国友村塾
【2015年冬】
国友村塾
(2015年)
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――文・Photo. きまぐれ睡龍――
2015年、「国友村塾(くにともそんじゅく)」と称して、秋から冬にかけて専門家たちによる3回の講演会が国友町会館で開かれた。近世から近代の国友村は、鉄砲だけでなく、一貫斎をはじめとして鋳造・彫金・彫刻・花火などのモノづくり、そして医学・儒学・茶道などで非凡な能力を発揮した人たちを輩出しており、そうした地域の力を学ぼうという主旨でこの講演会が企画されたという。3回の講演は次のとおりのタイトルと日程で開催された。
第1回―― 「曇らない鏡をつくった国友一貫斎の科学技術」 (10月24日開催、冨田良雄さん・京都大学理学研究科助教)
第2回―― 「「大坂の陣」と国友鍛冶の鉄砲生産」 (11月15日開催、太田浩司さん・長浜城歴史博物館館長)
第3回―― 「江戸のモノづくりと国友一貫斎の技術力」 (12月6日開催、鈴木一義さん・国立科学博物館 産業技術史資料情報センター長)
私はこのうちの第3回、12月6日(日)の鈴木さんの講演を受講させていただいた。
一貫斎の命日である12月3日に合わせて、毎年直近の休日に「国友一貫斎翁碑前祭」が行なわれているが、今回の鈴木さんの講演はこの碑前祭と合わせて開催された。碑前祭は午前10時から、講演は11時からだったが、その合間に遠州流の茶会も催され、主催された皆さんの計らいで、それらすべてに参加することができた。
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(碑前祭の様子。読経と焼香)
碑前祭のあと、10時30分から、国友鉄砲の里資料館館長の吉田二郎さんが主催する茶会に参加した。吉田さんは遠州流(えんしゅうりゅう)茶道を継承している茶人でもあり、私を今回の茶会に特別にお招き下さったのだ。
遠州流は、文人として名高い近江小室藩の初代藩主・小堀遠州を祖とする武家茶道の代表的な流派である。小堀遠州は国友村と同じ坂田郡内の小堀村出身であった。小室藩が天明期に改易されて廃藩となったため、遠州流茶道は一時期すたれていたが、高名な文人で遠州流の奥義を極めていた国友村の辻宗範(つじ・そうはん)がその再興に尽力し、中興の祖となったことから、国友町では遠州流が継承されている。ちなみに、一貫斎の母は辻宗範の姉である。
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(吉田二郎さん〔左写真〕による茶会。奥にある台子は国友一貫斎家の所蔵品)
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(右の写真は辻宗範直筆の茶掛け)
〈鈴木一義さんの講演〉
茶会が終わり、鈴木さんの講演が始まった。鈴木さんは江戸科学史の専門家で、長浜市を含め、各都市の地方創生に尽力している都市力研究家でもある。国友町会館の2階大広間で、1時間10分にわたる講演が行なわれた。一貫斎の事績についてだけ語るのでなく、現代のモノづくりまで通じている江戸期の特異な科学全般の変遷をたどり、その中での一貫斎の位置づけを垣間見るという内容だった。以下、鈴木さんの講演の要旨を記す。
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(講演前の会場内の様子と講演のパンフレット)
日本は欧米以外の国々のなかで、際立ってノーベル賞受賞者の多い特異な国になっている。その根源にあるものが何かをさぐるには、江戸時代の科学技術史の変遷とその社会的背景に目を向けなければならない。
徳川吉宗の時代に蘭語が解禁され、蘭学が徐々に普及しはじめた。それからおよそ半世紀後に、平賀源内に代表される数多くの優れた学者が現れ、蘭学の浸透が結実して数々の製品が流通するようになった。そうした時代のさなかに一貫斎は生まれたのだった。日本はイノベーションのできる国である。世界的にみて日本は人口密度がとても高く、山林の多い国土にあって平地に人口が集中しているが、そこでの文化水準の高い生活を可能にしている稀な国となっている。庶民レベルにまでおよぶ江戸期の学問の普及が、そうしたイノベーションの根源にある。
