西の空の端から雲が流れてきていた。 南の谷間を吹きぬける風はいつもの
如くでひんやりした空気が混じっていたが、全体としてはそう悪くもなかった。
少なくともゼネテスは、そう思った。 歩きながら彼は、自分がこう呟いて
いるのを聞いた一一「なあ、怪物退治にはうってつけのいい日じゃないか」
勿論、隣に誰かいる訳じゃない。 彼はいつも独りだ。
ずいぶん前にはそんな奴等がいた事もあったが、もう忘れてしまった。
 何本か単調な坂道が交差して谷底へ続いている。 魔剣ソルベンジュの刻んだ
亀裂は何度も大地をえぐり、枯れ枝の先みたいな断崖を幾つも造っていた。
訳のわからない分岐が突然出てくる辺り、この場所で戦ったらしい神様は相当
不器用だったに違いない。
南はまだいいが、北など谷底に巨大なソリアスの従者が白い骨になって半分
土に埋もれている。 あまりに大きいし、竜骨の砂漠のそれとは違って砕いて
飲んでも薬にもならないというので、ずっとそのまま野ざらしになっている。
神話の気の毒な犠牲者という訳だ。

 自分の靴音だけが聞こえている。 殺風景な谷間のどこかに例の冒険者達も来て
いる筈だったが、今の所そんな気配はかすりともしなかった。
 あの冒険者一一セルと云ったか一一ロストールやリベルダムの酒場で会った時
とは違って、妙にかしこまって、緊張した面持ちで馬鹿ていねいに質問していた。
 その割に表情の端々から一癖ありげというか、こちらの返答にすぐには頷かず、
いちいち吟味している様子が生意気そうで、少々腹が立って面白かった。 
要は駆け出しの冒険者という奴だ。 自分の持ってる知識を総動員して、何とか
認めさせたいと思っている。
宿屋でみかけた剣士の方は、もう少し腕が立つようにみえた。 結構気難しい
性格らしい、一風変わった装飾のある柄をしきりに握り直しては考えこんでいて、
何かの拍子に目があうと、わざとらしい咳払いと共に今は気がつかなかったとでも
いうように視線を空へ泳がせる。
 まあ、何にせよ相手がいるというのはいいものだ。 
自分がどこにいるか見失わずにすむ。
 彼はそう思いつくと一人深々と頷いた。 そんな風に考える事は、彼の
気に入った。 ちょっと達観したような感じと、丁寧すぎない台詞。
かといって、余りに猥雑な表現も宜しくない。
荒んだ裏通りの酒場にしょっちゅう出入りしているが、とり散らかされた汚物は
無意識に避けて歩くような所が彼にはあった。
 醒めてる、とも云われた事はある。 いつまでも遊んでくれそうにみえるのに、
どこか深入りせずにさっと手を引いてしまう。
「ねえ何で、どうして?」件の冒険者の問いかける声が聞こえた気がして、彼は
思わず振り返った。 背後には勿論、誰もいやしない。
どうでもいいつもりでいたが、案外心のどこかでぱったり出会う事を望んで
いたのかもしれない、とゼネテスはふと思った。 会う度、といってもまだ数回
だが一一必ず熱心に話し掛けてくる。 特段話上手というのでもなく、途切れると
必死に何か言い出そうと試みていた。 その実本当はまるで逆というか、似合わない
ものを無理に着ているのを承知しているような、そんな二段構えの歯がゆさも見え
かくれしていて、こりゃ宿屋へ帰ったら途端に疲れで倒れてそうだと思ったものだ。
何とか嫌われたくない、と思うのだろう、去り際に視線を落とすと、吊り上がった目が
雄弁に訴えている。 「ねえもっと、話したいのに。 もっと!」

 思わず微笑する。 頭の奥ではまたひとつ、声が聞こえている。 もう少し
自分を責める、どこか悔しさを滲ませている、そんな声だ。
「何故行っておしまいになりますの?」
 長い金色の髪を垂らした王女は腕を組み合わせ詰問する。
「どうしていつも、何処にも居着かずふらふらとしていらっしゃるの? 
卑怯ですわ、そんなに一一自分のやりたい事だけ通してゆくなんて!」
 やれやれ。 こんなに女の言葉ばかり思い返すのも、きっと場所のせいだろう。
アキュリュースはそう悪い所でもない、花が咲き誇る綺麗な町だが、如何せん遊びに
乏しすぎた。 表向きは酒場もない事になってるので、皆船で渡って対岸まで
遠征に行く。 彼もそうしたいのは山々だったが、客が来るまでの辛抱だと思い、
じっと待っていた。 七竜家の紋章の入った手紙を持つ騎士が、直に現れる
筈だった一一相も変わらぬ謀略の種を抱えてくる奴がのこのこと。
 ギルドで待ち、船着き場を往復し、逗留する宿屋でひとりチェスを並べる。
ずっと机にのせっ放しの足が痺れ、股ぐらに皺を作っている裾を直そうともせず
酒杯ならぬ茶杯をちびりちびりやっていると、丁度今のように下らない事が
次から次へと浮かんできた。
 宮廷は退屈か? 一一威厳のある声がこと面白そうに問いかける。
「伯母貴の顔が見れりゃ十分さ」彼は答え、それから答えた自分についおかしく
なり、ふっと鼻息とも笑いともつかぬものを吐き出した。

 まだ谷底までは大分ある。 何本かの分岐を通った所で横合いからぬっと
怪物が道を塞いだ。
 でかいな。 目の前の緑の腹をしげしげ眺め、それからどこまで続くかと
空を仰ぐ。 この辺りによくいる緑色ののろのろした奴だ。 退治を依頼された
怪物とは違うが、説明してどいてくれそうではない。
「何だ……俺につきあってくれるって?」
 ひやりとする柄に手をのばすと、頭の中にかかった霧が晴れた。
怪物はぎゃあぎゃあと雄叫びをあげる。 
やはり相手があるというのはいいものだ。 ああしよう、こうしようと考える
壁を突き破り、ぞくりぞくりと勝手に身体が震え出す。