ある少年の修学旅行記


ある少年の修学旅行記



きまぐれ睡龍・筆


 中学3年の修学旅行の頃、その前だったか後だったかは憶えていないが、母が「この記事をどう思う?」と言って、私に某新聞の読者投稿欄を見せた。いくつか読者の投稿文が載っている中で母が指差したひとつには、次のようなことが書いてあった。

 「○○へ修学旅行に行った。出掛ける前に親戚の人から餞別をもらい、親からも小遣いをもらっていたのだが、いざ、現地でみんなへのお土産を買おうと思ったら、お金を持ってくるのを忘れてしまったことに気づいた。どうしようかと友達と話していた時、たまたまそばにいてそれを聞いていた人が、“これでお土産を買いなさい”と言ってお金をくれたのだ。名前と住所を聞こうとしたら、その人は首を振って立ち去ってしまった。私はとても嬉しかったが、こんな親切を自分ひとりだけのものにしてはいけないと思い、お金は使わずに持ち帰り、△△に全額、寄付した」

という、中学生か高校生が書いた美談だった。新聞社がどういう読後感を読者たちに期待したのかは分からないが、理論好きな母のことだから、私に普通の答えを求めてはいないのだろうと思いつつ考えた。その時すぐに解答が出せたのかどうか、また解答を母に話して議論や答え合わせなどをしたのかどうかは、記憶が定かでなくなってしまったが、そのお金で土産を買うべきだったというのが私の結論だった。

 まず、親や親戚はその少年がお土産やその他、現地で使う事を目的としてお金をくれたということ、現地でお金をくれた人もお土産代としてお金をくれたということ、そしてお金を持って行くのを忘れたのは少年の個人的なミスだったということを踏まえなければならない。使わないまま単に寄付をしてしまっては、お金をくれた人たちの意思をひとつも実行できておらず、そして、自分のミスだったのに自分にはこれといったペナルティも発生しない。「現地でもらったお金で土産を買う、そして帰ってから餞別と小遣いを親たちに返して、貯金などの自腹で寄付をする」、そうすれば家族や親戚には土産を買えたし、お金をくれた人の志にも沿うことができ、自分のミスを自腹であがない、親切を自分だけのものにもせずに済んだのではないか、と思ったのだ。

 親も親戚も、旅先でお金をくれた人も、少年がそのまま寄付をしたからとて、たぶん怒りはしないだろう。むしろ、よくやったと褒めるのかも知れない。物理的にも精神的にも、関係者たちは誰も損をしたとは思わないケースだろうから。しかし、果たしてそれで万事よかったのかと疑問符をつける余地はある。少し意地悪くいえば、自分だけがほとんどリスク無しに、寄付をし、投稿をして「イイ顔をした」と言えなくもない。少年は無垢な気持ちで寄付をしたのかも知れないが、取りようによっては欺瞞にも取れてしまうのだ。寄付をするのはいい。しかし、少年の行動にはいくつか詰めの甘さがあったのではないか?

 母は私にその記事を読ませ、善行の裏に隠れてしまいやすいそうした矛盾点について考えさせたかったのだろう。母亡き今となっては確かめようがないが、この記事を読んで見習えとか感動しろとかいう意図でなかったことは確かだ。母は投稿にいたるまでの少年の行動と心の動きを、善行ではなく浅薄で幼稚な自己顕示欲ととらえたのかも知れない。

 たぶん多くの人は、少年の行動を微笑ましいものととらえるのではないかと思うが、情緒に流されずに冷徹で理論的な観察眼をもって矛盾点を見抜く人も世間のあちこちにいるだろう。誰しもヘタな発言や行動をすれば、それがよかれと思ってした事であっても、どこかの誰かに「欺瞞」「浅薄」「幼稚」などと批評され、自力ではそれに気づけないまま、それを指摘してくれる人がいないまま、長年にわたって自己陶酔に浸り続けてしまいかねない。どこで誰に自分の思慮不足を見透かされているか分からない、という怖さに、誰もが常にさらされている。世間のほとんどの人が正しいと思うことでさえも、そこに矛盾や浅薄さが存在しないという保証はない。


(2011年2月・記)




             
前頁へ戻る