古代アルレシア王国由来の都市、アルノートゥンはその名が示す通り
天空神ノトゥーンを祀る神殿のある場所でもある。
故に此処には大陸各地から神官やその卵達が足繁く訪れていた。
テラネ近郊の霊峰トールが巡礼者の絶えぬ大陸で最も高い山なら、
こちらは高地に造られた最も天に近い町だ。
はじめてこの地にやって来た神官は、堅固な門を前にふうと深く
溜め息をつく。 脳裏にはそれまでの道中が去来する。
森の中の一本道を怪物達の視線を感じながら歩いた。
山賊が出るという道では目をこらし息をひそめ、途中の宿では
同じく旅をする者とひとときの会話を楽しみ、曲がりくねる古い街道を
上へ上へと登り続け息をきらしたまま古い吊り橋から顔を出せば遥か下に
先程越えた急流が細く澄んでみえる。
だがやっと、……やっと此処まで来る事ができた。
神官は中へと入り、精緻な造作の昇降機を目にして思わず立ちすくむ。
聖光石の輝きにも似た彩を放つこの装置は、古代の魔法文明において
作られたものであり、今では誰もその子細を知るものはいない。
過去、数多の神官達がこの装置を通り天経院へと向ったのだ。
神官は厳かな気持ちでその装置が放つ光を眩しそうに眺めいる。
やがてその前方に目指す扉が開かれた。
神官がゆっくりと足を踏み出した時だった。
突然、目の前に珍妙な生き物が現れた。
「ギー、セルカ?」
それは竜に似た姿の、しかし大きさはさほどでもなく精々中くらいの犬程度で、
2枚の羽をばたつかせ長いしっぽを陽気に振りながら大きな目でこちらを覗き込んだ。
「ギー?」
「わあっ!」
神官は声をあげのけぞった。
「セルジャナイノカ、ナンダー」
イズキヤルは首をひねった。 相手が目当ての人間ではないとわかったらしい。
露骨にがっかりして後ろを向く。
「か、怪物っ」
「……マダカナー」
「これ、驚かせちゃいかん」
向こうから声がする。 旅の神官が顔をあげると、大柄で日焼けした神官長が
汗を拭いながらやって来た。
「ギー。 イオンズ、セルマダコナイゾ」
「古の樹海に行っとるんじゃ、そう簡単には帰れんよ」
イオンズと呼ばれた神官長は何気なく答えると、旅の神官をやや気の毒そうな
表情で見やった。
「驚いたかね? まあ、大丈夫だから来なさい。 天経院はまだずっと坂を
登った先にあるからね、大きな建物だからすぐわかるじゃろ」
旅の神官はまだ顔を引きつらせ頭を下げる。 笑顔のイオンズと目があうと
気後れしたか挨拶もそこそこに足早に通り過ぎた。
まだこちらへ向けた視線を背中に感じながら旅の神官は考えていた。
一一流石は聖地だ、自分には考えもつかない事が次々起きる!
「まったく、」
イオンズはたしなめるようにイズキヤルを向いた。
「いきなりあんな所に居られたんでは、お客さんも驚くわ」
言っているそばから小さくなった怪物は扉が開くと首を伸ばし確かめている。
いつも見るたび土産だといって飴だのおもちゃだのをくれた赤髪の冒険者は、
数日前仕事でこの都市を離れる時も時間を作りイズキヤルに会いに来ていた。
「スグ帰ッテクルト言ッタンダ」
「そりゃそうだが、冒険者は早々一ケ所に留まるまいよ。 他の依頼も有る。
……どうだ、それまでいつもの様に子ども達と遊ぶのは」
ギー、とイズキヤルはつまらなそうに一声鳴くと、それでもまだ諦めきれず
扉の方をじっと見ている。
やれやれと思いながら、さりとて怒る気にもなれずイオンズは、いつもいる
石の階段の中途あたりに腰を下ろした。
そういえば子どもたちも少し前にちょっと見たきりで、賑やかな声も
今は聞こえない。 周囲を見渡しても居るのは神官と傭兵ばかりだ。
むさ苦しい事この上ないのう、とイオンズは苦笑し、それからもう一度
落ち着かない様子のイズキヤルを見た。
元々他を威圧する巨体を無理に縮めた為か、背中の造作がどことなく
不自然にみえる。 頭や尾などの大きさも釣り合いが取れているとは
言い難い。 が、それ故に印象が和らぎ、一種のおかしみを見る者に与えた。
子どもたちに、セル。 町の住人も今ではそれ程恐れなくなった。
いつまで待っても赤毛の冒険者は現れない。 そわそわして落ち着か
なかったイズキヤルも、ようやく失望の色をにじませる。
声をかけようかイオンズが迷っていると、一段高い歓声が反対側から上がった。
