旭陽中学校同窓会 第7回カルチャースクール 
大阪城 櫓めぐり2019.6.2
 2019年6月2日旭陽中学校同窓会主催の第7回カルチャースクールが開催されました。
今回は大阪城の櫓巡りをしてまいりました。
とっても近い大阪城ですが、知らないことも沢山!
大変勉強になりました

今回の集合地点は大阪城大手門前

参加者は、石川会長、清水副会長、浦西副会長、青野副会長、小高さん、都甲さん、そして私宮田の7名。

今回は大阪観光ボランティアガイドの藤井清一さんに解説をお願いいたしました。
大阪観光ボランティアガイドはNPO法人でまさにボランティア(無償で!)観光ガイドを務めてくれる団体です。
当日は、本当に含蓄のある深いお話を沢山 聞かせて頂きました。

皆さんも事前予約をすれば無償で、いろいろな為になるお話を聞かせて頂けますよ
※大阪観光ボランティアガイドホームページ https://ovgc.jp/

さて、今日はどんな発見や勉強ができるのでしょうか・・・ 最後まで ごゆっくり ご覧ください。

 【大阪城】

子供のころ、「大阪城は誰がつくったのでしょうか?」なんて なぞなぞ遊びをしたことはありませんか?。

「豊臣秀吉!」って答えると・・・ 「ブーッ! 大工さんでしたぁ」なんて答がかえってくるんですが、今の大阪城は、秀吉ではなく徳川二代将軍 徳川秀忠が建てた大阪城が元になっています。

秀吉が創ったお城は1615年の大坂夏の陣で焼失してしまいます。
そのあと、徳川家が威信をかけて秀吉の大阪城よりも一回りも二回りも大きなお城を新築していたのです。

そのお城も1665年(寛文5年)に落雷により焼失。
以降、266年間天守の無い お城となっていました。

現在の大阪城は1931年(昭和6年)に大阪市によって徳川秀忠版の大阪城を再現したものです。
その時、エレベーターも付けちゃいましたが、まぁそれは正解!
階段登るのが辛い方も頂上まで登れちゃいますからね。助かります。

※写真の右側が秀吉が建てた大阪城。左が、徳川秀忠が新に創った大阪城。
 秀吉の建てた大阪城は今やほとんど跡かたもありません。

まず一行は大阪城の入り口 大手門に向かいます




【大手門】(重要文化財)
大手門はお城の正面玄関を意味します。

現在の大手門は、 1628年徳川幕府が大阪城を建て直した時に建てられたました。
落雷や幕末の火災、第二次世界大戦の戦火を潜り抜けて今もあの時の姿のまま今にいたっています。

屋根は本瓦葺で扉や親柱は黒塗総鉄板張りと大変立派な門です。


ところで、この門の前には大阪府立大手前高校があります。
大手門の前だからつけられたネーミングですよね。
また、近くには追手門学院があります
追手門ってまた別にあるのかな?と思っていたら違ってました。
大手門のことを追手門とも言うそうです。

大阪城の大手門も幕末までは追手門と呼ばれていたとのことです。

【大手門 控え柱の謎】
大手門の裏側にある控え柱は、江戸時代に補修されています。
柱を途中でつなげているのですが、つなげ方が永い間 謎となっていました。
このつなげ方は日本の建物でここ1ヶ所しかないとのことです。

このつなぎ目、一見すると・・・
◇上下に合わせることもできない。
◇横からスライドさせることできない。
ではいったいどうやってつなぎ合わせたのでしょうか。

みなさんはお分かりになりますか。
 
これを考えたのは江戸時代の職人。
「マネできるものならやってみろ」と言わんばかりの当時の職人のプライドが伝わってきます。

そして、この仕組みが解明されたのは1983年。
割と最近です。
それもつなぎ目の謎を現在の知識人達の知恵で解き明かしたのではなく、X線カメラという文明の利器をもってようやく解明されたのです。

斜め上から差し込むとその後は上下左右の力にはビクともしないつなぎとなっていました・解ってしまえば「なあんだ!」なのですが、誰も知らなかったやり方を自分の知恵でやってのけた職人さんはすごい!
【大手口枡形の巨石】
大手門をくぐると、四角い区画が広がります。この区画を枡形といいますが、この枡形では大阪城でも上位に位置する巨石が目を奪います。
20畳を超える巨石の厚さは平均して85㎝だそうですがどのようにして運んだのでしょうか。
 
