無事故・無違反


無事故・無違反



きまぐれ睡龍・筆


 無事故・無違反とは、自動車に接する生活をしている人なら誰しもよく耳にする言葉だろう。聞こえはいいが、この言葉にはまやかしが含まれていて、一般人はおろか、公僕、とりわけ警察関係者までもが平気でこの言葉を使っているのは、実はかなり奇妙なことである。

 まず無違反という評価はほぼ成立しない。無事故の人は数多くいるだろうが、無違反の人はめったにいないのだ。それは、世のほとんどのドライバーたちは各道路に決められている制限速度をすべて守って走るということをしていないはずだからだ。そんなことをするドライバーがいたら、いたるところで周囲からかなり邪魔にされるだろう。法定速度を守っているのだから邪魔にする筋合いはないのだが、世の中そんな理屈はまったくというほど通用しないのが実情だ。法令順守の意識を強く持っている人でも、そうした実情の中ではやむなく違反行為に染まっていかざるを得ない。それ以上に、大方の人たちは法令順守の面倒くささや自己都合優先の意識が先行してそれに馴染んでしまう。「そうせざるを得ないから」とか「みんなそうしているから」という言いぶんがまかり通り、そして「少しぐらいオーバーしても自分の運転なら大丈夫」という過信がさらに横たわる。

 毎日車を運転している人のほとんどは毎日スピード違反を犯していて、違反者の数よりも警察官の人数が圧倒的に少ないために捕まる機会が少なく、たまたま取り締まりも検挙もされないでいる、というだけのことなのである。無違反なのではない。一般者に限らず、法律家、政治家や役人、僧侶や神父、学校教師、そしておそらく自動車教習所の職員や非番の警察官まで、公の仕事に携わって倫理や道徳や法令を説いている人々であっても、いちいち制限速度を守ることはほぼしていないだろう。運送業者などのプロも同様だ。世の中、キッチリ無違反を貫き通している“邪魔者”たちもたぶん存在するのだろうが、1万人に1人か2人ぐらいいるかどうか。

 現実には違反をしていても、それが発覚さえしなければ違反者と呼ばれることはない。その状態が長年続き、申請条件が満たされれば優良運転者賞やらカーバッジ(GOOD DRIVER)といったものなどを警察から授与されたりするのである。いろいろな表彰規定があるようだが、与える側ももらう側も、おそらく矛盾や後ろめたさはほとんど感じてはいまい。かつては、宴会の席で金色の無事故無違反証明書を見せて自慢しながら酒を飲み、自分で車を運転して帰宅していく人の姿なども見られたものだ。今でも似たり寄ったりのケースはある。しかし、発覚しなければ無違反という扱いになるのは、少々極端にいえば、強盗や殺人を犯して人知れず逃亡している人は捕まらずにいる限り窃盗犯でも殺人犯でもなく、“罪は存在しない”という理屈になるわけで、もし「無強盗・無殺人」という表彰制度があれば、この犯人は表彰に該当してしまうのである。違反がかぎりなく横行している現況下で無違反という言い方を使うことには、そうした矛盾を抱え込む安易さが含まれている。

 スピードの出し過ぎによる死亡事故は非常に多く、事故原因の中のワースト1と言っていいだろう。戦後の自動車事故による犠牲者の数は第二次大戦における日本人の死亡総数を超えているというし、おそらくそのうちの十数パーセント程度はスピードの出し過ぎによるものであろうから、ただごとではない。近年も依然として、スピード違反は社会問題のひとつとなり続けている。社会問題は何につけ、それを支える社会背景によって生み出され、持続させられるのだが、スピードの出し過ぎによる事故の多さは、大多数の人たちが日常的にスピード違反を犯し、それをほぼ容認している社会背景と無関係だとは考えにくい。そうだとすれば、事故を起こした本人は当然悪いにしても、日常的にスピード違反をしている人たちは大なり小なり「間接的な加害者、もしくは幇助(ほうじょ)者」ということになるのである。明日からすべてのドライバーがすべての道の制限速度を守って走ったとしたら、死亡事故は目に見えて減っていくに違いないのだから。しかしドライバーたちみずからの意思として、違反を減らして行こうという運動の盛り上がりなどが起りそうな気配さえも今のところまったく見られず、家族に犠牲者を出したごく少数の遺族たちからかすかな涙声が聞こえて来るのみにとどまっている。

 もし「間接的な加害者や幇助者」であるその人の家族が、誰かのスピード違反事故によって命を奪われたとしたら、その人はどうやって加害者を責めるのだろうか。悪法も法なりと言うが、制限速度の設定の仕方に何かしら矛盾や問題があるとしても、法律であるからには守るべきものである。法律や規則は破るものではなく、守るか変えるかのどちらかだ。普段から20キロ以上の違反はほとんどしないという人が、50キロオーバーで死亡事故を起こした人に対して、自分の方が危険率が低いからといって胸を張って責める筋合いもないだろう。危険率はどうあれ違反は違反である。20キロオーバーでも人をひき殺せば刑務所行きだし、50キロオーバーでも発覚さえしなければ表彰の対象として名乗りをあげることが出来るのだ。世間は、意識的にしろ無意識にしろそれを容認し続けている。容認の背後には、恒常化したスピード違反に依存する形で恩恵的な物流経済が成立してしまっている事もあるのだろう。水清ければ魚棲まずで、何事も法的・倫理的逸脱がなければ世の中が快適におもしろく回っていかない社会構造への安住が一方にはあるのだ。

 無事故・無違反が常套句として世間にまかり通っているのは、奇異なことなのだが違和感がほとんど感じられない。航空機事故で何百人も死ぬと全マスコミをあげての大騒ぎになり、御巣鷹山の墜落事故などは500人以上の人命を奪った歴史的な大惨事としていまだに語り継がれているが、自動車事故の場合は年間に何千人死のうと語り草にさえならない。一度に100人死ぬと大騒ぎになって徐々になら何万人死んでもほとんど騒がれない。そうした痛みの薄さが、無事故・無違反という言葉の違和感の乏しさとつながっているように思える。結局は、自分や自分の家族・友人が犠牲者にならなければ他人事に過ぎず、身につまされないのであろう。もし、世のほとんどの人たちが日常的に違反をしているからといって、その実情に合わせて「各道路の制限速度を平均10キロないし20キロずつ引き上げましょう」という話になったら、みんな賛成するのだろうか。今度はその制限速度に上乗せしての日常的な違反が定着してしまうかも知れず、おそらく自分や家族の身の危険と結びつけて、反対多数で却下となるのではないか。そして却下するからといってもその人は違反をやめるわけではない、ということではないだろうか。

 無事故を表彰する制度はあってもいいかも知れないが、無違反の表彰は矛盾や欺瞞が大きすぎる。ドライバーによる無違反の自己申告が表彰に値するとはほとんど思えないし、客観的にその真実性を判定する方法も今のところ乏しいのだ。信賞必罰は矛盾や欺瞞をともなわない根拠によって行なわれなければ、国や組織や家庭内における人心の低劣化を招きかねない。

 無違反という名目で褒めるよりも、いっそ「長いこと捕まらなかったで賞! by. 軽視庁」と銘打って金色ステッカーでも作った方が実情に合うだろう。それを「不謹慎だ」と批判できるのは、おそらく大方の警察関係者でも事故犠牲者の遺族でもなく、まったく車に乗らない人たちか、キッチリ無違反を貫き続けているわずかな“邪魔者”たちぐらいなのではなかろうか。



(2011年1月・記)




             
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