閉め忘れた窓から淡く、月の光が洩れて室内を照らしている。
近寄ると微かに甘く、密やかな花の香が漂ってきた。 誘われるようにそっと
扉を開き、滑り出て少年は柱にもたれ、庭園を見やった。
この頃では、こうして何でもなく外へ出る事さえ、「危ないから」と
止められていたけれど。
「貴方は、特に……」先程もそう言いかけ義母はふいと沈黙し、答えの替わり
盛り上げられた菓子を取り分けてくれた。 皿が揺れて小さくかちゃりと
音を立てる。 目の前を滑るように動く手は優しくて、白くはあるけれども
柔らかくほんのり赤みをおびていた。

 心配する必要などないのに、と少年は内心反発しつつ、こちらも押し黙り
皿を受け取る。 どれもこれも料理は全て贅をきわめていて、今もまた
羽よりも薄い生地がふわりと幾重にも積まれ、粉雪のような白い砂糖に
飴細工が繊細な曲線を描いている所など、誰もが感嘆の声をあげる出来栄え
だったが、少年にとってはがさがさと乾いた固まりにしか過ぎない。
ただ、飾りに添えられていた花の蕾だけは、幾分彼の興味をそそった。
あの花のひとひらは一一もう幾分ほころんでいた一一夜の香が残っていた。
 無気力に切り刻むだけで、殆ど皿に手をつけようとしない少年に、
執事が心配そうに口をはさむ。
「いいえ、いいのよ」義母はこれもまた顔を曇らせたまま、穏やかな声で
それに答えた。
「疲れているのね。 前のように、夜風にあたっていては駄目ですよ」


 手すりの近く、蔦が這い上り絡みあう中に、幾つも小さく蕾が
みえている。 触ろうとして、少年は暫し躊躇った。 
数秒程だろうか、もっと長い時間にも思えたが一一花はきゅっと絞られた
先から螺旋を描いて黄緑の武骨ながくへ続き、可憐に息づいている。
刹那に失われると知らずとも其処にあるだけでそれは儚く。
そっと触れた。 忽ち先から茶に変色し破片となって崩れ、落ちるより前に
微風にのり何処かへと消え去り。
後には何もない枝先だけが残る。 それが目につくのも顔をあげるまでの事で、
再び見直せばもう深緑の中、何処にあったかすらわからない。

 指先を通し伝わってくる淡い精気に満たされると、幾分気が晴れて
来るのが常だった。 これだけで、他には望まなくても良いと、そう
錯覚させる程に。 けれど勿論それは束の間の事。
 月が欠けるにつれ、またどうしようもなく餓えが頭をもたげてくる。
先夜のように。
 少年は花を狩り、考える。
運の悪い刺客でも来るなら、歓迎するのに、と。

 人間を全て塵に返すのは、流石に花に向けるより多大の労力を要したが。
満ち足りたと思うのは、悪い気分ではなかった。 花よりも少し、
雑音が多いのは難点だったが。
 先夜のあれも粗悪だった。 ずっと少年は義母をみる度、それが見も知らぬ
冒険者の顔に変わる幻に悩まされた。 執事は髭をはやした剣士だった。
時が経てば忘れてゆくが、それまでは自分の中で喋り立てる。 
その点、花は良かった。
 余程餓えていたのか、駆り立てられる様に少年は、次々と甘い精気を
吸いつくす。 離れて他より一段と大きく、美しく開きかけた蕾に手を
伸ばそうとして、ふと、動きを止めた。
 一一誰かいる。 
さっと緊張が走る。 気配は感じ取れたが、すぐに確かめる事はせず、
慎重に相手の出方を待った。
 一人か。 多分、仲間はいない。 見当をつけると、懐の短刀を確かめ、
少年は一気にそちらへと振り返った。

「あら、勘がいいじゃない」
 耳をくすぐる笑い声が聞こえる。 薄暗がりから女が一人、姿を現わした。
「幾ら一族の者とは言っても、噂だけじゃあてにならないと思ってたけど。
でも安心したわ。 ……ほーんと、全く大きくなったものねえ。
あなたがレムオンでしょ、すぐにわかったわよ」