 
運搬方法は諸説あるようですが、観光ボランティアの藤井さんによると、いかだの下に石を吊り下げて運んだのではないかとのことです。石を水に沈めることで石自体の浮力が発生して重さが軽減されるとのことです。
しかし、重機もない時代ですから大変な作業だったのでしょうね。
 
【枡形はデスエリア?】
門内にもうけられた四角いスペース(枡形)の役割は敵の侵入を食い止める役割を担っていたそうです。

まず、大手門に続く土橋を渡る際には左手の千貫櫓から、火縄銃や弓矢の洗礼を受けることとなります。
大手門をようやく潜り抜けたとしても、侵入した敵は枡形に閉じ込められた形になります。
そこで、周りから一斉射撃のおもてなしをうけてしまうという恐ろしいデスエリアだったのです。

また、壁を上ろうにも目の前の巨石がそれを阻みます。
足場がないので登れません!
仕上げは、二の門の上にある多聞櫓に設けられた「槍落とし」がとどめを刺します。
門の上には隙間が空いていて、隙間から槍が降ってくる仕掛けなんです。

 
   
二の門の上にある溝が分かりますか?

その溝から槍が投げ落とされます。
敵からは見えにく場所にあるので効果的ですね。

 
 【多聞櫓】(重要文化財)
さて最初の櫓は多聞櫓です。
石垣の上に建てられた長屋状の櫓を多聞櫓といいます。
名前の由来は1564年奈良に築城された「多聞城」にあった長屋状の櫓から由来しているという説と、楠木正成(幼少多聞丸)が、長屋状の櫓に多聞天(毘沙門天)を祀ったからとする説があるようです。

この多聞櫓は枡形を囲む形で設置されています。
多聞櫓は1628年に創建されたものの1783年に落雷により焼失。
今の櫓は幕末(1848年)に建てられました。(昭和44年に解体修理)
 
 
入り口はこちら
靴を脱いで入りましょうね。
大阪城櫓公開は今年(2019年)の11月24日までの期間限定です。
当時の状態が見れる貴重な体験です。
ちなみに入場料は、大人700円です。
※大阪城天守閣入館とセットだと1,200円です。 
  中は、長い廊下が続きます。
通路の右側には12畳から20畳の部屋が12室並んでいます。

部屋は有事の際に兵士が待機する為のものです。
  左の壁には 狭間(さま)と呼ばれる穴が開いています。
鉄砲を打つための穴です。

この時代の戦は当然のように鉄砲が大きな役割をもっていました。
  櫓内には、櫓の説明や修復時に出てきた瓦や、木材が展示されています。

 

ここは二の門の丁度真上となります。

壁と手前の手すり状の間に隙間が空いています。

そう、ここが槍落としの穴です。
 

 二の門の上にある多聞櫓には、50畳から70畳の大広間が3つあります。
かなり広いです。

 
 多聞櫓を後にして
続いて千貫(せんがん)櫓にむかいます。 
   
【千貫櫓】
名前の由来は、織田信長が、大阪城が建てられる前にこの地にあった「石山本願寺」を攻めたとき、お寺の櫓から執拗な攻撃を受け苦戦を強いられたそうです。その時兵士達の間では「千貫文のお金を支払ってでも奪いとりたい櫓だ」と噂されたのが由来となっています。

さて、千貫文とは現在のお金で言うとおいくら万円なんでしょうか。
まず一貫文とは一文銭(寛永通宝)を千枚紐で束ねたものをいいます。

一貫文で、おおよそ8万円程度。
千貫文だと、約8千万円程度になるのではないでしょうか。

うーん、今 同じものを建てるとすると、逆にもっとかかりますよね。たぶん…
 
  千貫櫓は、2階建。ただしこの日は2階の閲覧はできませんでした。

床は「しころ」と呼ばれる、丁寧な凹凸加工がされています。 

窓際沿いの回廊を「武者走り」と言うそうですが、この「しころ」は有事で武者達が走りまわっても滑らない様に細工された滑り止め加工だそうです。
  千貫櫓から外を眺めると、まさに大手門が丸見えです。

ここからなら 鉄砲で土橋を渡る敵に一斉射撃が可能ですね。 

櫓内には火縄銃のレプリカがありました。 
火縄銃の火薬の入り口には蓋(ふた)があります。
この蓋の名前知ってますか? 
そう、「火蓋」です。
「戦いの火蓋がきられた!」の火蓋ですね。
 先人の知恵と工夫を勉強させていただき次の場所へ向かいます。
  次の目的地までは
西の丸庭園を縦断します。

途中で、ちょっとポーズ!

