さっきから足の裏が痒い。 じゃあ掻いてみるか、と思っても靴が邪魔で、と
シェスターは半分口をあけた惚け面で考えた。 椅子に座ったまま右足を胡座の
ように曲げて左膝にのせている。 裾がまくれ上がるとか、どうでもいい。
どうせ誰も来はしないのだ。 閑散とした図書室の、横並びの机の更に端。
試験も一段落した今、皆どこか行ってしまっている。
頬杖をつき目の前に広げた本の小さくぎっちりと刻まれた文字に目は走らす
けれども内容はまるで頭に入ってこない。
それでも最後の行まできたらページはめくる。 綿をかぶりその外側で奏でている
曲を聞いているくらいの感覚で、文章は流れてゆく。
本自体はその道の古典とも云うべき名著だ。 厚みとか、豪華だけどシンプルを
心掛けてます的表装に溢れんばかりの自信が漲っている。
取り出す時は、こちらもごく手慣れた様子で、この本ならしょっちゅう調べてます、
当り前です、という顔にしなければいけない。
というか、自然になる。 皆、大抵そんな顔付きをしていた。 黙々と何か
書き写している。 間違っても何これ、文字? といった事態にはならない。
本当かよ、と思う。 皆どうやってこんなもの理解してるんだ。
それは、ちゃんと読めば良いんだろうが。 今はただただ時間の無駄だった。
尤も、他にやる事も別になかった。 いつの間にか両手を膝におろし、低く
腕組みをしている。 ゆっくりと戻りかけたページが風にあおられ、ばたばたと
やかましく音を立てた。 その一部始終を特に何の感慨もなくみている。
自分は本を調べに此処へ来ているのだ。 だから、とりあえず本さえ目の前に
置いておけば良いんだろうし。 まあ、なくても問題はさしてないが。
何もせずぼんやりしているのは、案外楽しい。
どれくらい時間がたったんだろう。 通路の向こうからまっすぐにこちらへ
歩いてくる人影をみつけると、シェスターはやや姿勢を正し、顔を引き締めた。
コーンス族の、だらだらした長い服の女。 知っているといえば知っている
気もするし、知らんといえば全然見覚えはなかった。
わざわざ隅っこまで一直線にやってくる癖に、今みつけて驚いた、と云わん
ばかりの表情を相手は浮かべる。
「あら、今日も来ていたの」
どうやら、知り合いだったらしい。
「熱心ね! あ、そう、ちょっとペンを貸してくれる? 忘れたのよ」
女はペンを受け取ると、次はまあ紙もなかったとか呟いている。 構うのも
鬱陶しくなり、聞こえなかったふりをしていた。
「一体今度は、どんな凄い勉強をしているの? この本? 私にはとても
無理ね、ほんとどうしたらそんなに頭が良くなれるのか教えてほしいわ!
そうそう、噂だけど今度の試験、上の方でもめてるらしいわね。
さっきそこの廊下で先生にお会いしたんだけど一一」
女が喋りたてるのをおとなしく聞きながら、シェスターは閑散期でよかったと
内心ほっとしていた。
それにしてもこの女、誰だったか。 正直、同級の者の顔はよくおぼえてない。
女はひっきりなしに喋っているが、そこに出てくる人名のどれひとつとして、
心当たりはなかったし、興味を引くものもさしてありそうになかった。
だんだん相槌がいい加減になる。 もううんざりだ、という気持ちを態度に
表したとしてそれが何だ、と強気に考える。
間のぬけた「そう」が数回続いた後、女は急に言葉を止めた。
黙ったまま厳しい表情でじっとこちらを見下ろす。 気分でも損ねたか。
それはそれで困る、とシェスターは思った。 やっと終わりがみえて来たのに、
ここで新たな愚痴り分を追加されたらどれ程の長丁場になる事か。
困った挙句、とりあえずここは友好裏に話をまとめてしまおうと思い、
シェスターは相手に向かい何も知らぬ気な笑顔を浮かべた。
女がもしこれで、貴方話を聞いてなかったでしょうとか云っても、まるで
言葉に含まれた毒に気付かずただひたすら信じ切った笑顔で押し通すのだ。
無邪気には誰も勝てない。
女は少し戸惑っていたが、すぐにこちらも負けず笑顔に変わった。
「本当に勉強好きよね、尊敬するわ。 院でも今年の成績はあなたが1番じゃ
ないかしらって、しょっちゅう話に出ているもの」
ここで女は急に席に近付き、ややかがみこんで声をひそめた。
「あなたがそうなれば嬉しいけど、でも難しいかもね」
女のゆったりした服が膝あたりに触れている。 必要以上に他人に近寄ら
れるのはどうも好かなかった。 シェスターはともすれば露骨に避けそうに
なるのをじっとこらえた。
「最近ずいぶん会議があるじゃない、首席を決めるの難航してるらしいのよ」
ご丁寧に耳打ちせんばかりの勢いで顔を寄せてくる。
「ほら、前も人間だったから」
種族はごく平等に賞せられなければならない。 エルフやコーンス等の妖精
種族を差し置いて人間が何度も美味しい所を取っては、という訳だ。
昨年の優秀者は、それこそ論議なんて必要のない程抜きん出ていて、しかも
皇位継承者の上から何番目にあたるとかいう毛並みの良さだった。 おまけに
顔もいい。 どこか影のある美女といった風情で、学院内でひとり佇む姿を
みかけると、どんぐりの先がとんがってるかどうか位の差で争ってるらしい
自分がつくづく嫌になった。
女は自分の言葉が相手に与えた反応をみたいのだろう、心持ち離れて
前のように見下ろしている。
仕方なく、シェスターは重い口を開いた。
「そのツノって、」
「えっ?」
「……やっぱりエロい事とか使えないのかしら?」
女は一瞬、動きを止めた後、信じられないといった面持ちで見つめた。
それから何か喋りだしたが、もう相手をする気にもなれなかった。
女が去ると、シェスターはくるりと椅子をまわした。 もういい。
今は全然読めそうにない。
机に寄り掛かり、体を後ろにそらせる。
ばたりと大きく音を立て、本が閉じた。 枕にして窓の外を眺める。
格子のむこうにかすんだ青空が広がっていた。