記事タイトル:仕事に救われて 


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お名前: はまの   
娘が1年生になってすぐに、幼稚園のときの友達が不登校になりました。
人数の少ない学校だったので皆にすぐ知られる事となりました。
その子はお母さんの努力でほどなく登校をしました。
娘が5年生で不登校になった時、そのお母さんに相談しました。
また 仲良くしてくださっているお母さん方にも話をしました。
専業主婦だった私は、一日中家にこもって過ごしていましたが、「落ち込んだ母親より、明るく元気な親でいるように」とお母さん方が声を掛けてくださり、
外に出る機会を作ってくださいました。
おかげで、色々アドバイスを頂き、私自身が潰れることなく「問題から逃げてはいけない」と、前向きになれました。
今 職場では上司に簡単に話をしています。
[2007/10/29 01:25:11]

お名前: 谷川 母   
私は、自分の職場の人には、基本的にすべて、娘の不登校について話していました。
そのために引っ越しもしましたし、時には休む時もありましたから、
自分の周囲の人々だけでなく、事務の方にも、お話ししました。

もちろん、隠すこともできましたが、それは敢えてしませんでした。
理由は、主人の父のおかげです。
主人の父は、10年間、妻である主人の母を介護しました。
母はアルツハイマー性の痴ほう症で、60歳から10年間、父はほとんど一人で世話をしていました。
その間、父は、初めから終わりまで、母の病気のことを全く隠さず、
誰にでも普通に、話していました。
みんな、その潔さというか、痴ほう症という病気を持つ母をそのまま受け止め、
ごくごく当たり前のように、自然に付き合う父の姿に感心し、
自ずといろいろと声をかけてくださったり、助けてくださったりしていました。

その様子を見て、私も、娘がこの問題を持った時に、
決して隠すのはやめようと、思いました。
結果としてそれが、長田先生と出会い、
子供の問題に真正面から向き合っていこうとする姿勢につながって行ったのだと思います。

子どもが問題を持つ前は、私は自分の仕事の都合を優先し、、
そのために、娘のことや主人のことを、自分の都合に合わせて取り仕切っていました。
これが、娘に問題を持たせることになった大きな原因の一つだったと思います。

今は、仕事はもちろん大事だし、がんばってはいますが、
娘の問題や家族のこと等で、もし仕事を辞めなくてはならなくなっても、
それは仕方ないと、いつでも辞める覚悟はできています。
今回、娘が再入寮する際にも、そのことは、本人にはっきりと伝えました。
だからこそ、今、日々精一杯、一生懸命頑張ろうと思っています。
たとえ、明日辞めても決して悔いの残らないように…。

いずれにしても、仕事は、私にとっていろいろな意味で大きな存在でしたし、
それは今でも変わっていません。
でも、もう仕事を「逃げ」や「最優先事項」にしようとも、思っていません。
何事に対しても、精一杯、自分のできることをやりベストを尽くす、
仕事もその中の一つだと、捉えています。
[2007/10/28 01:03:04]

お名前: せつ   
息子が”ヤンキーの引きこもり”と知っていたのは二人。
同年齢の子を持つ友人と10年ほど前に知り合った仕事仲間です。

私を必要としてくれる仕事があることは、救いでしたね。
仕事仲間の存在も、ありがたいことでした。
でも、いつも心臓が小さく早く脈打っていました。
会社へ出勤する時よりも、退社時のほうが気合が入るという毎日でした。

私の職場は異動があります。
「問題から立ち直った親の会」の活動を機会に
今の上司と仕事仲間に、ほんの大まかに話しました。
今だから話せることで問題真っ只中の頃は、とても話す状況ではありませんでした。
[2007/10/28 00:28:04]

お名前: 松岡   
ひぐちさんの書き込みを拝読するや否や、私の感覚はあの頃に戻りました。

私は引きこもる息子と1日中ベッタリすることはできなかった。
私が以前のように自分らしく生きるためには、仕事をしなければならなかった。
外に出ている間は、普通に人間らしく生きることができた。

「Ultra Soul」「Automatic」「First Love」「Can You Keep A Secret?]・・・・
通勤途中の車の中で大声で歌い、気持ちをリセットしていた。