 途中、西の丸庭園で目を引いた建物がありました。
 こちらは、大阪迎賓館です。

 大阪迎賓館は、
 1995年のAPEC国際会議場として建てられました。
 最近ではG20大阪サミットの夕食会場としても使用されました。

 こちらでは結婚式や、宴会も受付しているそうですよ。
 
 

 
次に拝見させて頂くのは
焔硝蔵です。 


   【焔硝蔵】(重要文化財)
焔硝とは火薬のことをいいます。
徳川幕府が、鉄砲や大砲にしようする火薬を保管していました。
初代の焔硝蔵は、土蔵造りでしたが、1660年に落雷を受けて大爆発を起こしたり、部材の腐食等から何度も立て直されたようです。

 
今の焔硝蔵は、1685年に燃えない、腐らない、長持ちする蔵として工夫の粋を 凝らして建てられました。

300年以上経った今でも、ズッシリとした たたずまいは健在です。

それを見て「ほう~」と感心する会長。
 
石壁の厚さは、なんと2.4m!
中は、意外とひんやりしています。

瓦屋根の下にぎっしりと土を詰め込むことで、真夏でも太陽の熱が中に届かないよう工夫されています。

足元の明かりは電気ではなく、外の光です。
湿気がこもらないための通気口であるとともに昼間は明かり取りの役目もしていたようです。
  石と石の間は漆喰でしっかりと塗り固められています。 

石肌はとてもきれいで、江戸時代のものとは思えないぐらいでした。

このつくりの火薬庫は日本ではここだけだそうです。 
 
  外から見ると、通気口がありました。

覗くと、奥の方に室内が見えます。2.4mの壁の厚さを実感できますよ。
機会があれば是非覗いてみて下さい。 
 以上で、大阪城の櫓めぐりは終了となります。
一行は、このあと食事と大阪城見学となりますが、今しばらくお付き合いください。おまけが続きます。
 【おまけその一】
 大阪城には巨大な配水池がある!
明治中ほどまで、大阪の水事情は決して良いものではなかったようです。
明治23年にはコレラが流行し、上水道の設置が急務となりました。

当時大阪の中でも高台にある大阪城跡地は水を貯え、自然流下で市域に水を流すには最適の場所でした。

そこで、1895年(明治28年)に現大阪城の東側に大きな貯水タンクを埋めて市内に配水することとなりました。

石垣から突きでているパイプは、くみ上げ用パイプと配水用パイプです。
ちなみに今も現役です。
【おまけその二】
旧陸軍第四師団司令部庁舎がおしゃれに変身してました!
 
旧陸軍の建物は戦後GHQに接収された後、警察本部と活用され1960年には市立博物館として運営されていましたが、2017年には複合施設「MIRAIZA OSAKA-JO」として生まれ変わりました。

 
自分達もそこで美味しく食事を頂きました。
 【おまけその三】
大阪城の6階はいずこに?


食事のあと、大阪城見物に行ったとき。
階段を上ると、5階の上は7階との表示!?

6階はどこに??
従業員用の見えない隠れフロアがあるの?

全く分からず 悩みました。

答えは5階にありました。
よく見ると5階の壁の上の方に非常手すりのようなものがぐるりと張り巡らされています。
そうこの回廊?が6階だったんです。
【おまけその四】
大阪城一の巨石「蛸石」

大阪城本丸入り口桜門には蛸石とよばれる巨石があります。広さは36畳。

みなさん 蛸がみえますか?
 
 ほら、こんな感じ!
 
偶然、石のシミが蛸のあたまに・・・
ノミの跡が、足に・・・見えませんか?
もしかして、職人さん ワザと足つけませんでした?
 【おまけその五】
ええっ!同級生だったの?!

 
今日一日ボランティアで、ご案内をして頂いた藤井さん。

よくよく聞くと、清水副会長と同い年で、通っていた小学校も同じことが判明。

同級生やったんや!ってことでビックリ。

これもご縁ですね。

藤井さん、今日は本当にありがとうございました。 
今回の、カルチャースクールはいかがだったでしょうか。

カルチャースクールも今回で7回目。
馴染みのある大阪城も知らないことでいっぱいでした。

さて来年は何を勉強しましょうか?

最後までお付き合いありがとうございました。
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