江戸は情報の一大中心地であり、一貫斎はそこに数年のあいだ滞在して多くのことを学んだ。江戸時代はオンリー・ワンを目指す時代であった。徳川家が支配する国になっていたため、各藩は戦争ができない。侵略によって他領のものを奪って利を得るのではなく、学問や芸術などの唯一性を目指してしのぎを削る戦いが主体になった。それが競争の前提となり、すべての産業分野において今にいたるまで継承されている。日本の技術の個性やユニークさは、そうした背景から産まれてきたのだ。
江戸時代は階級社会だったが、文化や技術の発達は上流階級だけに恩恵をもたらしたのではなく、一般庶民まで全員が文物や花鳥風月に接する機会があり、それを楽しめる余裕のある時代でもあった。
日本の和算は、西洋の微分積分を理解できる高度な学問だった。『塵劫記』(じんこうき。1627年刊の日本最初の算術書)がヒットして一般にまで広く普及し、明治時代末までに同類の書籍が多数刊行された。現代の小・中学校では、数学の問題を解くことしか教えていないが、江戸期の和算の極意は「オリジナルな問題を作る」ことにあった。トップに立つ人たちは新しい問題を作り続けなければならず、常にその能力が世間から要求された。皆それに取り組んで、新たな問題を世に提供することが当たり前だった。ゆえに、西洋の数学が日本に入ってきた時、江戸期の人たちは「また新しい問題が出てきた」とすんなり受け止め、それに容易に順応できたのだった。
平和な安定した社会であったため、商売が発達し、庶民もさまざまな品を手に入れることができた。江戸時代は、貧乏な人でも少しは贅沢品を入手することができた点で、外国の貧困層とは大きく違っていた。越後屋呉服店など、庶民向けの商法を成功させる商店も数々存在したのだ。外国ではモノづくりの技術者に対する尊敬の意識が低い。モノづくりの恩恵は貴族階級や富裕層にもたらされ、庶民を支配・統治する用途にも利用されたからだ。技術者は庶民のためにモノを作る存在ではなかったので、あまり尊敬の対象にならなかった。江戸時代の技術者は庶民にもモノを作ってくれる存在で、庶民の役に立つのが日本のモノづくりだった。その影響で、日本は例外的にエジソンを尊敬する国になっている。エジソンが誰でも使えるモノを作った人だったからだ。海外では、日本ほどエジソンは知名度がなく、ジェームズ・ワットの業績などもあまり知られていない。
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(江戸期の科学技術史について語る鈴木さん)
寺子屋は江戸中期から庶民層にも広がった。とりわけ19世紀ころから増加し、全国に17,000軒ちかく作られたという。なぜ日本は寺子屋が増加し、そこに通う人が多かったのか。それは、文字を覚えれば読む本が数多くあったからだ。アフリカの子供たちが学校に行かないのは、せっかく文字を覚えても読む本が少ないからである。江戸の世は戦争がなかったから、各藩の殿様が自国を潤して民衆を養うために、漢文でなく日本語による出版物を普及させることにつとめた。中国から伝わった有用な漢文書籍が一部の知識層に独占されず、誰もが読めるよう日本語に翻訳され、出版物として世に広く流布したので、それを読めるようになるために寺子屋が発達したのだった。西欧ではかつて、学術書はラテン語で書かれたものばかりで、一般庶民に知的恩恵をもたらすものはなく、一般語で書かれた書籍は聖書ぐらいだった。日本は「読めば得する本」がたくさんあったため、多くの庶民が寺子屋に通った。江戸時代は一般人の識字率が高く、とりわけ都市部では8割にも達していたとみられる。
欧米以外の各国のうち、母国語で学問が学べるのは日本くらいしかなかった。日本人にノーベル賞受賞者が多い背景には、それが大きな要因のひとつとしてある。杉田玄白の『解体新書』などは単なる解剖学の翻訳書ではなく、各説や自説などをも多彩に掲載した書物だった。そして解剖書は、人体解剖だけでなく、他の生物の解剖まで行ない、その詳細を記す書物になっていった。それは、解剖から自然科学への移り変わりを示す展開だった。人間と他の生物の内部がどう違うのかに興味が移り、「科学」するいとなみが求められていったことで、江戸期にはすでに近代科学の基礎となる土壌が生まれていたのである。それが文明開化後の近代初期に、北里柴三郎たちのような優秀な人材の輩出を可能にしたのだった。日本の文化は、庶民階級をも含めて江戸期から広範に発達したのである。
日本には宮廷料理がない。天ぷらでも懐石料理でも、それらは庶民生活に根ざして発達し、今日まで伝えられてきたものだった。
