昭和11年年賀印


昭和11年 年賀印の母型



筆者・きまぐれ睡龍


 ここに掲載するのは、昭和11年(1936)元日の郵便・電信に使用された年賀用スタンプ「年賀印」の金属製母型(電胎母型)で、戦前・戦中と逓信省に勤務していた笹象治氏の旧蔵品です。年賀印とは、昭和10年11月16日付けの逓信局告示によって、翌11年の元日から実施が開始された日付印で、新年を象徴するような図案が入れられたものや、後年には「年賀」の文字のみを入れた単純なものなどがデザインとして使用されました。

 年賀印は大戦中の中断ののち、さまざまなデザインの変遷を経て現在まで続いていますが、ここに掲載した母型はその最も初期のもので、波と舞鶴を模した特別図案です。郵便局、電信局および電信取扱所において、昭和11年にだけ、年賀郵便物・年賀電報などの1月1日消印に使用されました。

 
(図案部分の拡大と母型の全体像)

 図案の裏面には、「昭和十一年 年賀用スタンプ母型」と刻字があり、手前側面には同じ筆跡で「笹」の1字が刻まれています。笹氏がみずから彫ったように思われます。笹氏の所蔵になった経緯は伝わっていませんが、母型が使用済みになった時点、もしくは逓信省を退官する際などに、記念としてもらい受けた可能性が考えられます。笹氏が年賀印の発案や作製を推進した主導者だったのかも知れません。現在は、晩年の笹氏と親交があった筆者の親族が所蔵しています。

 
(裏面と側面の刻字。右は昭和11年櫛型年賀印〔熊本〕の断片との対比)

 寸法は、縦47ミリ、横25ミリ、厚さ9.5ミリです。付属品や関連する器物などはありません。メッキ技術によって種字から型取りした図案部分(ガラハ)と、支え具である真鍮製の角材(マテ材)との色の違いが見えるので、活版印刷時代のいわゆる電胎母型と認識できます。かつて活版印刷では、こうした母型の彫刻部分に鉛や樹脂を流し込んで版を作っていました。使用されたとおぼしきシミや汚れなどが付着していますので、実際に使われたもののようです。近代の日本郵便史において、世間が戦時色に染まりはじめる前のささやかな贅沢が刻まれた貴重な資料だと思われます。昭和14年ころから終戦後まで、こうした図柄は作られなくなりました。 (冒頭の壱銭五厘切手の写真は、ネットから部分引用させていただきました。 2016年1月1日・記)

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 笹象治氏の旧蔵品の中には、昭和12年と13年(1937〜38)に使用された年賀印の原図と、同じ時期に通常の郵便物に使用されていた標語印3種に関する若干の資料も含まれていますので、参考までに掲載します。特に、標語印3種は図案作製時の原稿の一部と考えられ、史料的価値のあるものではないかと思われます。

 
(左は昭和12年元日の年賀印原図。右は13年年賀印の押印サンプルと意匠説明)

  
(左は戦前に使用された標語印3種の原稿。右は修正液による字形の調整跡と裏書き)

 昭和12・13年の年賀印の原図と意匠サンプルは、関係者に配布するために作られたものと思われます。意匠説明書は「年賀用郵便切手と通信日附印」と題され、「昭和十三年の年賀状に使用する為年賀郵便切手二銭一種を発行す 尚十二月二十日より同月二十九日迄特別取扱の年賀郵便物に新年に因む図案入通信日附印を使用す」と前文が記されています。切手は、輪状のしめ飾りと背景の曙光を描いた2銭切手(1937〈S.12〉.12.15発行)を指しています。

 その下に掲げた標語入り日付印3種の原稿は、昭和12〜13年ころから使用されていたものの図案です。いずれの標語も実際に使用された消印の文言と同じですが、中央と右側の図案は、実際の消印とは字の形が何ヶ所か違っているので、決定稿ではなく、中央の「国民こぞつてラヂオ体操」(1937〈S.12〉.8.1使用開始)などは、「操」の字が木扁になっています。ただ、左側の「手紙は四銭 葉書は二銭」(1937〈S.12〉.4.1料金改定)だけは決定稿だったのか、ひらがな以外のほとんどの文字に、白い修正液を塗って字形を整えたらしき盛り上がった痕跡がみられ(特に「四」と「二」、そして「紙」の糸扁の、それぞれの下側が顕著)、用紙の裏面の端には、「此ノ原稿ハ特ニ大切ニ願ヒマス」と、万年筆かGペンのような筆跡で記された注意書きがあります。実際に使用された消印とも字形が酷似しているので、母型の作製に使われた直接の原本だったのかも知れません。通常なら捨てられてしまうものを笹氏が個人的に保存しておいた、ということでしょうか。修正液を塗ったのが笹氏自身であった可能性も考えられます。 (2016年1月18日・追記)



             
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