人面装飾付土器(人面把手)
人面装飾付土器の破片
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この土器片は、東京都羽村市の羽東(はねひがし)3丁目に住む私の親類が、同地に所有していた畑地から畑仕事の最中に掘り出したものである。多摩川沿いの段丘上に位置する場所であり、縄文時代中期(約5000〜4000年前)のものとみられる。縦90×横88ミリ、顔面部分だけなら縦64ミリほどである。1980年代の前半ごろに出土して私の父が譲り受けたのだが、同一品の残欠はこれのみであったという。盛り上がるような立体感で成型されており、複雑な文様は刺青をほどこした顔のようにも見える。顔の右側にある輪は耳飾りだろうか。一見、猿のようでもあり、必ずしも人間の顔であるとは言えないかも知れないが、縄文中期の人面装飾付土器や土偶の多くは、人の姿をかたどった女性信仰の色合いが濃いため、おそらくこれも女性の顔を表現していると思われる。一般的にはあっさりした単純な顔つきのものが多いのだが、この土器はむしろ目鼻立ちが大きく、際立った造形になっている。縄文土器の装飾は芸術的な意匠としても注目され、岡本太郎をはじめ芸術家や文化人が称賛したことはよく知られている。
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(横からの写真。右は同じ畑から出土した土器片)
こうした人面装飾の多くは、深鉢などの壺の縁や胴部につけられていた。古くから人面把手(とって)や顔面把手と呼ばれていたが、実際は把手としての機能よりも宗教儀礼に用いるための装飾であったとみられている。この土器のようにバラバラ状態の一部として見つかることが多い。土偶も壊れた状態で発掘されるものが多く、完全体で見つかる例がとても少ないことから、病人の病根を土偶に乗り移らせて破壊した「身代わり説」など、宗教的な意図でわざと破壊された可能性が指摘されている。人面装飾付土器にも同様の可能性が考えられるという。異論も提唱されて賛否が分かれているものの、故意破壊説の方がおおむね根強い傾向にあるようだ。
武蔵野台地の南部を流れる多摩川の沿岸には多数の縄文遺跡が連なるように点在しているが、その多くが縄文中期のもので、そのうち羽村市の羽東2〜3丁目には山根坂上遺跡や羽ヶ田上(はけたうえ)遺跡が分布している。双方とも多摩川に並行する河岸段丘の上にあり、下流に隣接する福生市の長沢遺跡とともに縄文中期(勝坂〔かっさか〕式期〜加曾利E式期)の大きな集落が形成されていた。ここに掲載した土器の産出地にほど近い山根坂上遺跡からは、中央部に弧状の配石を擁する遺構などが見つかっていて、祭祀に関係が深いとされる釣手土器も複数出土していることから、祭祀性の強かった集落の遺跡とみられている。この人面土器もおそらくその時代に属するもので、宗教儀礼に用いられていた壺の残欠ではないだろうか。 (2017年7月16日・記)