天使で悪魔




記憶喪失



  運命。
  それは神が定めるものだと言われている。
  この世界には神の威光は届かない。
  もしも神がいるのであればこの無慈悲で残酷な世界になるはずなどがない。

  しかし運命は確かに存在する。
  数奇な運命?
  もしも神が本当に運命を定めているのであれば。

  ……残酷だけを愛する神などこの世界に必要ない……。






  「……う、ううん……」
  身じろぎして、体を起こす。
  どうやら眠っていたらしい。掛けられた毛布が心地よい。
  どれくらい以来だろう?
  こうやって暖かい寝具に寝たのは。
  私はいつも放浪。
  ……いつ以来だろう……。
  「で? ここはどこだ?」
  身を起こし、室内を見渡す。
  飾り気のない部屋。
  ……というか、完全に質素な部屋。
  タンス。私が転がっているベッド。テーブル。そのテーブルの側に椅子が二つ。調度品はそれだけだ。
  壁も毎日綺麗に磨いているのだろうが、既に汚れは取れないようだ。
  「宿か?」
  しかし泊まった記憶がない。
  そもそも路銀もなかった。
  私が持っているのは……見渡す。剣がない。アカヴィリ製の、私の持ち物の中では唯一高価な代物だ。
  どこだろう?
  「ふむ」
  見渡すもののない。
  どこにもない。
  「よっと」
  立ち上がる。
  「ぐっ!」
  瞬間、体が痛む。全身に激痛が走った。
  ドサ。
  痛みに耐えかねてその場に倒れる。
  ベッドの上に倒れたのは幸いか。
  「ちょっと大丈夫っ!」
  栗色の小柄な女性が駆け寄ってくる。ボズマーだ。
  私の連れか?
  いや。そんな記憶はない。……そもそも……。
  「なあ。聞きたい事がある」
  「何?」
  「私は、誰だ?」