 何とも派手な赤い鎧を来た、妖艶な女だった。 銀色の髪に、それと
変わらぬ程白い肌、鮮やかな朱色の薄い唇が浮き出てみえる。
 少年は眉一つ動かさず、じっと相手を観察している。 
女は微笑した一一「怖がらないで、大丈夫」
「あたしの事なら、心配は要らないから。 だって、実はあなたの一一」
 と、突然、少年はくるりと背を向けた。

「ちょっと、どこ行くのよ?」
「人を呼ぶ」
 少しだけ振り返り、涼しい眼差しで少年は言う。
「闖入者は追い払わなくては」
「ま、待ちなさい!」すたすた歩き出すか細い背中に女は怒鳴る。
「勘違いしないで。 あなたをどうこうする気なんか、全然無いってば。 
ただ、……ほら、その」
 少年は立ち止まった。 こちらをちらりと窺うその顔は、口の端を
歪め、面白そうに笑みをたたえている。
混乱する様子を楽しんでいるらしい。 
 何て子どもだろうと女は内心呆れながら、別にそぶりも見せず切りだした。
「あたしは、あなたを自由にしてあげる為に此処へ来たのよ」

 当然返ってくると思っていた「自由とはどういう意味か」という問いも、
何故自分に用があるのかという疑念もさし挟まれる事はなく、少年は女の
言葉を聞くと少し目を伏せ、言葉を慎重に選びながらこう言っただけだった。
「時間の無駄だな」
「何で? 大体あたしの話はまだ終わってない」
 重く沈んだ灰色の石の壁の前に、華奢な背中をした少年は佇んでいる。
年は十歳前後との事だったが、それにしては小柄で、顔立ちはずっと
大人びていた。 
 髪の色も黄金と聞いていたけれど、と女は思う。
でもその辺りは、そんなに本気にはしていなかった。 かりそめの姿を
持つのは、一族にはよくある事だったから。
「綺麗な髪ね」女はからかうように言った。
「まっすぐで、絹糸みたいで、輝きまであって。 一筋の乱れもないわ。
風ひとつ、満足にあたった事もないんじゃない?」
 少年は僅かに眉をあげる。
「馬鹿にしてるんじゃないのよ。 ただ、外にはもっと別の、素晴らしい
大地が広がってるのを、あなたに見せたいだけ」
「不審者が勧誘か。 そんな必要はないよ」
「そう、貴族のお出かけで世界が見えるとでも? でも近頃はそれすら
許されないんじゃないかしら、リューガ家の坊ちゃん。
ディンガルの皇帝が闇に落ちてから先、ちょっと外に出れば見た事もない
怪物がうようよしてるし、ならず者はその数を増やす一方だし。
確かに並の貴族の子弟じゃ、危なくて仕方ない。
 ……尤も、あなたは違うけれど」
「何が言いたいんだ」
「もう、気付いているんじゃない。 あなたが他の人間と違う事を。
その年で、もう己の内に介在する力に目覚めている事を。
知っているのよ、あたしは」

 少年の表情に明らかに隠しきれない動揺の色が現れた一一女は今の
言葉が与えた効果に満足すると、しかし手をゆるめずに話し続けた。
「相当前から、刺客の類は来ていたようね。 全く、よくやったものだと
思うわよ、こんな子どもなのに。 
 ああ、あたしね、そういう話にはちょっと詳しいの。 知り合いに
色々面白いのがいてさ一一あなたの事も、それでわかったのよ。
 ふふ、驚いたようね?」
 少年は表情をこわばらせたまま、女の笑う所をじっと見計らっている。
「で、どうしようって言うんだ」
「自由にしてあげる、って言ってんのよ。 ちゃんと聞いてた?
あなたがもう、そんな思いをしなくてすむ所に連れてったげる。
色々と、」
 急に、含みをもたせた言い方で女は間をおく。
「色々と?」
「そう、色々と面白い事も教えてあげるわよ?」
言い終わるや妖しく微笑し、じっと覗き込む。 少年が思わず顔を
赤らめると、視線を外し吹き出した。
「かわいいわねえ、もう!」
「ふ、ふざけ一一」
「たとえば欲望の抑え方、力の使い方、色々あるわね。
どれも、本来は一族の大人が側に居て、伝える役割を果たしていた」

