曲がりくねる道の行方は、灰色の靄の中へ曖昧に沈み失われている。
ドワーフの国を抜けて暫くは木々の合間から畑もみえていた。 そこまでは
人家がある様子も伺えたが、やがて陽が西に傾くにつれ、切り立った崖が連なる
山あいの岩ばかりの景色に変わり、間もなく誰ひとり姿もみえない細い道ばかりに
なってしまった。
まわりはまだ、いくらか明るさも残っている。 けれど、急な下り坂に続く先は
ぼうっと灰色に霞んでいて、所々に黒い影が点在しているのみ。
この分では幾らも進まぬ内に何もみえなくなるだろう。 アキュリュースへ向かう
道筋には山賊や傭兵崩れの輩が時折襲ってくると云う話を、セルは幾許かの不安と共に
思い出していた。
「もっと早い時間に通るべきだったな」
前を歩くセラが沈黙を破りぼそりと呟く。 はいとも何も答えられずにいると、
少しだけ振り返り、何気なく言い足した。
「ここを抜けさえすれば宿屋がある。 さっさと進むぞ」
冷たい声に気後れしつつ、セルは頷いた。
俯いたまま、ひたすら単調な道を歩いていると、石礫が足にぶつかったか、転がり
落ちる音が遠く聞こえる。 その度にセルは耳をすませた。 何か起こしはしてないか。
緊張し薄闇の先を見つめていると、気配とも思えぬ程僅かな感じが、あるように思える。
断定するには今ひとつ足りない。 怯えすぎて、想像で凝り固まったと笑われそうな。
けれどもみえるとみえないとの境には、いつも危うくて儚い住人がいる。 黒っぽい
手をして、形は見えているのに、描いてみようとすると途端にわからなくなる怪物だ。
その昔兄に訊ねると、森に住むインプの類いだろう、彼らは素早くて中々姿を捕らえ
られないから、と明解な説明が返ってきた。 しかし、こじんまりとしてリルビーを
思わせる妖魔たちはもっと愚鈍な感じで、いつもにやにやした笑みを浮かべている。
あるいはサンドマンの仲間かもしれないとセルは思ったこともある。 よく一緒にいる
ゴブリンに手の形が似ていない事もない。
彼らがまき散らす砂は、旅人を眠らせ頭のへこんだ死体を幾つも作る。 夢といえる程
日常と区別された訳ではない一一が、それなら今は眠っているのとどれ程違うだろうか。
大体、自分はどこを歩いているのか。 いつ迄この道が続いているのかも、セルには
よくわからなかった。 わからないのも道理で、本当は赤い着物をきた妖魔の足元で、
砂に埋もれ眠っているのかもしれない。 靄の内に、自分がどうなったかもわからず、
永遠に歩き続ける夢をみているとしたら。
また、セラが足を止めていた。 ……そうだ、これは夢じゃない。
舌打ちしつつ、小走りに後を追う。
精一杯急いでも、ともすれば前からは遅れがちになる。 声こそかける事はないが
その度セラは歩を緩め、油断なく周囲に視線を走らせながら追い付くのを待っていた。
かすんで靄の内に消えかかる背中が、また大きく映る。 一見落ち着きはらって
いる様なのに、近付くと、無言の内にも緊張している息遣いが伝わってくる。
普段は人を寄せつけず、怖くさえ思う事もあったけれど。
黄昏の時もないまま、次第に辺りは闇の色を濃くしている。 夜が近付いていた。
ずっと同じ体勢で歩いていると、肩と首がひどく痛んだ。 荷が重い為かも知れない。
でも割れないようにする必要があったから。 一一魚の目玉は、呪われていると
いうので特に厳重に瓶に詰められ、更に何度も封をした箱に納められている。
水の中の目玉。 思い出し、セルは身震いした。
そうだ、あれがそもそも似ていたのだ。 あのぎょろりと閉じない丸い目玉が。
昔まだほんの幼い頃。
故郷は人里離れ、森の奥深くに隠された小さな村だった。 ひとたび井戸のある
広場を過ぎ、出口から道とも思えぬ道を歩いてゆくと、交差した枝の葉影の向こうに
何かがいる気配がしてくる。 一緒にいた兄は、穏やかな調子を崩さぬまま、そっと
耳もとへささやいた。
「大丈夫だよ。 ……でも、呼び覚ましてはいけない」
結界の向こうにいる何かは、暴れる事もなく、開いてはいてもその目にセル達が
映る時はなく、絵のように鮮やかな風景の中に紛れ、見えない壁ごしにいつでも
こちらへ来ようと企んでいる。 茂みを踏み越えられれば、間近でその姿を確かめて
いたかもしれない。 だが、それは考えるまでもなく無理な話だった。
耳をすませ、目を凝らし森の奥を見つめる。 それ以上近寄る事は決して許されて
いない。 疑問が明らかになる事はなく、不安は胸の内にあるまま膨れ上がり黒々と
した怪物へと変わる。 セルはぱっと後ろを向いた。 何もできず、ただ恐ろしく、
教えられたままに沈黙を保ちその場を離れた。 一一
瓶の中の目玉は今も、自分の背に負われ、その疲労でもつれた足取りをじっと
見ている。 彼らはいつもすぐ側にいて、決して姿をみせない。 迂闊に振り返ると、
岩の向こうから影が起き上がり、音もなくその黒い手を伸ばしてくる気がした。
ばかげた話だ、自分で自分の生み出した怪物に心が囚われているだけ。 そう
思ってみても、黒い手は今もひたひたと触れそうな程近くを這い回っている。
