H氏への手紙


H氏への手紙


〈宗教に関する小論〉


きまぐれ睡龍・筆


以下の文は、友人のH氏からある宗教関係の書物の内容について
見解を求められた際に送った手紙を、論文調に仕立て直したものです。


 中世ヨーロッパのキリスト教支配の時代には、古生代の生物たちの化石の正体が、「神が生き物の製作に失敗して捨てたものだ」とか、大型両生類の骨格化石が「ノアの洪水で死んだ人の骨だ」などと宗教家たちによってきめつけられていたというが、それらは科学の発達に押しやられて遠い昔の笑い話になり、近現代においては、宗教は科学のフィルターを通して分析する対象となっている。しかし、科学はあくまで物理的な分析手段であって、宗教が古来より抱える精神的な不安定と自己矛盾は、いまだに科学の手には負えない問題点として、人間の心身にのしかかったままのようである。

 猿人だった頃の人間は他の動物たちと同様、食料の確保、ねぐらの確保、そして子づくりという三目的に精を出すことで生涯をまっとうし、そこに疑問などなかった。それが、思考力の発達のなかで徐々に自分と世界との関わりや命の有限性を意識しはじめ、「生と死とは何ぞや、運命とは何ぞや、この世界は何ぞや」と、あれこれ目的や理由を考えるようになったのだろう。そして、そうした疑問に多くの人は自力で答えを見つけられず、それでも答えを欲しがる人たちに何かしらの解答や指標をもたらすために宗教が必然的に発生したと、恐らくそういうことだろうと思う。

 目的や理由、そして世界や自分の行く末を知りたいと欲した場合、そこに納得のいく何らかの解答を自力で見つけ出せるのは、おおむね芸術家や哲学者などのような思考力を持つ人たちで、それ以外の人たちには、救いの神という「人物的イメージ」を与え、ただ神のお導きを信じて祈り贖罪すべしという紋切り型の説法をあてがったり、形式的な儀礼をひたすら反復させることになる。ゆえに、往々にして偶像崇拝に堕し、そこに教祖個人への狂信的崇拝を生じせしめたり、どこかの壁に浸み出たシミの形がイエスの姿に似ているといって信者がおおぜい参拝に押し寄せるような奇怪な現象も起こる。人物的イメージが多くの人にとって最も取っつき易いからそれが利用される、それだけに壁のシミや詐欺まがいの指導者が神に取ってかわってしまうという危うさを孕むことになる。

 宗教は、一面においては怠け者的な依存体質による産物であるとも言えよう。大自然の摂理を知るため、あるいは我が身の安逸を得たいために安直に人物的イメージへの平伏と形式的儀礼の反復とに依存するのはそのひとつの現象であり、占い好きな人が占い師の発言に依存して自力で未来をさぐる努力をしないとか、幽霊や祟りが怖いという人が霊媒師のうなり声をありがたがって自力で対処する努力をしないとか、そういうことと本質的には変わらないのではないか。

 地域・時代・人種を問わず人間のいるすべてのところには必ず宗教が発生している、それは、人間が寝るすべてのところには必ず屋根と枕が発生しているのと同じだと思う。知能が不安定に発達してしまっている人間にとって、不安定を補う支柱となる宗教が必要なのであり、哲学では一般の人に分かりにくいからもっとくだけた内容のものとして宗教が重宝されるのだろう(哲学よりも宗教が低い位置にあるという意味ではない)。科学は一面的な勝利者として多くの迷信を駆逐し、今後もそれを続けていくのだろうが、宗教や哲学が抱える命題に対しては無力な側面もつねにあわせ持っており、宗教に依存しなければならない人間の頭脳の不安定さを、今まで分析はできても駆逐できてはいない。

 宗教はいわば道具で、教祖は職人である。包丁という道具が、使い方によって芸術的な料理を生み出したり人を刺し殺したりするのと同様に、宗教も教祖しだいで人を生かしたり殺したりする。神は道具ではないが、人が思い描く人物的イメージとしての神は道具であり、ゆえに悪用や誤った使用の危険をともない、時には教祖みずからが神の権威を乗っ取ってしまう。それに、一般に使われている「宗教を信仰する」という言い方は、本質からズレた言葉だと思う。宗教や教祖を用いて、その先にあるものを探し求めていくことが信仰なのではないか、イエスや釈迦という個人を崇拝するのではなく、本来の目的地はそうした偉人の残像や物理的時空を乗り超えた彼方にあるのではないか、と。


