東城海斗(トウジョウ カイト)が兄とも慕う遠野紫朗(トウノ シロウ)と共にそのマンションを訪れたのは、まだ寒さの
残 る二月の初めだった。
海斗は調理師免許と栄養士の資格を持ち、遠野が五年前から帝都に構えている広大な敷地を持った屋敷で若
い衆の世話を一手に引き受けていたのだが、突然、その任を解かれて連れて行かれたのが界桜タワー・帝都レ
ジデンス最上階にある椿匡雅の所有する大邸宅であった。

尤も、思う処のあった海斗は然程驚きはしない。
闇社会では、椿匡雅の動向はあっという間に広まってしまうのだ。まして海斗の主人である紫朗は椿本人に仕え
ている。何かと情報は入り易かった。
だから、椿が少年を愛人にすべく手元で育てているという噂も、海斗にとっては現実の物として耳に入っていた。
ただ、何か心に引っかかる事があったのも事実だ。恐らくそれは、翔一郎の苛立ちの原因にも近しい物だろう。

「注意するのは三つ。」
遠野と海斗を乗せた黒塗りのベンツが地下駐車場に入る頃、唐突に遠野が話を始めた。妙な先入観を持たせな
い為に、話すタイミングを計っていたのだ。
ぼんやりとスモークガラスの向こう側に視線を彷徨わせていた海斗が、紫朗の声にゆっくりと顔ごと視線を向ける。
紫朗は決してイケメンだの美形だの言われるタイプではないが、一見近寄り難いシャープさのある男前だ。極道
というよりは、若手実業家タイプ。声を荒げる事は滅多にないが、キレると冷酷非情な残忍さが表面化する。決し
て怒らせてはならない部類の男なのだった。

「はい。」
紫朗の静かな声に、海斗も静かに答える。
二人の乗った車は既に地下へと滑り込んでいた。
「長男の鷹久さん、二男の久秋さんは、14歳になる末っ子の秋典さんを中心に生活している。だから、前以って
知らされるすべての予定は未定と思って時間には常に余裕をもっている事。」
まるで教師のような口調である。
「予定は未定…ですか。」
遠野の話に、海斗は幽かな違和感を感じ小首を傾げた。最初に聞いていた話は、三兄弟の食事の世話をして
欲しい、という事だけだったからだ。
「そうだ。秋典さんは多くの病気を持っている為、予定通りに事は運ばないし、事情が事情だけにこちらの都合を
押しつける訳にもいかないんだ。」
「病気?」
初耳である。
流石の海斗もそこまでの情報は仕入れていない。と、言うよりは、厳重に情報規制されていたのだろう。椿の周
囲は秘密厳守が基本だ。紫朗もそれに倣って口は固い。それでも、ここで話すという事は、海斗には逃げ道が
ないのだろう。選択の余地もないと言う事だ。
「難病だ。すぐに解ると思うが…治療法がない。現在14歳になるが、見た目は小学校一年生になったばかりとい
うところだ。成長が恐ろしくゆっくりとしている。と、同時に内蔵も未発達なんだ。体調の管理をしなくては、生死に
拘る事態になりかねん。だが、椿さんをして『極上天使』と呼ぶほど愛くるしい顔立ちをしているぞ。」
「極上天使…ですか。」
あの恐ろしい男が、どんな顔をしてそう呼んだのだろう。
口元を引き攣らせた海斗の様子に、遠野は苦笑する。
「ああ。まぁ、この三兄弟は…なんというか。」
会えば、すべてが解るのだが。

