タマゴサンドひとつ


タマゴサンドひとつ



きまぐれ睡龍・筆


 ある休日の昼時、軽食を摂ろうと思い都内の某喫茶店に入った。赤レンガ張りの内装の壁に、「太陽がいっぱい」「風と共に去りぬ」「時計じかけのオレンジ」などの、名作映画の1シーンを切り取ったモノクロ写真を額装にして掲げたりしている、なかなかの味わいを醸している感じのいい店だ。そうした装飾品に目を遣りながらしばしメニューに目を通し、品物を決めてウエイトレスを呼んだ。20歳そこそこくらいだろうか、なかなか見目麗しきスレンダーなウエイトレスが注文を取りに来た。

 「ご注文はお決まりでしょうか」。「決まったから呼んだんです」と言ったらどんな顔をするだろうかなどと、どうでもいい事を考えつつ答えた。「タマゴサンドひとつ、お願いします」…、とまあ、ここまではどうという事のない普通のやりとりだったのだが、この後の会話が首をかしげたくなるものだった。

 メモを取りながら「タマゴサンドをおひとつ、以上でよろしいですか」、「以上です」。「ご注文を繰り返します。タマゴサンドをおひとつ、以上でよろしいですか」、「…え?」、一瞬耳を疑う言葉だった。注文に間違いが生じないための保険として、再度の確認をするように店から教育を受けたのだろうことは想像がつく。しかし、マニュアルに忠実なのにも程があるだろう。いくら何でも、一品の注文に対して、メモを取った上に「ご注文を繰り返す」のはまったく時間の無駄だ。まだ入って間もない新人だったのかも知れないが、そのウエイトレスは自分が発した言葉に何ら違和感を抱いていない様子だった。「それは時間の無駄でしょう」と言おうかと思ったが、「以上です」と答えておいた。ウエイトレスはそそくさと下がっていき、数分後、見事にタマゴサンドが間違うことなく運ばれて来た。間違えるわけもないが。

 その時私は、学生時代、すなわち20数年前にある喫茶店で見たウエイトレスの事を思い出していた。20代前半くらいだったと思うが、この人がなかなかのすご腕を見せたのだ。学生5人ほどでその喫茶店に入り、12品くらいだったかコーヒーやらトーストやらをパッパと注文したのだが、そのウエイトレスはメモ書き無し、1回聞いただけで、ご注文を繰り返すこともなくさっさと厨房へ去っていき、すべて注文通りの品を運んで来たのだ。言葉づかいは簡潔、配膳も素早く無駄なしという、惚れてしまいそうな手際の良さだった。

 タマゴサンドのお嬢とこのウエイトレスとの落差…! しかし、これは単にこの2人の個人能力の差ばかりではなかったようにも思う。この20数年の年月は、喫茶店ばかりでなく世間の各所に委縮の体質を染み込ませたのではないか。少々のミスでも責任を問われて怒鳴り込まれたり、時には裁判沙汰にまでなったり、有識者階級の人々がやたらと記者会見で頭を下げる姿、学校教師が保護者や教育委員会に過剰なほどおびえる姿、産婦人科医を目指す医学生の減少など、個人の自由や権利意識が向上するにつれて責任追及の刃が鋭くなり、やり玉に挙がりやすい職業の人気が下がったり、あるいは接客に問題が発生することを必要以上に避けようとする…。昔は少しぐらいのことは許すおおらかさがあったように思うのだが、今はどうなのか。喫茶店でのご注文繰り返しは私が立ち寄った店だけの傾向ではない。トラブルを避けるための保険としての繰り返し、それは世間全体の委縮と連動しているもののように感じられたのだが、私の感じ方が少々大袈裟だったのだろうか。

 タマゴサンドの繰り返しは笑い話だが、繰り返しの手間と時間を客に強いることは客のためなのか店のためなのか。どうも私には店の都合優先、プロ意識の欠如のように見えてしまうのだが、厳しく見過ぎだろうか。20数年前のウエイトレスの素早さが本来のプロの姿だったように思っている私は、至れり尽くせり、念には念を、という接客に鬱陶しさを感じることがたまにある。そう言いつつも、私自身、自分がたずさわる仕事で知らずしらずのうちに委縮してしまっている所があるのかも知れないが。



(2010年7月・記)




             
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