 一族とは何かという質問と、自分はそんな一族なんかじゃない、と
言い切るのと、どちらが良いかで少年はすこし迷った。
前者は、触れてはならない事柄へと話を限定する事になる。 後者は、
子どもっぽく押し切れるならまだしも、そんな白々しい態度を
放っておいてくれるとは思えない。
 が、女が最後に喋った言葉は、少なからず興味をそそるものだった。
「力の使い方……か」
「あなたがどうやって生きて来たのか、あたしには良くわかるわ。
誰も教えてくれなくても、本能がそうしてくれと訴えた」
 思い出させようというのか、ゆっくりと、くぐもる声。
暗い記憶の淵に沈んでいた影が、幾つも目覚め浮かび上がってくる。
粗悪な人間達が、また聞くに耐えない騒音で喚き散らすとでもいうのか。
 少年は胸の内で、殺される殺されると悲鳴がこだましていた夜を思う。 
 もう消えたんだ。 吸い尽くされたんだ今更遅いのに。
何故騒ぐ。

「確かに僕は、何者かに襲われた事はある。 でも、それは僕の立場を
考えれば当たり前の事だ」
「……それで?」
「一応、剣の心得もあるし、魔法も多少なりとも扱える」
「そんな事を言ってるんじゃないわ」
「帰ってくれないか。 害のない相手と思って見逃してやっているんだ、
本来このリューガ家の屋敷に忍び込む者など、斬って捨てられても当然」
「でも誰も呼ぶ気はない、そうでしょ?」
「お前は……!」
「そうよ、あたしを見たあなたが、人を呼べる訳ない。
あなたと同じ髪、同じ色の肌、あなたが決してまわりには見出せないもの。
……すぐにわかった筈よ。 
 どうしたの、今度は何も答えないの」
重なった影が少年の横顔に映っている。 女の言葉に一旦は言い返そうと
こちらをみたが、思い付かなかったのだろう少年は悔しそうに俯いた。
「ずっと独りだったのね。 誰に言われずとも、隠さなくてはと思った?」
「それは、母が……いや、どちらだったか……」
「あたしも、こんなに長く放っておくつもりはなかったのよ。 でも、
カミラが消息を断って、すぐには何が起きたかわからなかった。
子どもはいなかった……小さいうちに亡くなったと聞かされ、あなたの事も、
最初はただ普通の人間の子だと、信じて疑いもしなかったわ。
実際、考えてみもしなかった。 あの子が死んで……殺されて、せっかく
無事大きくなってくれたカミラまで……辛かった。
 あなたに会えて嬉しいのよ、あたし、だからね。
一緒に来れば、少なくとも今よりずっと自由に、生きてゆけると約束するわ。
どう?」
「無駄だって言っただろう」
 少年は俯いたまま答えた。
「僕には……あの音、聞こえるか」
 女は息を殺し、耳をすませる。 鳴ったかどうか曖昧に感じる程、弱く
こつり、こつりと固い音が続いていた。 
「あれはエストの、弟の歩く音だ。 いつも重い本を抱えて歩くから、
決して走ったりしない。 この部屋の近くまでくると、入ろうか迷って、
必ず少し遅くなり、やがてまた遠ざかる。 たまにこちらから呼んで、
一緒に本を読むとすごく喜ぶ。 
義母は、僕を選んだ。 その意味も知らず、弟は笑ってる。
 もう僕はリューガ家の当主で、七竜家の一員たる貴族になっている。
名前だけじゃないんだ」
「幸せだったのね」
「そうでもないよ」


