テレビのバラエティー・トーク番組での、ある有名女性タレントのこんな発言、「デートの時、男は女性のバッグとか持たなきゃダメよォ」。共演の女性タレントたちも多くがそれに同調している様子だった。世の多くの女性たちもこの意見に賛同するのだろうか、これが女性たちの男に求めるひとつの理想像、イイ男もしくは優しい男の姿なのか。冬のデートで、より寒くなると男が自分の上着を女性にはおらせてやるという光景もあったりするようだが、どうも、私にはなかなか理解しがたい。
デートで女性のバッグを持つ…、それをしてやらなくても女性は何ら困ることはあるまい。怪我人でも病人でも、そのほかの身体的ハンデを背負っている人でも、自分の荷物は可能な限り自分で運ぶではないか。健康で五体満足な女性が「男はバッグを持たなきゃダメよォ」などと言っているようでいいのだろうか。国によっては、年端もいかない子供が旅行者の荷物持ちをしてその日の食べ物代を稼ぐという貧困な光景もある。「バッグを持て」などゼイタク病としか思えない。一時のお姫さま気分に浸りたくて言っているのだとしたら、みみっちい話だ。
男が自分の上着を女性にはおらせる…、なぜ? 冬のデートなら、どういう服装で行けば最低限寒い思いをせずに済むかは当然考えるべきことで、そうした準備がキチンと出来ている女性なら、思っていたより少しぐらい寒くなったとしても男から上着を借りる必要などないのだ。もっと寒くなってしまった場合は同伴の男だって寒いに決まっており、そんな状況で男の上着を借りて喜ぶ女性はどうかしている。「私は自己管理の出来ない女」と、みずから発表しているようなものではないのか。あえて上着を貸す必要があるとすれば、女性が急に体調をくずして寒気がするとか、思わぬ事故で池にでも落ちて寒い思いをしているとか、相手が妊婦であるとか、せいぜいそんな時くらいではなかろうか。
何ごとも準備にそつがなく、ささいな優越感からくる理想像を男に求めず、自分の立ち居振る舞いは凜として自分で責任を持つ、それでも寒い時には胸を張って風邪をひいてやるくらいの気概のある女性のほうが、私には魅力的に見える。
かつては「女は男から3歩さがって歩け」と、男の理想を女性に押し付けた。女性たちも少なからず、「男をたてる」「貞淑」「良妻」などと称してそれを助長していただろう。しかしこれもずいぶんみみっちい話で、たかが(と言っては悪いかも知れないが)1人の女性をさがらせて歩くことが何の優越感なのか。それなら、せめて100人や1,000人の人たちを従えて進んでいくくらいの人物を目指せ、という話ではないのか。単に女性1人にうしろを歩かせたところで何の勲章にもなるまい。ヤンキーの“根性焼き自慢”みたいなもので、極限の世界で戦う消防士やレスキュー隊員のヤケドの勲章とは比較にならないのだ。妻は夫を立てろとか、後輩は先輩を立てろとか言うけれど、自力で立てないヘタレ者が妻子や後輩から尊敬などされるものか。
互いにつまらない優越感も見栄もとっぱらって、並んで手をつないで歩けばいいではないか。上下も優劣もなしに手のひらの温もりで温め合えばいいではないか。3歩さがらせるなど、却ってちっぽけな虚勢に喜んでいる料簡のせまい男のように私には見えるのだ。男にバッグを持たせる女性もそれと同じように思える。単に男女の立場が以前と裏返っただけで、人間の質そのものは変わっていないというような…。たかが男1人を太鼓持ちみたいに従えて何が嬉しいのか、病人や幼児でもないのに人に荷物を持たせて恥ずかしくないのか。どうも分からない。
そうした形で女性に尽くすのが優しいイイ男だと思うのは好きずきだと言ってしまえばそれまでだが、そんな優しさは芝居でいくらでも出せて、女性をあざむくことができるのだ。付き合っている間は「この女をモノにしたい」という思いから芝居を維持できるが、結婚すればたいがい消えてしまい、「この男は結婚したら優しくなくなった」というお決まりのオチが付くこととなる。優しくなくなったのではなく、初めから優しくなかっただけのことだ。頭の病気にでもならない限り、優しい人が急に優しくなくなったりするはずがない。
かつての女性たちだって、3歩さがって男をたてながら、心の中では男の程度の低い見栄をせせら笑っていた人はたくさんいただろう。男たちはかつてのそうした上っツラの優越感を、時代の変化によって簡単に失ってしまったではないか。女性たちは今の“太鼓持ち男”たちの見せる優しさが、時代の変化にも消えずに永く残るほどの深みがあるとでも思っているのだろうか。「バッグを持たなきゃダメよォ」、…なんてことを「言ってちゃダメよォ」、と思うのだが。
(2004年秋・記)
前頁へ戻る |