね。 中で最近力を入れているのが
魔道を扱う部門なんだよ。 ここの卒業生にも何人か働いてもらっている」
「そうですか」
 相槌を打ちながら、確か学院長の部屋で談笑しているこの男を見かけた事があった、と
私は思い出した。
「君の事もよく知っているよ、シェスター君」
「それはどうも」
 私は失礼ではない程度に短く言葉を返した。 この男の言わんとする所、その態度、
何か正直引き付けられるものがないではなかった。 が、しかしそれが却って私に
警戒心を呼び覚ましていた。
 男はたいして悪くとった風もなく、笑顔のまま話を続けた。
「ところで……ずいぶんと古い記録を調べているようだが、先人類の遺産に興味でも?」
「え、ええ」
 この男の口から先人類という単語が出るとは意外だった。 ロストールの考古学者が
発表した学説はディンガルのアカデミーでも盛んな論議を巻き起こしたし、検証しようと
する者もないではなかったが、多くは保守的な上層部に倣い従来通りの研究を繰り返す
のみであった。
 そもそも先人類に関する事柄は資料が少なすぎた。 件の考古学者は必死に遺跡を調べて
いたが、中々捗々しい報告はなされなかった。 それでもそこには全て徒労に終わったとしても
探さずにはいられない、人を魅了する何かがあった。
 考えこんでいると、男は言った。
「それじゃ、闇の神器に興味は?」
「闇の神器……?」
 まるで覚えはなかった。 が、図書室の奥に文字通り山積みになっている古文書の事が
頭に浮かんだ。 
 男は自分の投げかけた言葉がどんな反応をもたらしたか確かめるように私をみていたが、
やがてにやりと笑い、立ち上がった。
「古代の魔道器の一種だよ、とても強力な」

 男が去った後、私は矢も盾もたまらず学院に頼み込み、閲覧不可だった史料を漁った。
幾つかの遺跡には実際に足も運んだ。 霊峰トール、乙女の鏡……
 先人類が闇の神器を造った経緯については知る事ができた。 が、肝心の神器はロストールに
封印されている禁断の聖杯を除いては、怪物の棲む迷宮、その地の長老以外は出入りする事の
できない火の精霊神の座所へと繋がる洞窟等、とても入り込むことなどできそうにない
難所ばかりであった。
 私は落胆したが、一方では益々期待が膨らんでいた。
あの男はそれからも度々学院を訪れた。 
「何という叡智を秘めた魔道器なのでしょう」
 私はすっかりまだ見ぬ神器に取り憑かれていた。
「先人類はあれを実際に用いていたのかと思うと、その力を掌握し、なおかつ繁栄して
いたのだと思うと、私、日々驚嘆するばかりです」
「確かに神器をはじめから造るとなれば、今の我々には難しいだろう。 だが、その力を
引き出す事ならばできる。 それだけの価値のあるものだ。
例えば禁断の聖杯。 あれがあればどれ程の事ができるだろう。
あれが……あれがもたらす知識があれば、人は偉大な力を手に入れる。
己の宿願を形にする事もできる」
 願い。 私の欲しているもの。 幼き日の悪夢が蘇ってくる。
軍馬がすぐ近くを通り過ぎる時の、激しく揺れる大地。 その老幼を問わず、倒れて血を流し
泣き叫ぶ声で何も聞こえず、道無き道以外何も見えなかったあの日。
 けれども力があれば。 そうすればもう泣かなくてもすむ。 逃げる事もなかった。

(過ぎた事だわ)私はかぶりを振り、咄嗟に浮かんだ考えを否定した。
が、その時感じた甘美な音は残響となり、いつまでも消えなかった。 
力。 先人類の遺した偉大な力。
 研究に没頭していると、どうしても時を忘れる。 学院に連泊する事も珍しくはなかった。
1人の時はどうでも良かったが、弟が旅から帰ってくるとそういう訳にも行かなかい。 
成人して冒険者になった彼は、剣の名をとって「月光のセラ」という通り名で呼ばれていたが、
いざエンシャントに戻ってくればそれはそれは口煩い、家事万端器用にこなす、役に立つけど
嬉しくない弟に変貌した。
 その日も慌てて帰り、家の扉を開けようとすると、早くも美味しそうな匂いが漂ってきた。
「お帰りなさい」
わざわざゆっくりと歩いて出迎えた弟をみると、私は明るい口調で声をかけた。
「……ただいま」
 大方帰る時間が遅いとでも言いたいのだろう、苦虫を噛み潰したような顔のまま、弟は
不承不承挨拶を返して来る。
 その表情と、素直な言葉の落差がおかしくて、思わず吹き出した。
「何で笑うんだ」
「ごめん、何でもないの、本当に」
 動揺して、顔を赤くする様子をみると、尚更笑いが止まらなくなる。 腹が痙攣して、
涙まで浮かべて笑うと私は、硬直する弟を抱き締めて言った。
「元気そうね、安心したわ」
 夕食の席で弟は、旅の最中の出来事をずっと話し続けた。 そんな風に熱中して話すのは
とても珍しいことだった。 私は嬉しくなって訊ねた。
「……それで、そのロイと言うひともここまで来ているの?」
「いや、奴は一度自分の故郷へ帰ると言っていた」
 弟はすっかり冷たくなった茶碗を思い出したように取り上げ、一口飲んだ。
「エンシャントの東側にミイスという村があるらしい。 そこの神官の家の出だそうだ」
「そう……ミイス……知らない村ね。 でもどこかで……みた覚えはあるけど……」
 腕を伸ばし座ったまま茶を注ぎ、しばらく逡巡する。 聞いた覚え、はなかった。
あくまでも見た覚え、であった。 学院にこもり切りの毎日で、見た覚えがあるもの等
限られている。

