お年寄りに席を譲りましょう


お年寄りに席を譲りましょう



きまぐれ睡龍・筆


 「電車やバスの中で、お年寄りに席を譲りましょう」という言葉を、かつてはよく耳にした。江戸〜明治・大正期には、60歳以上まで生きる人は少なく、昭和に入ってから戦後に至っても、人生50年と言われる時代があったと聞く。そうした中で、80歳まで生きる人は稀であり、今のように地域から地域へと人の移動が多い時代と違い、地元で生まれ地元で生きていく人たちが多かった時代にあっては、お年寄りは地元の生き字引として尊敬される存在でもあった。「お年寄りを大切にする」という考えの背景には、ひとつの理由としてこうした「稀少で物知りなお年寄り」という価値観があったのだろう。それが、お年寄りに席を譲ろうと謳われる背景のひとつにもなっていたように思う。

 しかし今となっては、「席を譲りましょう」という言葉はあまり聞かれなくなりつつある。80〜85歳まで生きる人が稀少ではなくなり、人が同一地域に留まらず、ネットをはじめとして情報網が豊富になったことで老人がかつて持っていた「生き字引」としての地位も薄らぎ、医療費不足にもあえぎ始めている現在の日本で、「お年寄りを大切にしましょう」という意識は低下するのが必然の流れと言えるのだろう。出生率低下の続く中、若手・中堅世代の経済力で高齢者たちの生活を支えにくくなってきている。電車やバスの中に老齢者が多くを占めるようになれば、席を譲るという親切を受ける社会通念は変わらざるを得ないのかも知れない。

 一部のお年寄りたちが、病院や町の医院をサロン代わりにしてたむろしてしまい、不必要に医療費を食いつぶしている、といった批判が陰で交わされている実情もあるなど、いろいろな面で反感を買ってしまっている側面もある。お年寄りが不利な弱者とされていた時代から、むしろ今や、若手・中堅世代の方が不利な立場に立たされつつあるように見受けられ、老老介護さえも一般的な風潮として世に定着して来ている状況下で、「お年寄りに席を譲りましょう」は、そのうち死語同然になってしまうのかも知れない。

 一方で、若手・中堅世代の人たち自身がこれから老齢に達したときにはどうするのか。駅やデパートなどのエスカレーター、地下道にある動く歩道など、若い世代の人たちが階段や普通の通路を使わずに機械に頼りきっている姿は非常に多い。今からそのように足腰を甘やかして、年を取ってから、弱った体を誰に養ってもらうつもりなのかと首をかしげたくなることがある。20年後や30年後の公共の場で、席を譲るという親切に依存できるとは思わない方がいいのではないか。悠々自適の老後などは、裕福な環境にある老人のみの贅沢になってしまうかも知れないのだから。

――――

 昔、こんなことがあった。電車通学だった高校生のころ、今から二十数年前だが、私は2度ばかり、電車内でお年寄りに席を譲ったことがあったのだが、2度とも、何やら違和感を感じたのだった。それは、周囲の視線が気恥ずかしいとかいうものではなく、若干、良くない事をしたかのような、後ろめたい違和感だったのだ。1度目にそれを感じ、気のせいかなと思っていたのだが、2度目も同様だった。その違和感の正体が何なのか分からないままに、しばらく月日が過ぎていった。

 そしてある日、山手線に乗っている時だったが、私は出入り口のドアの脇に凭れながら外の景色を眺めていた。車内に空席はなく、つり革につかまって立っている人がまばらにいるという程度の混み具合。私のすぐ前の席には、30歳代の後半かと思われる主婦とおぼしき女性が座り、そのまん前に、20代後半くらいかと思われる営業マン風の男性が、両手でつり革につかまりながら、やや凭れかかる感じで猫背に立っていた。それ自体はべつに変わった光景ではなく、特に私の眼中には入っていなかった。

 

 ところが、ある駅に止まった時、そこに70代後半くらいという感じの男性がひとり、ひょこっと乗ってきた。それを見た主婦がすかさず、その老人に声をかけた。「よろしければ、座りませんか?」。腰を半分浮かせてみせる主婦に、老人はニッコリしながら近づき、「ありがとうございます」と答えた。主婦が立ち上がり、老人が慇懃に頭を下げながらそこに座るという光景を、私は何気なくボンヤリと眺めていたのだが、ふたりが席に入れ替わる最中のほんの一瞬、主婦のまん前に立っていた営業マン風の男性が、苦痛と言ってもいいような表情を浮かべたのだ。私はハッとした。「あの男性、もしかして体調が悪いのでは?」