 本当なら、ここで安心して帰る事もできるのに、と女は思う。
ずっと昔、楽しげに未来を描いてみせた、短い会話の後のように。
でも、今はその頃とは状況が異なっていた。
「何故、人の住む近くに、怪物が姿をみせるようになったかわかる?」
 少年は顔をあげ、聡明な顔を曇らせ考え込む。
「闇の力は、いつもどうにかして地上に出ようと企んでいる。
人間のもろさにつけ込み、その感情を利用してね。
より大きく、勢力を増そうとして、闇は哀れな人間をその生贄に
変えてしまう。
街道のならず者たちも、そうよ。 目にはみえない力に影響されて、
おかしくなる。 ロストールも、もうすぐ無縁ではいられない。
あなたに、捨てられないものがあるのはわかる。 けどね、
だからこそあたしは、あなたを放っておく事はできないの。
あなたには、今まであなたを守ってきた力があるわね。 でもそれは、
今度はあなたを取り囲むすべてを壊し、失わせるかもしれない。
そうなってもいいの? 大切だと思うものが、無惨な姿に変わり果てても」

「でも、それは」
 言いかけて、そのまま絶句する。
「それは?」
「それは……人間だって、同じ事だろう。 闇の力が人を変えるというなら、
他の人間だって危険だ」
「例え十人変わったって、あなた一人の方が大事だわ」
「では百人なら、王都なんだ、何かあればそのくらいの影響は簡単に出る」
「それが千人でも同じよ、あなた一人の方が重要なの。
止められる人がいると思う? いても、あなたはその時生きているかしら。
失う訳にはいかないわ、断じて」
「……一族だからか」
「そうよ」
「それなら、そんな一族はさっさと滅びればいい。 お前のいう、力を
制御して、闇の力が及ばない所へ逃げて、誰にも見つからないように、
冒険者や吟遊詩人にでもなって生きるくらいなら。
何度も無駄だと言った筈だ。 僕はやらなければならない役目がある」
「それで可愛い弟や、お母さんが死んでも?」
「そんな事にはならない」
「根拠にかける熱意は、不安だと思う事の裏返しにしか見えないわね」
「義母の好意に沿うと決めた時から、当然覚悟はしていたんだ」
 では、やはり、と女は目を一瞬伏せ、不本意な決定を胸の内で下す。
「力づくで連れてゆくしかないようね」

「そんな事ができる相手だと思わない方がいい」
「どうかしら。 あたしもそれなりに場数は踏んで来たのよ」
 間合いを計る少年の目を、女は思わず微笑ましく見ながら答える。
「この場で一族を絶滅させたって構やしない」
 少年は懐の短刀を抜き、飛び掛かる。 余裕綽々、女は待ち構え
それを片手で受け、次の瞬間には弾き飛ばすと一気呵成に少年を
柱に押し付け、叫んだ。
「甘えんじゃないわよ!」

 もがく少年をまだ暫く押さえ付けた後、おもむろに放す。
飛び退いて逃げた後、二度、三度激しく咳き込む少年を、女は
珍しく笑いもせず無表情で見下ろした。
 やがてそれも治まり、暫し沈黙が流れる。


「こんな所で誰かに会うなど、絶対にないと思っていた」
 少年は慎重に言葉を選び、口にする。 目の前の相手の容貌に、何の
感慨も抱かない訳じゃなかった。 自分と同じ色の髪に、隠していても
伝わってくる、自分と同じ、何か。
ただ、その驚きを表に出す事は、どうしても躊躇われた。
 ロストールの老人達が、聞いてもないのに喋り出すおとぎ話がある。
銀色の髪を持ち、新月の夜に人を襲って血を吸い付くす、恐ろしい種族と、
彼らに立ち向かった、勇敢な竜の騎士との伝説。
 今はもういないがの、と必ず最後に付け加える。 
『皆、死に絶えてしまったからな。 ダルケニスは、絶滅したんじゃ』

 だから、もう一度同じ色の髪を持ち、同じ色の手を持つ相手に会えた。
それは、何と懐かしい事だろう。 目の前の女は、昔死んだ母に似ていた。
どこが、と自分に問うと、答える事は難しかったが。
 もっと、吊り上がった目をしていたような気がする。 笑うよりも、
悲しげな顔をみる事が多かった。 もっと、朧げで、月の住人の様で。
けれども、どこか似ている、確かに。