  私は森の中に倒れていたらしい。
  全身傷だらけで。
  それが五日前。
  たまたま森を散策していたアイリーンに助けられたらしい。アイリーンというのは、栗色の髪の女性だ。
  美形だ。看板娘らしい。
  彼女は酒場を経営していた。私は今、一階の酒場にいる。カウンターに座っている。
  二階がささやかな居住区画だ。
  「何も覚えてないの?」
  「まったく」
  あまり不安はない。
  アイリーンにしたら迷惑な話だろうけど、私は特に何の支障もない。
  嫌な記憶だからか?
  ……。
  ただ、記憶がないと言っても自分に関する事ぐらいだ。
  もしかしたらそれ以上に知らない物事があるのかもしれないが、大抵は分かってる。生活的な常識はある。
  「五日前にキノコを取りに森に行ったら貴方が倒れていたの」
  「そうか」
  着ているのは麻の服。
  前に着ていたのはボロボロだったらしく、寝込んでいる間に着替えさせてくれたそうだ。
  ……彼女がか?
  何気に恥かしいな。
  「歳も不明?」
  「ああ」
  「見た感じ二十代後半ぐらいだよね」
  「そうか」
  「その指輪だけが分不相応……ああ、別に疑ってるわけじゃないよ。それ、貴方の物?」
  「指輪」
  確かに右手に深紅の宝石の指輪が嵌っている。
  アイリーンは疑っているらしい。
  盗品ではないかと。
  「分からない」
  「そう」
  「分からないが……大切な物の気がする」
  「そう。ならいい。もう詮索しないから」
  ルビーだろうか?
  燃える様に深紅の宝石。
  「見たところインペリアルのようだけど……ヴァレンウッドに何をしに来たの?」
  「ヴァレンウッド?」
  やはり記憶がないらしい。
  聞き慣れない単語だ。
  どこまで知っているのか、どこまで忘れているのか、皆目自分でも見当がつかない。
  「タムリエルにある地方の一つですよ」
  酒場に入って来た男が、そう言った。
  色白のブレトンだ。
  ……。
  そういう知識はあるらしい。
  厄介な記憶喪失だ。
  「北に行けば帝国の中枢であり大陸の中心部シロディールがあります。東に行けばロスガリアン。西にはサマーセット島があります。
  船での移動が必要不可欠になりますけどね」
  「そ、そうか」
  聞き慣れない単語ばかり。
  記憶喪失なんだなと改めて認識する。
  アイリーンはよく男を見知っているようだ。笑顔を浮かべて応対する。
  「いらっしゃいアイスマンさん。今日もワインとサンドイッチ?」
  「ええ。よろしくお願いします」
  物腰柔らかい態度。
  どこか優美さを感じていた。着ているものもどこか洒落ている。
  裕福なのだろう。
  「よせよせアイリーン。そんな奴に愛想使う事ないぜ。俺に使ってくれ、俺に」
  「いらっしゃいカイリアスさん」
  「笑顔ないのかよー」
  「ふふふ」
  次に入って来たのはダンマーだ。
  この男は黒一色の服装だ。それでも特注のように見える。金を掛けている感がした。
  ダンマーは私を見る。
  「何だこいつ?」
  「記憶喪失の旅人のようですよ」
  「てめぇには聞いてねぇよアイスマンっ!」
  「それは失礼。アルケイン大学の者は言葉遣いがなってないですね」
  「喧嘩売ってんのかお前はっ!」
  激しく叫ぶカイリアスという男と、対照的に冷静に受け流すアイスマン。
  仲が良くないのだろうか?
  「はい」
  コトン。
  私の前にサンドイッチの載った皿を置く。ワインも一杯。
  「頼んでない。金もない」
  「いいわ、別に。一度拾った以上、そのまま放り出すわけにも行かないでしょ?」
  「……私は拾得物か?」
  「あははははは」
  無邪気に笑う。
  年の頃は……二十歳前後か?
  ともかく好意に甘えよう。
  腹は、腹が減ったぞー……と泣いている。満たしてやられねば。
  パク。ムシャムシャ。
  ゴクゴク。
  うまい。
  どれだけ腹が減っていたかを思い知らされる。
  一心不乱に食べる。
  「あの人達ね、この村で雇った人達なの」
  「あの人達?」
  騒いでいる2人を見る。
  カイリアスとアイスマンの事か。雇った?
  「傭兵か?」
  「ううん。そうじゃないの。ここって農作物の出来が悪くてね、それでどうしたら農作物がうまく育つかをレクチャーしてもらう為に
  雇ったの。あとは、そうね、うまく育つように作物を改良して貰う為かな」
  「農作物のプロなのか?」
  「ううん。そうじゃないの。知識階級なの、2人とも。だから色々と詳しい」
  「ふぅん」
  カイリアスはそうは見えんけどな。
  アイリーンは続ける。