 男性の顔はすぐ平静に戻ったのだが、私はそれ以前、2度ほどお年寄りに席を譲ったときに感じた違和感の正体を、目の前の光景に見たような気がしたのだった。このころはまだ、「お年寄りに席を譲りましょう」という言葉が社会通念のように語られていた時代であった。席を譲るという行為自体に、私はそれまで疑問を感じたことはなかったのだが、山手線での光景は、初めて私の心にひとつの疑問を生じさせた。「あの男性は病気かケガを?」。そういえば、両手でつり革につかまり、少し凭れぎみにしている姿は、それっぽい印象ではある。もしそうだとすると、主婦と老人の行動は、適切なものだったと言えるのだろうか。私は帰宅してから、いろいろと考えた。

 電車などの中で席を譲られるべきなのは、お年寄りばかりではない。障害を抱えている人、妊婦、その他たまたま病気やケガをしている人もその範囲に入るだろう。しかし、席を譲るという行為は、おそらくほとんどの場合、「見た目の判断」によって行われている。そうなると問題が出てくる。障害を抱えている人やその他の病気やケガをしている人などは特にそうだが、どうやって見た目で判断するのか。見た目が健康そうでもハンデを持っている人など、世の中にはたくさんいる。逆に、見た目に反して元気なお年寄りも少なくはあるまい。見た目の判断で席を譲っていくと、譲る相手は、大方お年寄りにばかりかたよっていくのではないか。そうした公平さに欠ける行為が、適切だと言えるのだろうか。

 主婦と老人は、男性が見せた一瞬の表情にはまったく気づかず、自分たちがとった行動に疑念を感じてはいなかった。間違いなく、この時のふたりには、男性の存在が眼中になかった。病気であろうと何であろうと、まったく無視された形だ。老人は主婦に対しては慇懃に礼を述べたが、男性に対しては会釈のひとつもしなかったし、主婦も男性に対しては一瞥もしなかった。別に、主婦のまん前に立っているからといって、主婦のつぎにその席に座る権利が男性にあったわけではないだろうが、何かしらしっくり来ない行為のように思い起こされた。そして私が2度、席を譲ったときはどうだったのだろうか。私のまん前に誰かが立っていたか。まん前でなくとも、私の周辺に障害者・病人・ケガ人らしき人などがいた可能性はなかったか…。まったく当時の状況をおぼえていなかった。私も、譲ったお年寄りたち以外の人のことはまるで眼中になかったのだ。


 では、可能な限り、お年寄りにばかりかたよりの生じない形で席を譲るには、どうすればいいのか。見た目の判断では、それが実行不可能なことは明白である。「優先席」の存在は、ある程度の緩和剤にはなっているのだろうが、それだけで足りるのか。譲る気のある人は、はなから座らずに席を空けておけばいい…? しかしそれでは、元気な若い人がそこに座ってしまうだろう。とはいえ元気な人だって、運賃を払って乗っているのだから、座ってはいけないということもない。お年寄りや病人でなくとも、仕事疲れでヘトヘトになっている人が電車の座席にひと時の安らぎを求めたいこともあるだろう。優先席に空きがない時には、座りたい人は座っている人に替わってくれるように頼めばいい…? なかなか、そうした勇気のある人もあるまい。しかし、黙ったままで他人からの親切を待つというのも、少々、図々しさが感じられなくもない。はてさて、いったいどうある事がより理想的なのか。

 17歳くらいだった当時、私の脆弱な頭脳では答が出せなかった。そして、高校時代以来、私は席を譲るという行為を1度もしないままでいる。山手線で見た男性の苦痛の表情が、私の足かせになっていて、どうあるべきなのか、いまだに結論が出せていないのだ。答はないというのが結論なのかも知れない。はっきりしたスタンスを持たないまま、今の私は、車内が空いていれば座る、体調がよくない時は座る、かなり体調が悪くても優先席は使わない、よほどの時には途中下車して休むか、席を譲ってくれるよう誰かに頼む(まだ頼んだことは1度もないが)、明らかに具合の悪そうな人(老若男女を問わず)や妊婦が近くにいれば譲る(まだ、そういうケースに遭遇したことがない。眠ってしまっている事もある)と、そのような、どっちつかずの立ち位置にいる。女性専用車両のような「優先車両」を設ければいい…? 「座りたい人は声をかけてくださいバッジ」を胸に付けて座る…? いずれも試みとして実効性があるのか。それとも他に方法が…?

 結局はよく分からないままだ。とりあえずは、せいぜい、自分が老人の立場になった時に、30分や1時間くらいの電車移動は立ったままで平然と出来るよう、今からエスカレーターやエレベーターに頼って自分の足腰を甘やかさないようにし、なるべく内臓に負担をかけずに過ごして将来的な病気のリスクを少なくさせておく…。今のところ私は、それくらいの事を備えとしてやっている程度に過ぎない。人口の減少が進んだ若い世代にさまざまな経済的負担をかけてしまいそうな20〜30年後、働き盛りの若い人たちから電車内の席まで奪ってしまうようになっては申し訳ない。



(2012年5月26日・記)




            
前頁へ戻る