毎朝、気合いを入れて校門をくぐった。

仲間は知っていたかもしれないけれど、
私は仕事場では長男の事は何も話せなかった。
当時は仕事柄引きこもりを持つ親だとは自分からは言えなかった。
私が軽蔑されることを恐れた。
誰にも決して私の暗い部分を見せなかった。

息子が通うことの出来ない場所・・・チャイム・制服姿・黒板・机・運動場・・・
それが、私の職場だった。
長男が引きこもった頃、チャイムや制服を見るだけで息ができなくなりそうだった。
多くの生徒があんなに楽しそうに学んでいるのに、家の息子だけは・・・

児童や生徒を相手にしていると、気持ちは若くなりエネルギーが出てくる。
全ての若者がいとおしく思えた。
学校では、自分でも引きこもりの親とは思えないくらい笑顔になっていた。

その気分のまま帰宅する。
しかし、引きこもる息子は私を元気なままではいさせなかった。
家の中に入ると、恐怖と失望が私を襲ってきた。
毎日がその繰り返しだった。

あの頃、再び普通の人間らしい生活を取り戻すことができるなんて、
夢にも思えなかった。
しかし今は、自分らしく生きさせてもらっている。

今は息子の過去を隠すこともなく、
私自身ムリに気合いを入れて元気を出すこともなく、
自分らしく普通の生活を送れる有り難さを味わっている。
[2007/10/27 22:18:04]

お名前: 高田 母   
仕事に救われて・・・というより私は仕事に逃げました
そこには私の居場所がありました
不登校の当初、休みを急にとる為決まった人にだけ話しました

仕事が忙しかったこともありましたが、子どもから逃げるように働きました
しかし、子どもが鑑別所に入り真剣に向き合う為退職を決めました
何が一番大事か答えは決まっていました

大好きな仕事でした
天職とも思っていました
いま、向き合わないとこの子は一生駄目になる
そんな我が子の姿を決して見たくはありませんでしたから

その後、2箇所の職場を経験し今は3箇所目の職場です
その間、いろんな方と知り合いました
井の中の蛙だった自分を知りました

人様の中で私も学ばせてもらっています
[2007/10/27 21:58:59]

お名前: こたに   
子どもが一番!
と思っていた私は、何の迷いもなく、専業主婦になりました。
期待といえば聞こえがいいけれど
自分の思いをぜーんぶ子どもに向けて
重ーく、のしかかってました。
長男が問題を現してから
私の救いになったのは、
無邪気で、明るい、当時2歳だった娘の存在でした。
家庭以外の自分の居場所って大切ですね。
[2007/10/27 19:26:44]

お名前: ハダノ   
ひぐちさんは強いですね。私は3男を問題の息子の暴力から守るためでも
有りましたが、私自身がぼろぼろで仕事をしていられる状態ではなかった
です。

本当に弱かったなと思います。
[2007/10/27 19:19:59]

お名前: 克典 母   
私も、職場では未だに話していません。確かに仕事に行くと、一瞬でも別人になれました。
ただ、勤務体制はきりのいい時に、短くしてもらいました。
仕事に逃げ、救われましたが、息子が気になりました。
まだ、言えずにいますが、いつか必ず話すつもりです。
[2007/10/27 15:16:20]

お名前: ひぐち   
私の職場の人は今でも娘が不登校だった事は知りません。
何度言おうかと思いました。その方が気をつかってもらえ
娘の為に動けると思いました。でもまた、それが逆に私が
嘘でも元気でいられる場所がなくなり、やはり人に迷惑も
かけることになるので言えませんでした。
正直仕事中、娘の事が頭から離れず涙が出そうになったり
仕事が終わり帰る時になると胸が押し潰されそうになつたり
何もないふりをして仕事を続けるのは大変でしたが、おかげで
地獄のような家の中とは別の世界が持て、何とか立っていられ
たのだと思います。
病気も絶対したくないと思いました。
不登校の娘がいる家にはいたくなかったから。
残業を頼まれると本当にありがたいと思いました。
友人がやはり子供が不登校中は仕事に救われたと言って
いました。私もその時初めて友人の言っていたことが
判り、何度も会社を辞めようと思ったこともありましたが
続けていて救われたとおもいました。
[2007/10/27 11:24:30]

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