初めて香席を体験される方のご参考に!

香道薫風会へ
有吉玉青(著)
エッセイ集単行本『雛を包む』(平凡社)所収
25ans1996・5月号初出

香りを聞く女(ひと)

聞香

あたためると香る不思議な木がある。
香木というもので、お茶席の炭の上など
で焚かれて香る。いろいろな種類があっ
て、それをあてて遊ぶのが香道である。

伊東深水に「聞香」という、
香道の席でお香を聞いている
女たちを描いた美しい絵がある。

 お香を聞く−−−
お香は、その香りを嗅ぐのではなく、
「聞く」と言うのである。耳で聞くわけ
ではないのは言わずもがなだが、そのこ
とに集中して感覚を働かせて判断すると
き「聞く」と言うらしい。そういえば
「聞き酒」という言葉もあるが、
もしもし、どんな香りなのですかと尋ね
るところからきているともいう。あた
ためられて揺らぎ香るお香の息吹に心の
耳を傾けるということだろうか。素敵な
言葉である。お香を聞く女もまた。

聞香

その絵には、お香の入っている小さな
器を左手に置き、右手で蓋をして、親指
と人差し指の間から漏れ香る香りを少し
首をかしげて聞いている女がいる。その
楚々として、なんとも言えず品のあるこ
と。不思議な色気を感じさせる。
 絵で見てあこがれるばかりだったの
だが、あるとき誘われてお香会に
参加する機会を得た。
百聞は一見に如かず、ならぬ百見は
一聞に如かず、としゃれて出掛けた。

聞香

香元が、蒔絵のほどこされた美しい道具
でお点前をしてくださる。絵で見た通り
の小さな器は香炉とよばれるもので、中
には灰が山の形に盛ってあり、その頂に
埋められた炭の上に雲母でできた半透明
の薄い板をのせ、そこに香をくべては、
まわしてゆく。

聞香炉

お客は香元から反時計まわりに座ってい
て、だから香炉は左からまわってくる。
 お香には、それぞれ美しい名前がつけ
られていて、まずはじめ、試香といって
何種類かのお香が、その名前を明かされ
てまわってくる。それを聞いて、そのあ
と始まる本香といわれる本番では、この
試香の記憶をたよりに、まわってきたそ
のお香をあてるのである。ただし、本番
には試香でまわってこなかったお香が混
じっている可能性があり、ここにお香の
ゲーム性が高まるという仕掛け。

 さてそれでまわってきた試香だが、
さっきの香りも今度の香りも"いい香り"
である。花の香りのような華やかさこそ
ないものの、落ち着いて胸の深いところ
に沈みこむような味わいがある。
 あたたかく香ってくるのがまた心を和
ませる、というわけで違いがよくわから
ない。さすがにひと息めは、先の香りと
は違うような気がするのだが、ふた息め
には新しい香りになじみ、先の香りを忘
れているといった具合。それでもそれな
りにいちおう特徴をつかんだつもりでメ
モなどとっておくのだが、本香がまわっ
てくる頃には、メモはすっかり意味を失
っている。どんな言葉も、香りの記憶を
ひき出すには至らないのだ。どれも聞い
たことのある香りのようだし、初めての
もののようでもあり・・・。

聞香

 他の人々はどんなものだろうと、きょ
ろきょろとまわりを見ていたら、人が指
の間から香りを聞く様子の美しいこと、
絵で見る以上だ。目を軽く閉じ、すうう
と聞く。その間、微妙に眉が動き、まつ
げが震える。そうして吸った息を自分の
右側にほお、とこぼす、その所作がまた
よい。吐息から色気が香る。これを
三回。聞く回数は、三息が原則なのだ。
 見とれてばかりで、その日の私の成績
は、いくら初心者とはいえ惨澹たるもの
だった。恥ずかしがっていたら、「まあ
まあ、”遊び”なんですから」と慰めて
いただいたが、遊べるためにはもう少し
人と競えるほどの鼻がほしかった・・。
 後日、私は本屋で香道の入門書を手に
とった。どうして行く前に読まなかった
のだろう。「気楽に来て」と言われた
言葉を鵜呑みにしてしまったのだった。

さて入門書には、お香あての
ポイントが書いてあった。
ひとつひとつのお香についてイメージ
を持つといいということである。
「恋を知った日のあざやかな光」、
「子供のときに折った千代紙の色」とい
ったふうにイメージで記憶するらしい。
なるほで、それでわかった。
すううとお香を聞いているとき、人は
頭の中で想像をふくらませていたのだ。
自分の経験や記憶を手繰り寄せながら、
何かの像を結ぼうとしている。そして
これが心の耳を傾けるということなので
はないか。ひと息聞き、それをこぼして
もうひと息。そうするごとに像が確かな
ものになってゆく。それは楽しかろう。

香りを聞く女の、あのなんともいえず
清らかな色気は、その現実の場から
少し離れて想像の世界に遊んでいる。
そんなところから漂って
くるものなのかもしれない。

香

 ”遊び”の意味も、わかった気がした。
私は、あてようあてようと思って、楽し
む余裕がなく、遊びそびれてしまった。
その席では、ひたすらクンクンと香りを
嗅ぐに終始している、色気もそっけも
ない私の姿があったのに違いない。

 ところでこの聞香の図が見られるのは
香席に限らない。デパートの一階にも、
そんな色気のある女たちがいる。
 香水売り場である。
見ていると、サンプルの香水を手首の
脈のところに吹きかけて、手首を鼻先に
近づけたまま、どこか近くに焦点を結ん
で目を動かさない。しばらくして、まば
たき。今度は別の香水のお試しシートを
鼻に近づけて、伏し目がちにひと息。
香りを聞いているのだ。
想像しているのは女の姿だろう。
香水が連想させる女のイメージが自分の
イメージ、あるいはなりたい女のイメー
ジにあったとき、その香水に決まる。
そしてその香水をまとうとき、
香りを聞く女は、
香る女、香りを聞かせる女になる。
自分の香りで、今度は人を想像の
世界へといざなうのだ。
その女が通ったとき、いい香りが
漂えば、ぼんやりと、ああ、
きれいな女かなあ、と思うだろう。

 芳香は、人を幻惑させる効果もある。
まるで媚薬のように。
姑息なものだが思えばこれ、
古より女がやっていたことではある。

香

衣に香を薫きしめたる御簾の中。
昔の閨は暗かったから、香りがすべて。
ああ香りはロマンスを、時に不可思議な
ロマンスを生んだはずなのである。

*本会のホームページに転載する事を、
お許し戴いた有吉玉青氏のご厚意に、
深く感謝申し上げます。