中村宗文書簡
中村宗文筆 書簡
―国立公園切手の作製等に関する手紙―
筆者・きまぐれ睡龍
以下に掲げる中村宗文氏の手紙1通(1938年12月7日付け。筆者の親族所蔵)は、ごく短文ながら、わが国の国立公園切手作製における黎明期の関係者たちの動きを知るうえで、その裏事情の一端を垣間見ることのできるものです。ここに公開することが、近代郵便史研究のささやかな一助となれば幸いと考えています。手紙の受け取り人である笹象治氏は逓信省に勤務していた人です。この手紙の当時には、民間人ながら陸軍中将に匹敵する肩書きをもって中国に赴任し、南京野戦郵便局の初代局長となった人物と聞いていますが、詳細は定かではありません。中村宗文氏は、逓信省の郵務局勤務から戦後は郵政省の事務官として、長年にわたり切手の発行に従事し、退官までにおよそ600種類もの切手を手掛けて、「切手の神様」との異名をとっていた人物です。
前半に本文の書きくだし文を記し、後半に手紙の写真を掲載しています。なお、書きくだし文は新字に統一、旧仮名づかいはそのままとし、適宜、句読点を加えています。誤字・脱字などへの修正は施していません。
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(手紙の封筒。表(右)、裏(左))
(封筒表)
「 中支派遣
南京畑部隊野戦郵便本部
笹 象 治 様
親展
軍事郵便
航空 」〔消印…13. 12. 7〕
筆不精で遂御無沙汰申上げました。何卒御許容下さい。大部御寒くなりましたが、益々御元気にて御勤務の趣、何より慶ばしう御座ゐます。先達十月二十三日附の御手紙、誠に有難う御座ゐました。御仰せの通りやつて参る積りで御座ゐます。丁度国立公園切手図案資料蒐集(写真撮影)に広島管内に出掛けて居りました。
さて、日光国立公園切手が愈々誕生することになりました。あの当時蒔いた種が漸く実りましたのです。御覧になつて感慨深いものあると存じます。これの調整については一切郵務局でやりまして、博物館には少しも御厄介になりませんでした。少しも同館へは相談しませんでしたので、山本さんも気を悪くして居りますが、こちらとしては発行の権限を与へられて居るのですから、他の干渉を受けるわけはないと頑張つて居ります。
図案となりました写真は全部鈴木さんと一緒に行って撮って来たものですが、相当苦心を致して出来上つたものです。これについては下田事務官が並々ならぬ御尽力をなされました。下田事務官により製らたと申しても過言ではありません。次の国公切手は瀬戸内海と大山とで一組、その次は阿蘇霧島で一組を作る予定で、計画としては一ヶ年半位に全部を終了することにして居りまして、只今は下田事務官自ら九州へ撮影に参つて居ります。
只今下田事務官の肝入りで日本郵便切手協会の設立準備中ですが、この協会は三井高陽氏を会長に推すこととなり、万事下田さんが三井さんと相談して居ります為、吉田一郎さん等は相談に与らず、僕も何だか吉田さんに悪い様な気がして居りますが、これも致し方ありません。今度の切手に付ても吉田さんには少しも相談せず、局長以下局内だけで取扱ひました。と申しましても課長は御承知の通り切手等には熱を持つて呉れません。局長は大変力を入れて呉ますが、実際に当つては下田さんが矢張り主となりました訳です。
次に衡器の問題ですが、課長が博物館の肩を持ち、とうとう監査成読の取纏めは博物館にやらせることになりました。僕も故出塚氏の御言葉や郵務局の立場を説明しましたが、如何とも致し難く「郵務局は博物館の上に立つて衡器の取締監督をせよ」との御達し、併し唯一の資料たる成読報告の取纏もせずして完全な監督が出来るでせうか。笹さんの築き上げましたこの問題を博物館に取られて実に残念ですが、何れ笹さんの御戻りになりましたら又郵務局でやるやう取戻す機会もあらうと忍んで居りますが、尚今後はあくまで博物館の上に立ち、博物館は成読の取纏めだけをやらせ、郵務局で衡器取締の鍵を握つて行くべく努力する積りですから、何卒御後援の程願上げます。
次に南洋の切手ですが、五組位早川氏の手元に参つて居る様ですが、笹さんの御意嚮を御伺ひして配布したいと申しております。何卒こちらへ御返事下さいます様御願申上げます。
係内も通信取締実施関係で二名増員になりました。昨日(六日)の公報に出て居りますのがそれです。色々申上げたいことも御座ゐますが、何れ又国公切手は小型シート丈け出来し、未だバラバラのは出来ません。出来ましたら又御送り致します。
今日午后、同封の新聞原稿を発表致します。
これからは寒さも一入加はることと存じます。殊に大陸的気候で一段と御辛いことも御座ゐませう。何卒御自愛専一に遊ばさるる様祈り上げます。尚、中村英孝君にも宜敷御伝へ下さいまし。
十二月七日
中 村 宗 文
笹 象 治 様
(封筒裏)
「 東京市滝野川区西ヶ原町一八三
中 村 宗 文
十二月七日
」
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