南の谷間に足を踏み入れる。 初めて訪れるその場所で、まず最初に
した事は、道のりの険しさに驚くのでも、周囲に潜む敵を確認するでもなく、
「また外したくなったのか」
「うん。 ……ごめん」
セルは立ち止まったまま両腕を首の後ろへ回すと、少し照れて頷いた。
少し日焼けした首の真ん中には細い鎖がかかっている。
茶色の留め金は何度も持ち主の手で不器用にいじられている内、小さな傷が
沢山ついていた。 いかにも安っぽい鎖に石を通しているだけのその首飾りを、
セルはいたく気に入っていて、身につける度嬉しそうに顔をほころばせていた。
なくすといけないというので、荷物に入れている事もしょっちゅうだったが、
そんな時でもこれだけは別にわけてしまってある。 確かにあのカオスの中へ
投げ入れたら最後、元の状態そのままに発掘するのは無理な話で、しかし
端に結わえ付けた小袋から鎖が絡んでやしないか、石に傷はないかと取り上げ
しげしげと眺めている光景を目にする度、それが普段の彼女とはまるで違って
いるので、セラは不思議な気がした。
セルはまだうまく取れずにもそもそ手を動かしている。 身に付けていると
嬉しいのだが、どうも慣れないせいか気になるのだろう、しょっちゅう外したり、
またかけてみたりを繰り返している。
「貸してみろ」
つい我慢できなくなって声をかけた。 指先が触れるとセルはおとなしく手を
離し、少し首を傾け黙って待っている。
前にも同じように取ってやった時、セルは俯いたまま不思議そうにどうして
こんなに簡単に外せるの、と尋ねてきた。
「しょっちゅう頼まれていたからな」その答えで相手の表情に微妙な変化が
現れるのを見てとり、思わず余計な言葉まで付け加えた。
「姉は人遣いが荒い。 背中のボタンから針の糸通しまで何でも呼びつける。
まあ、おかげで今は大抵の事はひとりでできるようになったが」
「背中のボタンも?」唖然として繰り返し、それから笑い出す。
もういい加減にしろと怒ると、ごめんごめんとまだ少し笑いながら謝っていた。
ほら、と外した鎖を手渡す。
「何かいわれのある物なのか」
ありがとう、と受け取ってまたそのぼやけた緑の石を陽にかざしているセルに、
常々抱いていた疑問を口にする。
「いわれって?」
「何か……そうだ、誰かにもらったとか、実は貴重なものだとかな」
「ああ、そういう事」
セルは丁寧にしまい直すとあっさり答えた。
「いや、何もないよ。 だいぶ前にエンシャントで買ったの」
だからどうだという訳ではなく、ただ疑問が浮かんだから尋ねてみただけだ、
とでも言いたげな顔をして、セラは先に立ち坂道を降りてゆく。
セルは急いで後を追った。 いつも唐突に会話は途切れる。 相手の寡黙さが
まだ少し怖かった。 そんな事はないと知っていても駄目だった。
無理に会話を続けようとしても、セラはうるさそうに生返事をするだけで、
そんな時、気付かないふりをしながら、セルはつくづく自分をつまらない
相手だと思った。
でも、今の会話はそんなにぎごちなくはなかった筈。 一連のやり取りを
胸の内で反芻しては考える。
冒険者ギルドや、旅の宿で、誰かが喋ってくる。 セラはいつもの通り
ぶっきらぼうで無口だけど、一応会話は成り立っていた。 別に誰というのでも
ない、誰かとの会話が長くなるにつれ、訳もなく不安にかられる。 側に立ち
口を挟むのでもなくただ無言のまま、相手が面白そうな顔をすれば一緒に笑い、
話に加わりたくてその場の誰へともなく無難な感想を呟くが、おどおどしたその
声はかぼそくて誰にも届かず消えてしまうか、せいぜい場に微妙な空気が流れる
程度で、無性に寂しくて仕方なかった。
二人だけに戻ると、そんな不安も消えてしまう。 かわりに今度は臆病になる。
話し掛けようとして躊躇い、唐突に口を開いたその声の大きさに自分でも驚く。