一貫斎が気砲を作ったころの江戸には、その空気圧の原理に関する新情報が急速に広まる土壌がすでにあった。一貫斎が記した『気砲記』は、その情報伝達に必要なマニュアルだった。空気圧の情報はたちまちのうちに、さまざまな製品の考案に応用された。当時の庶民は、そうした物品を目にする機会が豊富にあった。ひとつの道が開かれれば、多くの職人がそれに続き、製品化されたのだ。気砲によって示された空気圧の原理は、田中儀右衛門による「無尽灯(むじんとう)」という灯火具の開発につながり、宣伝・販売を経て庶民の生活へと浸透していった。
一貫斎は「技術者」に近い職人だった。彼が残した「阿鼻機流大鳥秘術」という飛行機器の図は、当時の人びとが空を飛ぶという概念に違和感のなかったことを示す一例である。江戸後期に西欧から流入した最新の科学技術を取り入れ、独特の工業製品という形に作りかえた一貫斎のような人物たちが、明治期を迎えるまえに、日本の近代化への道をすでに切り開いていたのだった。一貫斎がいなければ、日本の技術の進歩は1〜2歩遅れていたかも知れない。(12:05終了)
〈質疑応答での鈴木さんの発言〉
一貫斎は江戸滞在中に、さまざまな科学者グループと関わりを持っていただろう。そこから多くの情報を得ていたと考えられる。一貫斎が反射望遠鏡を作るまでに国内でなされていた望遠鏡製作は、経験によって作れたものにとどまり、倍率の向上はすでに限界に達していた。一貫斎は、経験でなく新たな理論的技術のスタートに立った人といえる。
洋書や漢書の翻訳作業は、それを「読みこなすこと」である。江戸期の科学者は翻訳作業によって鍛えられた。欧米の学者は英語の論文を読むとき、意外と読みこなしていないことがある。日本人に英語教育は必要だが、日本語教育が英語教育のベースになるのが望ましいのではないか。
――おおむね以上の内容で、12時10分ころに散会となった。
私はそのあと、町内にある神社などを少しぶらついてから国友鉄砲の里資料館へ向かった。資料館では、「国友一貫斎と科学技術」という特別展を催していたからだ。この日が最終日だった。長浜城歴史博物館がリニューアルのために閉館中でもあるからだろうか、この催しでは、同館所蔵の一貫斎の望遠鏡と、国友家所蔵の望遠鏡がともに展示されているのだ。実物が2基並ぶのを見る機会はめったにない。そのほかの資料も実物の展示が多かった。
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(資料館入り口の看板と宣伝チラシ)
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(展示の様子。銃の上にある「夢鷹図」は複製。右は星山流砲術に入門する際の起請文)
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(書状類。右の掛軸は国学者・平田篤胤から一貫斎に宛てたもの)
常設展示されている日吉神社所蔵の神鏡のほか、国友一貫斎家所蔵の懐中筆と、近年発見された玉燈(個人蔵)も展示されていた。この玉燈は、一貫斎作としては現存唯一のものであるという。今回のような企画展示でなければ、なかなか見る機会はないであろう貴重な資料である。
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(懐中筆と玉燈)
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(望遠鏡の実物2基〔掛軸は複製〕と鈴木一義さんの寄せ書き)
資料館では、長時間にわたり、吉田二郎さんから一貫斎のことや遠州流茶道のお話などをお聞かせいただいた。その後、鈴木一義さんと、国友村塾名誉塾長である廣瀬一實さん、講演を見に来ておられた一貫斎の天文学に詳しい冨井洋一さん(元・京都大学教授)たち数人が資料館を訪れ、展示品を観覧したあと、しばし一貫斎について会話が交わされた。その末席に私も加わり、お話をお聞きした。
最後に鈴木さんが、「国友の皆様、夢をつなげて下さい」との寄せ書きを残して資料館を去られ、今回の私の国友訪問は終わりとなった。第1・2回の講演に参加できなかったのは残念だったが、いろいろと貴重な経験をさせていただいた。いつも親切に接して下さる吉田さんは、今回、茶の湯の席にまで私をお招き下さった。感謝に堪えない。
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