「次に。秋典さんの前では、絶対大声を上げないでくれ。怒鳴ったり、ヒスを起こしたり。特に荒っぽい言葉遣い
は絶対にダメだ。」
「…。」
極道相手に無茶な事を…。紫朗の言葉に思わず天を仰いだ海斗だったが、考えてみれば海斗自身は極道で
はない。気性もおおらかで、その穏やかな言動は子供には好かれ易いだろう。だから遠野は海斗を選んだのか
もしれない。遠野の言葉の端々に、秋典という子供に対する繊細な心遣いが見え隠れする。
「秋典さんは幼い頃、暴力事件に巻き込まれていて…まぁ、会えばすぐに解る事だが…精神状態が少し未発達
なんだ 。」
「え…。」
「保育園児のまま、精神の成長が止まっている。だから言動が見た目の容姿より遥かに幼い。」
「つまり…14歳でありながら見た目は5、6歳で。その上、精神状態が3、4歳という事ですか?」
「そうだ。」
「それは…。」
何が食事の世話だ。これでは保父の真似事をさせられるようなものである。普通に世話をするにもかなりの覚悟
がいりそうだ。
隣に座った遠野の横顔を見詰めたまま、海斗は溜息を噛み殺す。言葉にするだけなら簡単だろうが、実際相手を
するのは海斗なのだ。こっちの身にもなってくれ。と叫びたいのを海斗は必死で堪えた。
しかし、遠野の話はそれだけではなかった。
「実は、それだけじゃない。」
遠野の言葉に、海斗はガックリと項垂れる。これ以上何があるというのか。
「まだ、何かあるんですか?」
もう、矢でも鉄砲でも持って来い、だ。海斗の心境を知ってか知らずか、遠野は正面を見つめたまま苦笑する。
すでに二人が乗った車が駐車されて随分と経っていた。
「ああ。最後の注意なんだが…。」
「何です?」
「この三兄弟は…揃いも揃って天才児なんだ…。」
「はぁ?」

海斗の素っ頓狂な声に、遠野は苦く苦く笑った。




複雑な表情を浮かべた遠野と海斗を乗せたエレベーターは、護衛である二人の男と共に静かに最上階へと向
かっていた。
だが。正直、海斗は屋敷に帰りたい。
車内で最後に聞いた遠野の話があまりに衝撃的過ぎたのだ。

「サヴァン症候群という病気を知っているか?」
「サヴァン…確か、自閉症の患者さんの中に時折存在する…。」
「そうだ。別名『天才病』とも言う。ひとつの事に突出した才能を発揮する脳の病気だ。」
(注:サヴァン症候群は病気ではありません。病気というのはあくまで遠野個人の主観です。また、全てのサヴァン
症候群の方が自閉症とは限りません。)


症例としては、例えば分厚い電話帳に書かれている全てを丸ごと記憶してしまったり。
一度見ただけの風景や建築物を正確に描いてみたり。

「三兄弟の場合は自閉症ではない。だが、サヴァン症候群の兆候がみられる。恐ろしいほど記憶力が良い。」
「そんな事って…あるんですか?」
「解らん。サヴァンの場合はひとつの事に突出するが、三兄弟は記憶力という点で突出している。見たもの、聞い
たものを正確に、ほぼ完ぺきに覚えてしまうようだ。ある時…。」
まだ、三兄弟と出逢ったばかりの頃。三人の前で椿がアラブ系の友人と電話で話をしていた事があった。その会
話を、末っ子の秋典が丸ごと記憶してしまったらしく、数日後、椿の前でその時のアラビア語を見事に発音して意
味を聞いて来たのだ。
その場にいた誰もが絶句した。
しかも。
「三人が三人共見事に発音してくれた。それで、医師の勧めもあって研究者を呼んで簡単なテストをしてみた。」
「それでサヴァン症候群だと?」
「正確には違うだろう。ただ、それに近いものらしい、としか解らない。」
凄まじい記憶力を持つ兄弟…。他人を観察し、その言動のすべてを記憶し、された事は決して忘れない。
ある意味、その能力は武器になる。
でも、それだと。
「待ってください。でも、末っ子は…確か精神的には保育園児だと…。」
「そうだ。しかし海斗。記憶と精神は近くて遠い。同じではないよ。秋典さんは、やる事なす事保育園児だが記憶
力が良い。ただそれだけの事だ。」
「それだけって…。これから三人の天才児を相手に、衣食住(多分そうなるだろう)生活を共にする俺の身にもなっ
てください。」
「お前なら大丈夫だ。」
「何がです。」
「三兄弟はとても性格が良い。警戒心は強いが、一度心を開くと誰からも好かれるタイプだ。お前もきっと気に入
るし、彼らもお前を気に入るだろう。」
「そんな安易な事を…。」
「ふふ。それで、だ。」
「…。」
「生活上の注意だが。」

三人はとても特殊な環境で生活している。それに慣れてくれ。

「特殊…。」
「行けば解る。」

紫朗の意味深な言葉に、帰りたい…。と、海斗は切実に思った。
三人の天才児。
しかも、その長男は絶世の美貌を誇り、あの椿の愛人で、末っ子は難病を抱える極上天使。

「俺に…どうしろって言うんですか…。」
エレベーターに乗り込む際、ぼそりと呟いた海斗の声を、遠野はあっさり無視して最上階へ向かった。