  「あのダンマーの人はアルケイン大学の……と言っても分からない?」
  「ああ」
  頷く。
  至極面倒な事だ。
  「アルケイン大学っていうのはシロディールでももっとも高い知識を誇る魔術師が集う場所なの。つまりはエリート」
  「アイスマンもか?」
  「ううん。アイスマンさんは違う。あの人は《至門院》の人だね」
  「至門院?」
  「サマーセット島にある知識探求の組織の出身。カイリアスさんは自分の方が真のインテリだって張り合ってるけど、アイスマンさん
  はまったく気にも止めていないみたいだけどね」
  「みたいだな」
  「ちなみに、カイリアスさんの正式の名前はカイリアス・ロネィヴォ。アイスマンさんはそのまま。あたしはアイリーン・クェス。よろしくね」
  「ああ。よろしく」
  よろしくと言ったものの、これからどうしたものか。
  お金はない。
  記憶もなければ、行き場所もない。
  さて、どうしたものか。
  「おい、そこの男っ!」
  「私か?」
  カイリアスは私を指差し、吼える。
  やかましい男だ。
  インテリ=物静かというのは、既に時代にそぐわない様だ。
  「おい、そこの男っ!」
  「何だ?」
  「俺のアイリーンに勝手に話し込んでんじゃねーよっ!」
  「俺の? 付き合ってるのか?」
  「ふふん。まあ、そんな感じだな」
  「妄想の中でですけどねぇ」
  物静かに答えのはアイスマン。
  その言葉にカチーンと来たのか、睨みつけるもののアイスマンは静かに流した。
  あの男、出来るな。
  「ところでアイリーンさん。私の注文したのはまだですか? ……もしかして彼が食しているのが私の分?」
  注文したのはサンドイッチとワイン。
  私が飲食してるのもそれともまったく同じメニュー。
  提供してくれたのはアイリーン。
  しかし、当然私は少し慌てる。
  「お、おい」
  「大丈夫大丈夫。アイスマンさんはお金たくさん持ってるから、奢ってくれるって」
  「……」
  そういう問題だろうか?
  まあ、いいか。
  半分以上食べてしまったし、どうしようもないのは確か。アイリーンの言葉を信じて食べるとするか。
  「いらっしゃい」
  「……ああ」
  「いらっしゃい」
  「嬢ちゃん。今日も昼食を食べに来たぞ」
  2人の客が入ってくる。
  2人ともボズマー。
  一緒に入って来たものの、友達という感じではなさそうだ。偶然来店する時間帯が被っただけか。
  最初のボズマーは若い。二十代前半だろう。
  次に入って来たボズマーは白髪の老人。
  アイリーンが耳打ちする。
  「あの無愛想なボズマーの青年はユニオ。最近流れて来た人。あのお爺ちゃんはオーレン卿。知ってる? というか覚えてる?」
  「オーレン卿?」
  有名なのだろうか?
  記憶喪失の私にしてみれば、知っているのか知らないのかすら分からない。
  「白馬将軍と呼ばれていたヴァレンウッドの名将。退役して楽隠居……してたはずなんだけどね。深緑旅団に故郷を潰されたん
  だって。オーレン卿だけが生き残った唯一の人。娘夫婦も殺されたみたい。可哀想ね」
  「そうだな」
  深緑旅団が何かは知らない。
  何かは知らないが、ここで聞くべき事柄ではないだろう。
  小声での話とはいえオーレン卿に聞えた場合、変に心の傷を抉る事になる。
  この話題はやめよう。
  「てめぇ俺のアイリーンと顔くっつけて何を喋ってやがんだっ! 距離を保て二メートル以内は近付くなっ!」
  「そりゃ店外でしょうに」
  「アイスマンは黙ってろっ!」
  「それにしても記憶喪失の君。名前がないのは呼び辛いですねぇ。不便でしょう、貴方?」
  「それほどでもないが」
  「名無しの男ではこちらは面倒ですよ。しばらく滞在するのでしょう?」
  「それは……」
  「もちろんよ。記憶喪失の人を放り出すのは忍びないもの」
  アイリーンは快活にそう答える。
  人情溢れる性格のようだ。
  面倒見が良い。
  「ありがとう」
  「いいわ。なかなか強そうだし、用心棒として置いてあげる」
  「ははは」
  強そう、か。
  実際のところはどうなんだろうな。全身傷だらけ。包帯を巻かれているものの、それで痛みが消えるわけではない。
  何故全身傷だらけ?
  アイスマンは続ける。
  「記憶が蘇るまでは暫定的な名前が必要ですね。呼称する手前、名前は必要ですから」
  「まあ、そうだな」
  「マラカティ、そう名乗ったらどうです?」
  「マラカティ?」
  「アイレイド語で運命という意味です。私達の出会いもまた運命、申し分ない名前でしょう。語呂も良いし」
  ……マラカティ……。