 宗教の社会的本質は愛と感謝であろう。そして、愛と感謝の根底にあるのは生物としての利害である。自分の生存と死に物理的・精神的利益をもたらしてくれる相手が大切なのであり、そうした者どうしで集まって互いを守り合い、いたわり合うということ。それは多くの哺乳類にも見られる連帯である。そしてまたその最も根幹にあるのは、自己愛にもとづく親子間での愛情である。子が親に対して抱く愛や感謝は、そのまま人間の大自然の恵みに対する愛や感謝へと転化し、父なる太陽に、母なる大地に、森や生き物に、水や風にと、命の恵みをもたらしてくれる雄大な存在に感謝する原始宗教の、発生の土台になったのだろう。

 同じ原猿類から進化した人間と他の類人猿(ボノボやオランウータンなど)との間で、種の連帯が大自然への愛と感謝にまで転化した我々としなかった彼らとの違いを発生させたものは何だったのか、そこまでは推定できない。単なる物理的な進化の差だと言ってしまえば簡単だが…。信仰をもった我々と持たなかった彼らには大きな差があるとも言えるが、しかし根底にあるのが生物的利害である点は同じである。

 宗教に傾倒する人の多くは、宗教の根底にあるのが俗な生物的利害であるとはあまり認めたがらず、宗教を崇高な精神論へと美化しようとするが、もし宗教家が生物的利害から本当に脱却しようとするなら、あらゆる我田引水、つまり血縁・地縁などへの個人的な利益供与を排除して、この世のすべての人に対して厳格に対等なスタンスに立たなければならない。仏教における出家などはそれに該当する一つの形だろう。そして、イエスは恐らくそうしたスタンスを実行したのだろう。ゆえに、贔屓的な利益供与を欲する無理解な血族や地元民や政治的支配者との間に摩擦を生じ、迫害を受けたのではなかったか。そしてその延長線上には死が待っていた…。

 つまるところ、そもそも宗教が自己愛と親子愛という血縁としての生物的利害から発生しているにもかかわらず、それが人類愛や世界平和という純粋普遍の博愛にまで昇華するためには、あらゆる血縁・地縁からの脱却を余儀なくせられ、それが場合によっては死を招くという矛盾を到達点にしなければならない。能力の秀でた伝道者ほどそういう目にあう可能性が高まる、それが宗教の逃れられない宿命的な姿だろうと思う。文明世界と無関係な奥地で自然からの恵みだけを受けながらほそぼそと感謝の暮らしを続ける少人数の民族ならば、彼らの宗教が血縁・地縁から人類愛や世界平和へと脱却しなければならない苦しみを経験しなくて済むのかも知れないが、贅沢な物欲に浸りきり、少ない資源を奪い合う大所帯・多文化のグローバル世界ではそうはいかず、宗教はしばしば不理解と侮蔑をともなった泥まみれの戦いになる。

 戦時中の日本で、ファシズムの傲慢な膨張に対して仏教者やキリスト信徒たちがほぼ無力だったのは、さまざまな生物的利害によって利益供与に束縛されざるを得なかったからだろうと思われる。敢えてそれを乗り越えようとする人がいたとしたら、世間からも親族からも理解や擁護を受けられないまま、場合によっては小林多喜二のような凄惨な結末をも覚悟しなければならなかっただろう。

 宗教を信奉する人はしばしばイエスや釈迦のような人物の再誕を望むようだが、もしイエスや釈迦と同じ資質と能力と絶大な影響力を持つ人物が現代に現れたら、ほぼ確実に殺されるのではないか。もしかしたら、それは再誕を望んでいた人たちが手を染めることになるのかも知れないと。そしてそれを突き動かすのは、その人たち個々の中にある我田引水の利害だということだ。宗教がらみの戦争なども多くは根底にそれがあるのではないか。聖戦という美名を掲げてはいても、根底を支配しているのは個々の人たちの生物的利害であり、その集大成的な欺瞞を覆い隠す旗印として聖戦という名が煽動的に使われてしまう。動物どうしの縄張り争いと本質的には同じで、人間と他の類人猿たちの間にさしたる差はない。むしろ、動物たちの縄張り争いや殺し合いは、欺瞞がないだけ率直で無垢だろう。