「そこにいたんだ、イズキヤル遊ぼうー」
子ども達が数人、元気に走ってくる。 手には今まで作っていたのだろう、
野の花を繋いで編んだ輪を大事そうに持っていた。
「ギー、ミンナドコニイッテター?」
「天経院の向こうの原っぱだよ、ほら」
内のひとりがイズキヤルの首に花輪をかける。 すっぽりと挟まり驚いた
彼が不思議そうに頭を捻ると、子ども達はわあっと囃し立てた。
「まだいっぱいあるよ、行こう」
ギー、とイズキヤルは迷ってイオンズを振り返る。 神官長は笑顔のまま、
うんうんと深く頷いた。
「……ギー、オレモソコニイクー」
「こっちだよ、おいで!」
イズキヤルと子ども達の姿がみえなくなると、イオンズはそれ以上目で追う
のをやめ、一服しようと俯いた。
楽しそうだった。 本当に幸せそうな光景だった。
イオンズは思う。
……わしだけかも知れんな。 まだどうしようもなく不安を感じるのは。
大丈夫だと言い聞かせる側で、そのあやうさを見て取ってしまうのは。
昇降機が何度目かの光を放つ。 もう陽は沈みかかっていた。
今日最後の訪問者かなと思い、別にどうという訳でもなくそちらを向くと、
中からぱっと燃えるような色をした赤毛の冒険者が出てきて、きょろきょろと
辺りを見回した。
「イズキヤルなら、子どもたちと遊びに行ったよ」
声の主に気付くと、冒険者は嬉しそうに顔を輝かせた。 後ろから仲間が
数人、連れだって出てくる。
「先に行っているぞ、セル」
長身の剣士が口を開く。
「うん、ごめんね」
セルは軽く頷き、それからイオンズの元へやって来た。 数日の旅とはいえ、
顔といい腕といい、みえる所のあちこちに小さな傷を幾つも付けている。
「古の樹海は難所だからのう。 ……どれ、回復してやろう」
一一「キッカネの香草を探してて」
イオンズが呪文を唱え終わるや、セルは待切れないように言いはじめた。
「とにかく迷って迷って、大変だった。 もう暫く行かない! あんな所。
今日帰るって約束したから、慌ててさー」
「だいぶ待っとったよ」イオンズは穏やかに微笑した。
「入り口近くでずっと頑張っとって、かわいそうに、何も知らずにやって来た
旅人が皆驚いて腰ぬかしとったらしいわ。
まあ、今日はゆっくり休むがいい。 疲れたじゃろ」
「うん、でもね」セルが言いかけた所へ、神官がひとり息せき切って走ってきた。
「神官長様、どうかすぐにお越しください。 実は一一」
「やれやれ、またかいな」イオンズは焦る神官を手で制すると立ち上がった。
「どれ、ちょっと行って来ようかの」
「あ、待って」セルは慌てて呼び止めた。
「明日出発するんだ」イオンズも振り返る。 「だから、……あの」
「ずいぶんと急じゃの」
「うん。 ……途中のアキュリュースに寄った時、依頼された仕事だから。
本当はもう少しいたいけど、……だからね」
「案ずるな」顔を曇らせるセルにイオンズは優しく言った。
「話しておくからの。 良い友達に恵まれて、彼奴も幸せじゃろ。
……気を付けてな」
日はすっかり沈み、夜の帳が降りるとその辺りに居た傭兵達も数名の
見張り役を残し、宿へ戻っていった。
セルはイオンズが去った後もまだずっとその場に残っていた。
(疲れたな)ごろりと仰向けに寝そべると、狭い階段から落ちそうになる。
上空にはもう星が幾つか出ていた。
視界の端で影が動く。
「セル、ヤッパリ来テタンダナー」
「勿論。 約束したからね」セルは微笑し、寝たまま隣を向いた。
珍妙な顔の生き物が、ふわふわと空に漂いこちらをじっとみている。
首には少し萎れた花輪がまだかかっていた。
「友だちに貰ったの?」セルは訊ね、それから申し訳なさそうに付け加えた。
「ごめんね、何か持って来たかったけど、何もないや」
「ギー、セル、今日ハアソベナイノカー?」
「うん?」
「コドモタチハ皆カエッタ。 セル、モウ寝チャウノカー」
「ううん、遊ぶよ」セルは急いで起き上がった。
「あ、そうだ」荷物の中から大事そうにくるまれた一束の草を取り出す。
中の一本をイズキヤルの花輪にそっと絡めた。
「不思議ナ香リダナ」
「今日はそれを探す仕事してたんだ。 んじゃ、遊ぼっか。
イズキヤルが鬼ね。 それ、逃げろー」
「ギー、セル、ズルイゾ、ギー」
セルは笑いながら走り出す。 イズキヤルは羽を懸命にばたつかせ後を追った。