「話を聞いて、自分が冒険者になっている所を考えた。 まともな宿にも
泊れなくて、鬱陶しい森の中を仕事だからって歩き回る。
正直、少し面白かった。 でも駄目なんだ。 悪いと思ってる。
不安にならない訳がない。 でも、やっぱりどうしても駄目なんだ」
 語りながら少年の目はうつろい、何かを探す。 女は暗がりに落ちていた
短刀を拾い、手渡してやった。
「無理矢理でも連れてゆくと言ったら」
「何度でも逃げる。 監視する事に嫌気がさすまで、何度でも」
「闇があなたをもう戻れない怪物へと変えてしまったら」
「悪いが、殺してくれないか。 その位お前なら簡単だろう」
 少年は半分笑い、乾いた口調で淡々と答え続ける。 女は誰にも
聞こえる程の溜め息をつき、感心しないという風に首をふった。
「もう少しタフになるべきね。 簡単に死ぬなんて言うもんじゃないわ」
 それを聞き再び少年は微笑する。 前の半ば投げやりな表情も、そこには
もう現れていなかった。 幾分優しくて、何かを包み隠すような。


「ずっと、花を見ていた」
 女が口を開く。
「好きなのね」
「……余計な事を喋らないからな」
 少年は、離れて一際大きく咲きかけている蕾に手を伸ばした。
短刀を出し、枝の分かれ目より少し上を丁寧に切り落す。
「いつもそうやって?」
「ああ。 枝を割いてしまっては花が死ぬと、義母が云っていた」
 とげを削り、確かめた後、無言のまま女へと差し出す。
「あたしに?」
 少年は頷き、それから急に視線をそらした。
「聞こえるか。 この音」
「聞こえてるわ」今度は間髪入れず女も答える。
「此処に来る途中、ずっと誰かついてきててね。 モテちゃって、もう」
「入ってくる気配がする」
「どんな美形のお兄さんか知らないけど、今はこんな美少年と楽しく
お話してるのよ、遠慮して欲しいわ」
 女はまだ差し出されたままの花に視線を落とした。
「お別れね」
 受け取って目を瞑り、その密やかな甘い香をゆっくり楽しむ。
「ありがとう。 いい思い出になったわ」
 女は少年の手に、そっと花を握らせる。
「でも、これは誰か、そうね、誰か大切な人にあげなさい。
連れてゆけないのなら、何も持ち出さない方がいい」
「追っ手に、心当たりがあるのか?」
「どうかしら……あるような、ないような」



 誰かが門の方で声高に叫んでいる。 犬達が一斉に吠え立て、笑いと共に
甲高い声が呼ぶのを彼らは聞いた一一「違うよ、ツェラシェル、
もっと奥の離れだってさ」
 二人は思わず探すようにそちらを向いた。 
「お客様みたいね」
「冗談じゃない」
 今夜はどうしてこんなに騒々しい。 苦々しげに舌打ちした少年の顔は、
次に入ってきたらしい男の大声を聞くと一層その度を深めた。

「だから言ってるじゃないか。 助けに来たんだって」
 執事が対応しているのだろうが、そちらは何も聞こえない。 ややあって、
またがなり立てる声が響いた。
「いいや、ここに確かに入ったんだぜ。 そんなに言うなら、自分の目でも
しっかり見ておくんだな。 でなければ大事な坊ちゃんが消えてしまっても
知らないぞ」
「ち、ちょっと!」執事が必死に止めている。
「お待ち下さい、ゼネテス様! そちらはちょっと……」