 清らかさは人間世界の理想像だが、「水清ければ魚棲まず」という現実から宗教は脱却できない。人類愛や世界平和を高々と掲げてみても、それをいかなる方法によって実現するのか。教祖や教団が世界の政治的な支配力を手に入れて禁欲生活を人類に啓蒙もしくは強制するのか。そうするのが目的だ、と断言する宗教指導者はほとんどいないだろうが、そう断言しないところに恐らく宗教家の欺瞞もしくは自己認識の甘さが感じられる。多くの宗教信徒が今後も信仰を人物的イメージの神仏に安直に依存し続けるとすれば、同様に世間一般の人たちも思考不足や怠け体質で物欲文化に安直に依存し続けるわけで、双方ともに、無智と野放図を厳しい戒律や儀礼の中にがんじがらめに統制していかなければならなくなる。しかし、清い水が多くの魚にとって毒になってしまうのと同様、清い宗教も多くの人にとっては毒になる。これは、人が生物であるかぎり越えられない壁である。組織活動としての宗教はこの限界を超越できない。強引にこれを越えていこうとすれば、異分子や反対勢力の抹殺という極端な最終結論にまでつながりかねない。実際、世界の宗教史にはそうした悲劇も数々見られる。


 宗教は美の指標である。しかしそれは、可憐に咲く蓮のように泥の中から浮かびあがっているからこその美の主張であって、大多数の凡才たちの中にこそ秀でる大芸術家のように、あるいは闇の深淵の中にこそ輝く銀河のように、光のみに満ちた世界の住人にはなり得ないものなのだろう。宗教でも政治でも、生物的利害を超越して美を主張することは、個人という時空間においてのみ純粋に可能なのである。組織によってはなし得ず、しかもそれを永久不変に持続できるものではない。必ずそこには多くの人の利己的・恣意的な曲解や改竄という不純物が混入して、時を経て教義も組織も変質し、時には低劣化・凶悪化していく。

 イエスや釈迦が発した美の主張が、その後の組織的伝達のなかでまったく曲解や改竄なしに現代まで継承されるのは不可能だった。我々には、「たぶんイエスや釈迦はこう考え、こう説いたのではなかったか」と、経典の文面や伝承・口碑から、彼らが示した美の姿を類推することが精一杯なのである。そうした類推材料を保存・提供してくれる宗教家たちの血のにじむ組織活動には感謝すべきだろうが、その翻訳・注釈・論述などには、それを執筆・編纂する人たちの曲解や改竄が介入する隙がつねにある、ということだ。どこまでが信用できてどこからが信用できないのか、その見極めを自力でするのか誰かの判断に依存するのか、そうした曖昧さにも宗教の限界や不安定さが感じられる。

 いずれにしても、個人が他者に向けて美の主張を試みた瞬間から、その理念は周囲からのさまざまな生物的利害にもとづく価値判断にさらされて、旨味があると判断されれば受け入れられ、ないと判断されれば排斥され孤立する。これは宗教に限らず、職場での人間関係、友人たちとの付き合い、自治体活動の中など、身近な日常の中にもひっきりなしに存在しているのである。もし美の主張を力説するあまり、最低限の社会生活からまで追い出されそうになった時にはどうするのか。はからずも妥協と欺瞞と作り笑顔で自身を糊塗するか、ひたすら無口な人に変身しなければならなくなり、「それでも地球は回っている」的なつぶやきをこっそりと洩らしながら敗北ギリギリのひそかな戦いに人生を終えていく。もしくはイエスのように血縁・地縁を自身から切り離して、処刑台が待っているかも知れない覚悟をもちながらあらゆる不条理な排斥に対して声高に美の主張を押し通していく。このどちらかが、布教活動に携わるすべての宗教家にとって避けられない究極の選択肢なのではないかと思う。


(2009年11月 記)




             
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