岩壁を半透明の魚が群れて泳いでいる。 切り立った灰色の急な斜面の中、
彼らは時々その姿を深く潜らせながら我や先と急いでいた。
もう少し顔を前に向けたまま、注意を斜め後ろぎりぎりの所に走らせたなら、
一一顔の端、肩の先端、外れに行く程悪寒が走る。 境の住人を感じるからだ。
でも、呼び覚まさなければただじっとしている。 セルはわざと前をゆく
相手の背だけを見つめた。 どんな所にいてもそれだけは確かなものだった。
「風桜、まだみえない」
「いや、この辺りの筈だが」
セラは辺りを見回し、もうひとつ折り返しの坂を下った先を指差した。
「あれだ。 少し採取してゆくか」
言うやそのまま斜面を軽々降りてゆく。 一々道に沿うのも面倒になったらしい、
後に続こうとしてその高さに目眩がする。 踏み出すとすぐに滑りはじめた。
ずずず、と低い砂音が続き、足裏から一定の震動が伝わってくる。
転ばない、転ばない、と必死に姿勢を保つ内、下についていた。
「え、あれが?」
少し進んだ先に生えている潅木には、一面黄色の実が成っている。
セラは平然とした様子で幾つかむしり取った。
「ギルドの依頼でもたまに出てくる」明らかに相手の表情から不満を感じ取ったの
だろう、珍しくそんな理由を説明しだした。
実じゃないの、と言おうとしてセルは思いとどまる。 一目瞭然なものを
わざわざ口に出しても良い事は何もあるまい。 空気を損なうだけだ。
「で、誰なんだ」
いつの間にか次の話に移っている。 軽く混乱し、思わず問い返した。
「何が?」
「仕事も受けずに場所だけ教わる訳ないだろう」
「ああ、それはね」
やっと合点し、セルは軽く笑った。
「ギルドにいた人に教えてもらって」
「冒険者か」
セラは荷を下におき、袋、袋と探しながら尋ねた。
「そう、あの……ゼネさんが」
説明しようとして、まだ名前を思い出していなかった事に気付いた。
「ゼネさん?」
「ええと、ロストールとか、リベルダムの酒場によくいる人で、すごく
大きい剣を持ってて、何か有名な冒険者らしくて、それで」
「ああ、剣狼のゼネテスだな」
セラはふと手を止めた。
「そう、それ、そんな名前だった」
「何、本当にゼネテスなのか」
「うん、多分」
「知り合いか」
「まあ、顔くらいならね」
セラは手際よく風桜の実をしまい、荷の紐をかたく縛った。
上げずにいる横顔がほのかに緩み、口の端がにやりと歪む。
「名前くらい、覚えてやれ。 ……いい加減な奴だ」
ぼそりと呟く言葉は低すぎてよく聞き取れない。 それでも多分、
笑っていてもいいんだろうとセルは思う。
「剣狼のゼネテスは、腕のいい冒険者だ」
立ち上がって埃を払い、無言のまま微笑を浮かべ続ける相手を
ちらりと一瞥するとセラは荷を背負った。
「何度も怪物を退治し、闘技場でも人気を集めていると聞いている。
アキュリュースにいたというのが本当なら、今頃一一」
急に言葉は止まる。 視線はあらぬ方を向き、何か考えこんだまま動かない。
セルは内心、まずい事になりそうだと思った。 元々この谷には怪物退治の依頼が
出ていたのをセラは知っている。 忘れているようなのであえて口に出さな
かったが、本来ここへは冒険や修行なんかにあけくれる為にきていたのだ。
のどかな花見ではないのだ。 いや花見でよかったわけだが。 今の今まで
花見でしかなかったのだが。
それでも今、洞窟の奥へ行くと言い出したら、仕方ない、一緒に行くしかない。
「少し予定より遅れている、進むぞ」
淡々とした声が沈黙を破る。
「ここよりもっと降りていった所なら花も咲いている筈だ」
「えっ」
「何だ、どうした」
「う、ううん」
何でもない何でもないと繰り返すと、セルは坂を駈け降りてゆく。
そんなに急ぐと転ぶぞ、と思わず声をかけたくなるのをセラはこらえた。 まるで
