きっかけは、アキュリュースへ向かう船の上での短い会話からだった。
薄曇りの青い空、穏やかな景色に張りつめた気も弛んだか、セラには珍しく
口数が多くなっている。 それが面白くて、セルは何度となく些細な質問を
繰り返した。
一一「風桜って? 近くなの」
「ああ。 南の谷間に咲き誇っている所を通りがかった事がある。
血の色をした花びらが風に吹かれて辺り一面を赤く染めていた」
 その言葉で、楽しそうに聞いていたセルは一転複雑な表情を浮かべる。
「それ、本当に綺麗なんだろうか」
「さあな、俺は知らん」
 そう言って、声をあげ笑う。 そんな姿をみるのははじめてだった。
本当に、ただ楽しそうだったのだ。



 だから、ちょっと行ってみたいと思ったのだが。
「何で配達の仕事しかないんだ」
 セルは依頼書の束を片端から見ていたが、やがて諦めたか目を離し
閉じたまぶたをこすりつつぼやいた。
「そりゃない事もないがね」
 ギルドの主人は慣れた手付きで乱雑に広げられた書類をきちんと集め、
壁の方へ顎をしゃくってみせる。
「だいたいあの辺かな」
 入ってきた時は気付かなかったが、そう言われてみると成る程沢山の依頼が
貼り出されていて、冒険者らしい長身の男がひとり佇み、依頼を眺めていた。
 セルはどうにか頷き礼らしき言葉を口中で呟くと、慌てて壁際に走り寄った。
足音が響き、男は驚いて振り返る。 紅潮するセルの横顔に少しの間悩んでいたが、
やがてああ、と膝を打った。
「元気そうじゃないか。 今日はこっちで仕事かい?」
 確かに見た顔だ。 セルはじっと相手を見上げ思い出そうとした。
どこか人を食ったような笑顔を浮かべ、驚く程大きな剣を持っている。
「ロストールもいいが、ここはのんびりできるんでね、時々来てる。
酒を飲むのにも対岸へ渡らなきゃいけないってのは、ちと不便だが」
 あ、思い出した。 セルはじっと見つめたままうんうん頷いた。
そうだ、ロストールの酒場にいた人だ。 名前は、確か一一

「ゼ、」
 何だっけ。
正直に尋ねた方がいいだろうか、とつい弱気になって思う。 別に旧知の
仲という訳でなし、きいた所でこの男なら笑ってすませるだけだろう。
「ねえ」
 聞こえにくかったか、大きな身体をかがめて覗き込んでくる。 何だか
馴れ馴れしい奴だとセルは思い、思ったその途端、ぱっとひらめくものがあった。 
 ……そうか、そうだった。 
「ゼネ」
「あ、ああ。 ん?」
 ……しかし名前後半は出てこない。
戸惑い気味にそれでも返事をする相手を前に、セルは頭を抱えたくなった。

 おおよそ察しがついたか、男は面白そうににやにや笑って眺めている。
それに気付いて、やや腹が立ってきた。
 教えてくれればそれで済むのに。 こうなるといやでも名前を聞かずに
すませたい気になってくる。
「ゼネ」
 まだ悩む。

「ゼネ……さん」
「ああ、宜しくな」
 よく出来ました、と云わんばかりにゼネテスは大仰に頷く。
セルは思わずほっとした。 それでもどこか癪にさわるが。 しかしこの男、
思い出したが実はベテランの冒険者なのだった。 あちこちのギルドやら闘技場で
ずいぶん尾ひれのつけられた噂を山程聞かされたものだ。
ひょっとすると、風桜の事も知っているかもしれない。
「あの、教えてほしい事があるの」
 思わず口調が丁寧になる。
 
