虫に生まれ変わったら


虫に生まれ変わったら



きまぐれ睡龍・筆


 小学生の頃、たしか学校の先生だったと記憶しているのだが、その人から「悪いことをすると神様から罰がくだり、生まれ変わって虫になってしまうんだぞ」と言われたことがある。仏教かキリスト教か、はたまたギリシャ神話からの影響かは知らないが、何らかの思想的な影響によってそうした考え方が一般化していたのだろうと思う。私は小さい頃から虫や植物と身近に接しながら過ごして来たのだが、この言葉を聞かされた時、すんなりと心の中に浸み込んでは来なかった。ひとつには、私の母が日常生活の中で虫や植物をむやみに低くあつかうような発言や態度を見せなかったことにあるだろう。自然界にある大と小、明と暗、美と醜はすべて表裏一体で、上下・優劣の差はない、という母の考え方が、長年にわたる無言の教えとして私を包んでいたからだ。

 私はその後も虫たちと接し、先生の言葉を思い出しながらつぶさに虫たちの様子に見入っていたのだが、やはり浸み込んで来ない。どう見ても、虫たちには自分が虫であることを嘆いている様子や、自分が人間でないことを悲しんでいる様子がないのである。虫たちはひたすらせっせと餌をさがし、食べ、巣作りをし、睡眠し、交尾と産卵にいそしんでいるだけだ。私がそばにいてもほとんど彼らの眼中には入っておらず、それ以上接近しなければ、私のことを警戒もしないし、ましてや私が人間であることを羨ましがる素振りなどまったくない。美しい虫もそうでない虫も、大きいのも小さいのも、みんなそうだった。トンボもてんとう虫も平気で私の体にとまって来て、単なる棒っきれ扱いだった。

 虫になるのは神様の罰? なぜそれが罰なのか。人間の幸せと虫の幸せは別もの。私たちから見て、いかに卑小でどれほどおぞましい姿をしていようと、彼らはケロッとしているではないか。虫になればなったなりの幸せがあるのだとしか思えなかった。それが当時の私のつたないながらの結論だったし、今でもその結論はほとんど変わっていない。

 

 日本人が虫を忌み嫌うようになったのは、とりわけ明治維新後に西洋思想が入って来てからだと聞いたことがある。動植物との共存というスタイルから動植物を従属させたり排除する考え方へと移り変わった結果の、ひとつの表れだったのだろうかと思う。しかし、そんな私たちの変化をよそに、虫たちは何億年も前から変わらないまま、今でも淡々と同じことを繰り返しているのだ。人間の手によって絶滅の危機に追いやられつつある今でも、彼らは私たちを羨まないし憎みもしない。

 人間は虫たちの上位に立っているのではない。むしろ下位にいるのではないかとさえ思える。人間がいなくても彼らは困らないが、彼らがいなければ生態系は維持されず人間は圧倒的に困るのだ。虫になるのは神様の罰…、それは、虫と私たちの命の連鎖や、私たちが虫から得ている恩恵を分かっていない旧時代の傲慢な発言に過ぎなかったのだと思う。人は安直に虫たちを殺すが、地球がちょっと咳払いをしただけで人々もあっさりと死ぬではないか。虫と人とでどれほどの差があるというのか。何億光年もの歩幅を持つ神が、足元の砂ぼこりの粒子にも満たない地球にすがって生きる人間を、あえて特別扱いし優劣的な贔屓をするわけもなかろう。虫に生まれても人に生まれても、命を与えられる幸せとそれを返却する峻厳さに違いはないのだ。

 人は知的に進化してきた…、本当だろうか。知的進化によって虫や動植物から突出したようでいながら、実はそれが、逆に彼らの無垢な立ち位置に帰趨していくプロセスになっているだけではないのか、私にはそんな気さえするのである。


(2001年10月・記  Photo. ツマグロヒョウモンの幼虫、筆者撮影。2010.9.19, 栃木県中塩原)




             
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