「来るみたいね」
 女は庭に降り立った。
「また後で会いましょう、それじゃ一一」
「待って!」
 少年がはじめて声を強める。 同時に外を回ってきた男達の声が
やや近くはっきりと聞こえてきた。
「ここじゃないか、バラの沢山ある所って言ってたろ?」
 がちゃがちゃ、と鎧のぶつかる金属音が響き、必死に追い掛けたらしい
門衛が息をはずませ男達と口論している。
 思わず二人はそちらに気をとられていたが、また邸内を歩き回る靴音がはっきり
聞こえてくると、部屋の暗闇を振り返り、また顔を見合わせる。
「面倒はごめんだわ」
「わかってる」
 少年は目を伏せ、暫く何か考えていたが、つと思い立ったように
何も言わず部屋へと歩き出した。
女は慌てた。 声をかけようとしたが、すぐにも誰か部屋にやって来る。
これも少し迷った挙句、東屋の向こうへ姿を消した。



 靴音を高く響かせながら入ってきた長身の男の正体が明らかになると、
少年は露骨に眉を顰めた。
「どうやって此処に入った」
「そんなの簡単だ。 友達に会いに来た、と言ったのさ」
 青年は気を悪くした風もなく、快活に答える。
「友達……」
「悪いな、だが理由なら有る。 聞いてるだろう、バロルの五星ってのを」
 口調は明るかったが、その実視線は油断なく開いた窓辺へ向けられていた。
それに気付くと、レムオンは少し身体をずらせ、青年の正面に向かい
動揺を微塵も感じさせぬよう注意しながら話の続きを待って頷いた。
「ディンガル皇帝配下の将達の事だろう。 知っているよ」
「じゃあこれは知ってるか? その中の一人が最近、このロストール界隈に
姿をみせているのを」
「そんな事か」少年はほっとするのを抑えながら答えた。
「アキュリュースに流れていったという話だったが」
「そっちじゃない、別の五星の方でね。 知っての通り、皇帝バロルが魔道に
凝り出してからというもの、それまで重鎮だった部下達は一転、投獄されたり
職を追われたりで散々な目にあってた。 五星も例外じゃない。
俺は行方がわからなくなってた彼らの事がずっと気になってたんだが一一
まあ、前置きはこのくらいでいいか。 とにかくその五星が来てるんだよ。
お前を探しにな、レムオン」
 この長身の男が何か言う度、一々こちらの反応を窺っているのが少年は
気にくわなかった。 お前が思っている様な事を考えている訳ではない、と
はねつけてやれないのに尚苛立った。
今も、「僕を?」とか驚くのを待っている。 そして、その口調からこちらを
探ろうとしているだろう。
 疑問は幾つかある。 が、それについて問い質す事は、同時にこちらからも
何らかの会話をしなくてはならない事を意味していた。
話すのが嫌という訳ではない一一嫌には嫌な相手だったが、それより話す
内容が問題だった。
 下手に掘り返せば、と少年は考えた。 言わなくてもいい事まで察せられる
羽目になる。
しかし全く驚かない、というのもおかしい。
「論外だね」考えた末、少年は冷たく切り返した。
「わざわざこんな時間に押し入って、冒険者ギルドの噂話か」
「噂じゃないさ、事実だ」
(ここで余り否定しすぎるのは良くない、しかし)
「それが本当だとしても、ファーロスの厄介物の出番じゃない。
この屋敷にも攻め手を防ぐくらいの備えはある」
「だが、今に至っても誰も気付いてないようだぜ? 俺達は実際見てるんだよ、
この屋敷に誰か忍びこむのを」
 歯がみしたくなるのをようやく抑え、少年はじりじりしながら考えた。
あの女。 ……真っ赤な鎧なんか、着ているからだ。
「まあ、いいさ」男は取りなすような調子で言った。
「確かにこの家なら手勢に困る事もないんだろうし、退散するよ。
ただし、ちょっと庭を一回りしてからだ、いいだろう?」
「そ、それは」
「お前みたいな王室近縁のお坊ちゃんがさらわれたんじゃ、ロストールの
名折れだからな。 まあ、念の為って奴だ」
 これ以上反論を待たず、青年は颯爽と踵を返し、歩き出す。 思わず
小さく息を吐くと、扉の前まで来た青年は、ふと思い出した様に言った。
「そういや、聞かないんだな。 ……何故自分が狙われるのかって事を」