これが砂を被りみている夢なのだとしたら、それならそれでいいのかも知れない。
少なくとも、そのうち楽になれる。
見えると見えないとの狭間にあるもの、視界の端より僅かに外側に位置するもの、
存在を感じても確かめる事のできないものは、いつもじわりと陰鬱な表情で、
踏み越えてくるのを待っていた。
ひたすら俯いて歩くまま随分と時間がたった。 これじゃ子どもの頃と何一つ
変わってないじゃないか、とセルは苦々しく考えた。
冒険者にまでなったのに。 もう兄がついていてくれる訳でもないのに。
そうだ、振り返り、何もいないのを確かめたら。 ……いいや駄目だ。
今でも足音が聞こえてくる気がする。 足音? いやもっと、震えのような。
地響きにも似た。
急にセラがこちらを向いた。
「あれは?」返事をする間もなく腕が回り、岩壁に押し付けられる。 視界は遮られ、
真っ暗な中にセラの息遣いだけがはっきりと聞こえてくる。
驚いたのと、ちょっと嬉しい気にもなったが、相手にそんな感じは更々ない。
一瞬静かになった後、突然大きく地面が揺れた。 ついで地面が震え、
蹄の音が高く谷間に響きわたる。
依然自分を押さえつけている腕の合間から、無理矢理後方を振り返る。
音が近い。 まもなく靄をちぎり馬に乗った騎士が目前に現れた。
恐ろしさに思わず身がすくむ。 セラは微動だにせずかばうように立ったままだ。
騎士は慌てて手綱を引き絞る。 馬は躍り上がった。 前脚が丁度自分の真上で宙に
あがいている。 つぶされる。 逃げたくてもまるで身体が動かない。
目に赤い異様な光を宿し、血管が浮いている黒馬はゆっくりと脚をおろすと、
鼻息をぶるりと震わせた。
一一「冒険者か?」馬上の騎士が詰問調に訊ねる。
「危うく死ぬ所だったぞ。 なぜ今時分こんな所を歩いている」
「別に問題はないだろう」ふいに自分を押さえていた腕が離れた。
セラはまっすぐに相手と向かい、平然と答えている。
「アキュリュースに向かうだけの事だ」
「こんな天気にここを通る奴などおらん。 余程の命知らずか、駆け出しくらいよ」
そう言って、検分するようにじろりと眺める。
「まあ、いい」騎士の口調が変わった。 厳めしかった表情も緩んでいる。
「せいぜい、近くの宿屋でも探す事だ。 ……駆け出しには、ちときついからな」
その口調に、隣から緊張が走る気配が伝わってくる。 セルは怯え、そっと
相手の横顔を見上げた。 薄い唇をぎゅっと噛み締め、厳しい眼差しで馬上の
騎士を見返すセラは、それでも何も言おうとはしなかった。
騎士は反応がないのを確かめると、笑い声をあげつつ行ってしまった。
途端に、どっと力が抜ける。
「怖いか?」セラが訊ねた。 そしてすぐ後を続けた。
「あのくらいの奴など、どうという事もない。 言わせておけ」
でも今は、とセルは口を開き、相手に思い出させようとした。 普段ならともかく、
自分が背負っている依頼品、深海魚の目玉は呪いを宿している特別な品だ。
いや、それでもセラなら勝てるかもしれないが、そんな事より……
「どうした、先へ進むぞ」
急にセルは泣き出したいような気持ちにかられた。 目の前の腕を掴み、
思いの丈を吐き出したかった。
そう、言えば一笑に伏され、馬鹿馬鹿しいと言われるだけにしても。
怖いのだと伝えたくなった。
「もっと近くを歩いていろ。 危なくて堪らん」
そう言うとセラは、つと手を差し出した。 思わず狼狽えて顔を上げると、
そんな視線に答えるかとでもいうのか冷静な表情を崩さない。
手を取れ、と言いたいのだろうが、恐れ多くてとてもそんな真似はできない。
迷った挙句、セルは腕につけられた装具をそっと掴んだ。 何だそれは、と
相手は顔をしかめる。 怒らせたかもしれない、とびくつきながら顔をみあげるが、
もうセラは騎士の去った方を向いていた。
「靄が薄くなってきたな」前をみたまま呟く。 「後少しだ」
歩き出していくらも経たず、こわごわ掴んでいた手が滑ってはずれても、もう
その大股に歩く脚は止まろうとはしなかった。 いつしか必死にそのあとだけを
追い掛けている内、セルは他の事がどうでもよくなりつつあるのに気付いていた。
アキュリュースも、この先にあるという宿屋もあまりに漠然としていて、何の
意味ももたなかった。
段々と道が広がってくる。 不意にセラは立ち止まった。 何が起きたかと
後ろから覗こうとすると、またも腕が伸ばされ制止しようとする。
それでも構わない、腕を掴み見ると、少し離れて先程の騎士がいた。
黒っぽい服を来た者達数名に囲まれ、動けずにいる。
誰かが騎士を引き摺り下ろした。 抵抗しようと試みる騎士を物言わず押え、
谷底に突き落とす。 馬が立ち上がろうともがいていた。 鞍をむしり取り、
騎士の持っていた荷を手にすると、集団はまた闇に消えた。
心配するな。 そうセラが言ったような気がした。
しばらく様子をみた後、再び歩きだす。
確かなものはただ目の前にある黒い背中だけに思えた。 もう靄はだいぶ薄く
なっていたが、それは変わらなかった。