母親になったか、そこまでゆかずとも犬でも飼っているような気分だ。 ついつい
口を出しそうになる。
華奢な背中をすぐに追う事はせず、セラはゆっくり背後の坂道を登っていった。
先程は途中を端折って通らなかった道だ。 岩間に深緑の液体が少なからず迸っている。
こんな色を残すのは、この辺に棲息する鈍重な怪物か。 遠目にもしやと思った戦いの
痕跡が、間近まで来てみればはっきりそれとわかった。
「どうやら本当に、剣狼らしい」
誰にともなくそう呟くと、踵を返す。 少し離れて下の方で、セルはまたも
立ち止まり、荷物の蓋を開けている。
まさかまたつけたくなったのではあるまいな。 見ていると、何とか袋は取り出した。
が、花も気になるのだろう、手にしたまま、また荷を背負い直して走り出す。
訳のわからん奴だ。 いや、今更か。
軽く揺れている赤い髪は遠目にも鮮やかで、薄灰色の風景の中、そこだけ
浮いてみえる。 そんな連想からだろうか、船の上でふと思い出して、谷底に咲く
血の色をした花の話をしたのだった。
はじめて見た時一一あれはまだ一人で旅をしていた頃だった。 大量の道具や薬を
背負い、依頼を請け負った退治すべき怪物の特徴を何度も諳んじつつ、この神話の
舞台になった秘境へと向かった。 入り口ともいうべき高みから見下ろすと、谷間から
はるか遠く西方の海まで一望できる。 目が眩みそうだと思いながらゆっくり
幾重にも別れた坂を降りてゆく。 冷静に観察しているつもりだったが、その実
何もみえてはこなかった。 予定通りに進んでいる事を確認するので精一杯だった。
水辺に棲息する生物がふらふらと行く手を阻む。 今となっては笑えるくらい必死に、
店売りの両手剣を奮って応戦した。 ちぎれる度に彼らは深緑や青の液体をまき散らす。
まだぴしゃぴしゃと跳ねている生臭い道を歩き、急に角度のついて巻いている坂を
おりた時、不意に視界が開けた。
まだ底はあるのだろうが、一旦いくらか落ち着いて小さな広場のようになっている。
手前まで来ると、セルは足を止めた。 目の前に件の木は生えている。 が、それより。
一一誰か、この場所で戦っていた。
体中に寒気が走る。 あちこちに残る痕跡を調べる事もまだできず、大体何がそれと
気付かせたのかさえ、セルにははっきりと説明できなかったが、ただ、場に残る重く
陰鬱な空気を感じる事はできた。
よく似ている。 そう、いつも視界の端にいる誰かだ。
みえない手が静かに喉を絞りあげる。 いうにいわれない苦しさをおぼえつつ、
セルは顔をあげた。 先程のものと同種とは思えぬ老木が枝一杯に花をつけている。
真下は確かに血の池のようだ。
一面を赤く染める花びらの向こうに暗く口を開ける洞窟がみえる。
そうだ、ここには怪物退治の依頼が出ていた。 すぐ断ったから、書類はギルドの
カウンター下に積まれていたけれど、……あの人はそれを知っている。
あの人ならきっと、この下に佇むのが似合う。
「どうだ、凄いだろう」
背後からいきなり声がかかった。
「まあ、たまには花見もいい。 この上には風気岩もある、後で行くぞ」
セルはまだ幾分ぼんやりとしたまま後ろを振り返った。 いつの間にか追い付いて
いた相手は吸い込まれるように花満開の光景を眺めていたが、やがて目を落としセルが
持っているものに気付くと、またかと首を回しつつ手を差し出した。
「ほら、貸せ。 つけてやる」
言われてはじめて首飾りを取り出していた事を思い出し、おとなしく渡しながら
セルは、黙って相手をみつめた。
セラも、あの依頼を知っていた。 ここに来るつもりも、あった。 でも、
「……駄目だ、あんたには似合わん」
「当たり前だ、俺は首飾りなどしない」
「え? ああ、まあ、そうだね」
留め金をはめてもらう間、セルはおとなしく首を垂れじっと待っていた。
視界の端で音もなく花びらが舞い落ちてゆく。