 次の日から早速ミイスという村について調べ、それがディンガルの地図には載せられて
いない場所である事を知った。 セラに問い質したが弟はこちらの心中を察したのか
「詳しい所は知らない」と濁し、私は頭を抱えた。
 ようやくそれらしい記述を得たのは数週間も経ってからか。 神官の家という言葉が
どうにも引っ掛かり、候補を一番数の多いノトゥーンの神殿に絞って調べていた。
「わかったわ」
 その日の夕食で、私は興奮気味に話した。
「エンシャント付近で東側にある、一面ただ深い森とされている所に神官が派遣されてるのよ。
街道沿いで最寄りと思われる村には「語ってはいけない」人達が定期的に訪れている。
何もなくて、深すぎて帰れない森もある。
 古い記録に神官を失い、新たに任命される、っていう主旨の文をみつけたの。
けれど、派遣されたってなっている村には神殿は存在しないわ。 そして、それ以降の
記述はいくら調べても確認できない……どう思う? ねえ、ここがそうだと思わない?」
「仮にそうだとしても」
 弟は黙って聞いていたが、水を向けられると渋々口を開いた。
「何故ロイの住む村がそんなに気になる?」
「闇の神器がみつかるかも知れないのよ」
 私には弟の渋る表情などみえなかった。 それが何を意味するかなど、どうでも良かった。
「神器はそれぞれ大陸に分散しているわ。 神殿に納められているもの、隠されているもの
様々だけどその中のひとつは、神器の守護者の一族が代々管理しているの。
そしてその一族が受け継ぐ名が、ミイス。 その神官がそうだという保証はないけど」
 が、弟は頑としてその話には乗らず、その場所へ行きたいという私の望みも拒否した。
「何故そんなに嫌がるの?」弟は答えない。
 しかしこうまで一途に黙されると、かえって彼には何か含む所があるのではないかと、
疑わずにはいられなかった。

 折よく学院にアンティノが訪れていた。 セラとの一件を話すとアンティノは頷きながら
聞いていたが、言葉が尽きると拍子抜けしたように口を開け、こちらをみた。
「それだけか。 禁断の聖杯は?」
「え、そ、それは……」意外な反応に思わず口ごもる。
「そのミイスとやらにあるのは別の神器だ。 それが神器だとしての話だが」
 それはその通りだった。 が、膨らんだ気持ちを一遍に潰されたようで、良い気はしなかった。
だがアンティノは私の口惜しそうな表情など気にもかけなかった。 彼はよく聞き取れない声で
ぶつぶつ呟いていたが、次第にその声は大きくなり、早口になった。
「必要なのは聖杯なんだ」アンティノの額には汗が幾筋も流れていたが、彼はそれをぬぐおうとも
しなかった。 
「持つ者に膨大な知識を与えてくれる禁断の聖杯。あれがなければ、いや、あれだけが俺にとって
価値がある。 あれを……俺自身の心の投影といってもいい、あれを造る事ができるんだ」
 こんな様子の彼をみるのは初めてだった。 が、怖くはなかった。
私にも、内に似た思いが存在することを気付きはじめていた頃でもあった。
 アンティノは続けた。
「毎晩夢に出て来る。 輪郭も、その呼吸もすべて手にとるように伝わってくるのに。
奴を形にする手段だけがない。 できるのは聖杯だけだ。
あれの前では金など無意味だ。 どんな宝も光を失う」
 黙って聞いていたが、そこでアンティノは不意に口を噤んだ。 
「喋り過ぎだな」どうやら聞こえる位の声で、彼は自嘲気味に呟いた。
やがてアンティノは顔をあげた。 いつもの穏やかな表情に戻っていた。 彼は吐息をつき、
私に向かって訊ねた。
 「……君にはどんな犠牲を払ってでも叶えたい野望があるか?」
あります、と答えようとして私は躊躇った。 弟の怒るような表情が頭の中にちらついている。
 が、アンティノはその場に流れた沈黙を答だと解釈したようだった。
「そうか。 ……まあ、それも幸せだろうな」
「い、いいえ」私は慌てた。
「あります、私にも……ずっと曖昧にしていた望みが。 形にしたい願いがあります」
 アンティノは笑った。 そして、私の肩をぽん、ぽんと数度叩くとどこかへ行ってしまった。