 再び外へ出る。 向こうからは騒々しい声が流れてきたが、
流石に此処まではやって来なかった。
いや、むしろ意識して避けているのかも知れない。 何故かはわからないが。
少年は不思議に思った。 ……しかし、そんな気はする。
 ほんの微風が葉をなぶったくらいの音が立ち。
「かばってくれたの?」
 女がすぐ側に来ていた。
「知ってたんでしょ、あたしが誰で、何者かって事も」
 答えるかわりに、少年は目をそらしたが、しかしもう目立った拒否は
みられなかった。 女もそれ以上は聞かず、話を変えた。
「中々骨のありそうな子ども達だったわね。 お友達?」
「ただの冒険者だ。 友達なんかじゃない」
 余程嫌だったのだろう、少年は間髪入れず答える。
「元は七竜家の貴族だけど、一緒にいるのは素性も怪しい者ばかりだ。
そう、以前セバスチャンが言っていた」
 段々抑えられなくなるにつれ、饒舌になるらしい。 少年は
いまいましそうに付け加えた。
「この頃ではディンガルの噂を聞き付けて、尚増長してるんだ」
「噂?」
「バロルを倒すとか。 ……出来もしない事ばかり言ってる」
「ではその無謀な冒険者達に伝えて」
 女の口調に明らかな変化が現れる。 少年は驚きそちらを見上げた。
「バロルは変わったわ。 変わってしまったの、ある時を境に。
今でこそ魔王と呼ばれているけど、元はただの人間。 けれど、
ただの人間でも……不死の力を得る事ができる。 そういう術が、
ディンガルには隠されている。
 でもそれも人間の技なの。 絶対なんてものはないのよ。
ないのに、必死でそれにしがみついて……信じようとしている。
難しいかしら」
「あんな奴等に伝えろって? いやだ、絶対に」
「そうね。 では、伝えなくてもいいわ」
 女は遠くでもみるような目をした後、不意に笑った。

「もう、行かなきゃ」
 まるで独り言のように女は呟く。
「本当は連れていきたかったけど、この騒ぎじゃ流石に屋敷の人達も
眠っていてはくれないでしょ。 仕方ないわね。
でも、もしあなたがそうしたいと思うなら、どんな状況でも此処から
外へと連れ出してあげるわよ?」
 少年は黙っていたが、やがてゆっくりと首を振った。
女も頷いた。 
「わかったわ」
 もう一度、名残惜しそうに少年を見つめ、そっと抱き寄せるように
手を伸ばす。
「あなたの思い通りにしてあげる事は簡単だった。 幸せを願ってる、
信じてる、頑張ってと歯の浮くような寝言を言えばいい。
でもね、だからこそあたしは、あなたを放っておきたくなかった」

 近寄りこそしなかったが、少年は女がゆっくりとその
細く長い指が頬に触れるのにまかせていた。

「これから先、あなたはきっと孤独になる。 どれだけ近付きたいと
願っても、心を閉ざさねば生きてゆけなくなる。
あなたを理解できるのは、あたしだけ……それでも、否と言うのね」
 頬に添えられた手は、滑らかで少し冷たい。 細い腕は、月灯りの下で
白銀にも思える程薄い色をしていた。






「名前は?」
「……サラシェラよ」
「サラシェラ」
「そう」
 来た時と同様、女は一瞬で姿を消す。 まだ頬のあたりに僅かな
感触だけ残して。






 夜はまだ続き、どこからか野方図な叫び声と茂みを無造作にかきわけ
走る音が聞こえてくる。
きっと、義母が明日の朝、穏やかだがきっぱりとした口調で、今夜の
不行状をとがめるに違いないと思うと、少年は何だか楽しくなった。
友達……一生考えもしないだろう、あのファーロスの遊び人などとは。
 後ろ手に扉を閉め、すべての音が背後に遠ざかる。 それでもまだ、
室内には花の甘い香が漂っていた。 曖昧な闇の中を手探りに進もうと
して、めくれた帳の隙間から月の光が手にした白い花を照らしだした。
銀色に鈍く浮かび上がる指先。 少年はしばしその場に立ち尽くし、
初めて出会うようにじっとそれを見おろしていた。