一一「風桜ねえ」
 話は終わったが、特に興味も湧かなかったかゼネテスは、さりげなく視線を
壁に貼られた依頼に向けている。
「どうしても行ってみたいんです。 どうしたら良いかしら」
「ひとりで?」
 耳元へ空気を震わす低い声がささやいてくる。
「え、いえ、あの」ごく普通の質問なのに、何故か顔が赤くなった。
「違います、その……一緒に旅をしている人と」
「そうか、残念だな」
「えっ」
「それじゃ、あの依頼がいい」驚くセルには取り合わず、あっさり軽い調子で
ゼネテスは壁の上の方に貼り出された依頼を指差した。
「あれですか。 でも凄く高いですよ」
「問題ないさ、何があっても必ずこの依頼をやるって言うんだ」
 突然駆け出しの冒険者に化け物退治の依頼書を突き出されたギルドの主人は、
驚きながら「あんたにはまだ早い、やめときな」と渋面を作った。
「それでもどうしてもってなら……まあ、仕方ない。 地図は持ってるか?
詳しい内容を伝えてやるよ」
 
「そう、それでいい」
 張り切ってこちらへ駈けてくるセルに、ゼネテスは深々と頷いた。
「これでいいんですか。 でも、私これじゃセラの足を引っ張りそうで」
「わかってるさ。 さあ、次はこれをそのままキャンセルしてくるんだ」
「え、やめるんですか」
 セルは驚いて目を見開く。 
「そうだ、別に簡単な事だろ? そうすりゃ明日は楽しい花見が待ってる。
ま、こういうのは万事テキトーにな。 ほら、行ってこい」

 
「困るねえ、ゼネさん」
 はしゃいだ様子でセルが出てゆくのを見届けると、主人はぼやいた。
「駆け出しにあんまり悪い事教えてちゃ駄目だよ? 碌な者になりゃしない。
そりゃ要領よく生きるのも結構だが、苦労も大切さ」
「ああ、悪いな」ゼネテスは笑い、カウンターに放置された依頼を拾いあげた。
「これは俺がやるよ」
 依頼書には最高額の報酬と、両の腕に岩を握りしめた巨人の名が記されている。
「ま、洞窟の奥まで来る事もないだろ。 ……どうだい」
「そりゃ構わんが、あんた、人を待ってたんじゃないのかい」
「そうなんだが……」ゼネテスは考えるような仕種をしてみせる。
「まあ、ちょっとくらい遅れたって構やしないさ。 じゃあな」



 宿屋に戻るとセラは腕組みして待っていたが、話を聞くと俄然怒りだした。
「依頼を決めてないとはどういう事だ」
 いや、だから、ほら、と逃げ腰に言い訳するセルに、ますます激しい叱責が
雨あられと降り注ぐ。
「だって、せっかくここまで来たし、南の谷間だって場所教えてもらったから」
「そのくらい、俺だって知っている。 大体お前に遊ぶ暇なんてあるか?
南の谷間なんて行ってぼんやり時を過すくらいなら、くだらなくても仕事して
さっさと強くなれと言っているんだ」
「あんた達、南の谷間へ行くのかい?」
 横合いから突然声がかかった。 二人が驚いてそちらを向くと、如何にも
土地に慣れた風の兵士がひとり、壁にもたれて立っている。
「いや、ちょっと話が聞こえちまったもんでね。 それより、南の谷間だって?」
「ああ、そうだ」
「……やめた方がいいな。 あんた達じゃ危険すぎるよ。 入り口ならいいが、
進むと突然怖い奴が出てくる」
「何?」
 一旦素に戻ったセラの顔が再び険しくなる。
「特に洞窟の奥とかは、絶対に行かない方がいいぜ。 恐ろしい化け物がいるしな」
 セラは急にこちらを見下ろした。
「確か、風桜をみたいのだったな、セル」
「え、うん、そうだけど……でも無理かな」
「いや、たまにはあてのない探索もいいだろう」
 セラはまだあれこれ考えている風な表情のまま答えると、床に置かれた
荷物をとりあげた。
「さあ行くぞ」
「えっ、でも危ないって今」
「花をみたいんだろう、それならすぐ出発だ」
「あれ、船で聞いた時は年中咲いてるって確か一一」
「何をしている、置いてゆくぞ!」
 ああもう、強引だなあ。 すたすた歩き出した背中に、セルは聞こえないように
こっそり毒づく。
「……まあ、いいけど」