 自分の中を覗き込んで、そこに在るまだ何とも区別のつかないうぞうぞとした願望をみたら、
人はそれをどうするべきだったのだろう。
 魔道の研究をしていると、それを実現させる可能性がある事に気付かざるを得なくなっていた。
それは、正しい思いとは言えず、口に出すには忌わしく、しかし確固として存在していた。
 アンティノに問われた時、無理矢理その見ないでいようとしたものへ、顔を向けさせられたような
気がした。 
 止める事は出来なかった。 自分で自分が許せなくなっても構わなかった。

 帰ってみると、セラが荷物をまとめていた。
「また旅に出るの?」
「ああ」顔も上げずに弟は答える。 
「そう」私も短く頷いた。 「寂しくなるわね」相手が嫌がっているのはわかっていたが、
その場を離れられなかった。 私は壁際に寄せられた小さな椅子に腰をおろすと、黙って
弟の所作をみていた。
 軽い荷物ひとつ、旅慣れた弟には大した時間じゃなかった。 けれどその間、室内にはずっと
微妙な沈黙が流れていた。
 何か言葉をかけたかった。 しかしこんな時でさえ思いつくのは弟を怒らせる事ばかりだ。
 セラが顔をあげ、ひょいと肩に袋を担ぐ。 居間の隅に立て掛けられていた月光は、しっかり
折れそうな細い腰に下げられている。
 弟はこちらを見ない位に軽く頭を俯けて会釈する。
「行って……きます」
 律儀に挨拶すると彼はそのまま、すたすたと扉へ向かって歩きだした。
急に胸が苦しく、切なくなる。 このまま会えなくなる気すらしていた。
「待って!」
 何と言うか考える前に、体が勝手に叫んでいた。
勢いに驚いたように、弟がびくっと震え扉の前で立ち止まる。
 必死に何か言葉を探した。 しかし何故だろう。今まで眠る時間を割いて読んだ数多の本も、
目を通した膨大な古文書も、一切の言葉は、深い水の底の闇に吸い込まれ、消え失せていた。
 何もいえない。 だがセラはそれと知らず去ってしまう。 悲しかった。
もっと一緒に居たかった。 聞きたい事も、話したい事も、まだまだあった。
何より、もっと大事にしてあげたかった。
 だがおそらく、この感情も数分も経てば忘れてしまえるのだ。 私にはそれがわかっていた。
違う意味で弟もまた、そういう人間であった。
誰よりも深く、大切に思っていても、目指すべきものの為なら、私達はどこか冷徹になれる。
小さな人ひとりの感情など無意味だった。 だが、それでいて悲しいというのも本当なのだ。
 セラが去ってゆく。 引き止めようとは思わない。 出来るとも思えなかった。
闇の神器について調べている時、私はしばしば時を忘れた。
全ては夢幻の彼方に過ぎ去り、ただ本に書かれた過去だけが日に照らされ輝きだす。
そこには誰も入る事などなかった。 そしてそれは至福の時間だった。
 ……これは単なる感傷なのだ。

「そんな悲しい顔をしないでくれ」
 セラが突然口を開いた。
「姉さんが望んでいることは、俺にもわかっている積りだ。 だが、奴にも……ロイにも、
それを隠す理由がある。 俺には教えられない」
 セラは扉を開け、半歩程外にでた。 が、また立ち止まった。
「奴は……名前は、ロイ=ミイスと言う。 神官で同時に誇り高い戦士だ」
 言い終わると同時に扉が大きな音をたてて閉められた。 駆け出してゆく足音が聞こえる。
放心したまま私は呟いていた。
「ミイス……ロイ=ミイス……やはり……」

 それから程なくして私はアンティノの研究所に誘われた。 彼は非常に快活に話し、忘却の
仮面の事についても大いに研究するべきだ、費用は惜しまないよと激励してくれた。
 正直私は少し意外に感じた。 が、安易に疑うのもどうか、と思いなおした。
それにアンティノの出した条件は頗る魅力に富んでいた。 私は彼の誘いを快諾した。



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