今日の占い


今日の占い



きまぐれ睡龍・筆


 朝の6時台や7時台のテレビを見ていると、毎日、「今日の占い」と称して血液型やら星座やらでその日の運勢を占い、良い日だとか悪い日だとか言っているのを目にする。それだけ世間に占いの好きな人が多いからテレビで流行るのか、テレビからの占いの影響で占い好きな人が多くなるのか、どちらなのかはよく分からない。いずれにしても、小鳥がせっせと木の実を集めて秘密の場所に隠しておくのは未来への不安がそうさせているのと同様、人間も未来への備えとして少しでも何かを得て安心したいという意識が働く、その手段として占いがあり、自然発生的に発達・定着するものなのだろう。それは理解できなくもないし、占いの人気が高く、産業として成り立っていることは言うまでもない。

 2011年3月11日の14時46分、東北地方を中心とする未曾有の大地震が発生、津波によって人が流され、建物が流され、木々が、車が、電車が流されていった。各テレビ局は一斉に災害状況を採りあげる番組を放送し始め、それからしばらくの間、バラエティー系の番組やドラマ、ドキュメンタリー、音楽、アニメと、ニュース以外の番組は放送延期、CMも営利宣伝目的のものは一掃されて、ACジャパンのCM一色となった。それは当然のことではあるが、もうひとつ当然のこととして、各局の朝の番組から「今日の占い」のコーナーも消えたのだった。

 しかし、いつまでも震災の情報ばかりでもなく、数日、数週間と過ぎていく間にだんだん普通の番組が復活、CMも少しずつ元に戻り、テレビ画面上は自粛ムードも減少していき、震災から1ヶ月を経過した今となっては、ほぼ震災前と変わらないくらいにまで正常化した。それもやはり当然の展開ではあるのだが、そこにいつの間にか、「今日の占い」も再起を果たしたらしく、毎朝の番組中に定位置をとり戻した。占いが未来に対する保険として不安を埋める必然の手段であるとしても、私にはこの復活が不思議な光景に思われる。

 あの日、おそらく世界の最新鋭にして最高性能であろう日本の地震予知機能がはたらく間もなく、大変な大地震が起きた。亡くなった人たち、行方不明になった人たち、生き残りながらも家族や友人や家屋・財産・仕事を失った人たち、あるいは原子力発電所の事故によって現地周辺で放射能漏れにおびえる日々を送る人たち、と、夥しい数の人たちを出したのである。そしてあの日の朝も、テレビでは「占い」によって「○○な人は運勢の良い日!」との発表をしていた。


――果たして、被害に遭った人たちはみんな、同じ血液型、同じ星座の“運勢の悪い人”だったというのだろうか?

 そんな訳はない。運勢の良い日だった人たちもずいぶんたくさん含まれていたはずである。そして1ヶ月を経過する今になっても、依然として家族が見つからず、食べ物に不自由し、住む場所が見つからず、仕事が得られず、今後の見通しが暗い…、という状態が続いているのである。なぜそんなさなかにも、占いがその日の運勢を良いの悪いのとテレビで言っているのか、私には分からないのである。それが死者を悼み、被災者を癒やすなんの糧にもならないように思うし、それ以外の人たちに向けて発信しているとしても、亡くなった人たちや被災した人たちにくらべれば、おおかたの人は日々幸福だろう。

 「今日の運勢!」という言葉のすべてが当てにもならない軽口に聞こえるのは、私の占いに対する過小評価なのか…、とも考えてみるが、どうもそのような気がして来ない。実際、占いは一膳の銀シャリさえも被災者の手元に届けていないのではないか。苦痛や苦悩にあえいでいる人たちに対して「今日は運勢がいいですよ」、「ラッキーカラーは○○ですよ」などと言ってみたところで虚しい限りではないのだろうか。被災者だけではない。運勢のいい今日の私が同じ苦境の中に放り込まれない確証を本当に与えてくれる訳ではあるまい。

 小鳥が集めた木の実の一粒と、朝のテレビに見る今日の占い。未来への保険としては、占いは小鳥の一粒にとうてい及ばない「当てにならないもの」のようにしか思えない。それはもしかしたら、ほとんどの人たちが共通して思っていることなのかも知れないが、それでもなお占いにささやかな心の支えを求めたい、毎日のように辛い日々を送っている人たちの映像と並んで「運勢がいいですよ」と言っているアンバランスな光景も、少なからぬ人たちにとっては必要かつ違和感のないものなのだろうか…?

 被災者たちも今日の運勢を見て元気づけられているのか。いや、たぶん多くの人たちにとっては“一粒の木の実”の方がはるかに大事なのではないか。ひもじさを埋めるのも家族や友人を失った悲しみを埋めるのも、やはり占いではあるまい。まずは一粒の実を得ること、そしてたくさんの実をいずれ実らせる樹々を少しずつ植えていくことなのだ。私たちに出来ることややるべきことはそのお手伝いであって、誰かの今日の運勢を占ってあげることではない。

 …とはいえ、私がいかに占いの当てのなさに虚しさを感じようとも、占い産業が隆盛すれば、その税金収入がゆくゆくは復興の一部として活かされていく面もあるのだろう。それも現実なのだ。だからと言って、占い師に感謝しようとは思わないが。


(2011年4月10日・記)




             
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