ポップスやロックを聴く機会は多く、気持ちをリフレッシュしてくれたり、ゆったりとさせてくれたりするのだが、たまに、歌詞の内容に引っかかって考え込むことがある。引っかかる内容はどうでもいいような事ばかりなのだが、たとえば次のようなものだ。
「I was born to love you(君を愛するために生まれた)」(QUEEN・「I WAS BORN TO LOVE YOU」より)
「君を守るため、そのために生まれて来たんだ」(SMAP・「らいおんハート」より)
意味はどちらもほぼ同じで、これら以外の曲でもよく見かけるフレーズである。おそらく、世界共通に使われている愛の言葉だろう。この歌詞自体はべつに良いも悪いもなく、何ら問題はないのだが、君を守る(愛する)ために生まれた…? 「ならば、相手の女性は“年上”かな」と考えたりするのである。
たとえば、ある登山家が残した有名な言葉に、「そこに山があるから登るのだ」というのがあるが、何か行動を起こすためには、そこに目的がなければらないのであって、目的なしの行動というものはない。つまり、山に登ろうと思ったり行動するためには、それより先に、山が存在しなければならない、ということだ。ありもしない山に登ろうとは思わないし、山に登ろうと思ったあとに、思い浮かべた山が目の前に生えてくるわけでもない。「まず山がある」、そしてそれを見た登山家が「あれに登ろう」と思い、行動に移すという、山と登山家の時間的な前後関係が必要になるのだ。昭和新山のような例を除けば、登山家よりも山の方が必ず“年上”ということだ。
その理屈から言えば、「I was born to love you」や「君を守るために生まれた」ということは、まず「君(you)」という目的物が先になければならない。いもしない「君」を守ろうと思うはずはないし、思ったあとに、思い浮かべた「君」が生まれるわけもない。「まず君がいる」、そしてそれを見た僕が「この人を守ろう」と思い、この世に生まれるという、「君」と「僕」の時間的な前後関係が必要なのだ。相手の女性が“年上”、つまり先に生まれてすでに存在していなければ、これらの歌詞は成立しないということである。
では、よく言われる「運命の赤い糸」という格言はどうだろうか。生まれる前から結ばれる運命にあったのだという、恋愛や結婚のさいに使われる言葉だが、この格言からすれば、「結婚する」ことが両者にとって生まれる目的になるため、どちらが先に生まれていようと関係ないので、「君」が年下であっても問題はないということになる。しかしそうなると、山と登山家との関係がおかしなことになってくる。
運命の赤い糸の理屈に照らせば、「山に登る」ことが山と登山家の両者にとって生まれる目的になる。しかし、山が、登山家たちを自分に登らせるために何百万年も何千万年もかけて高々とそびえるのか? 山は人間のことなどまるで眼中になく、登山家たちが山に生きようと死のうと、山は喜びも悲しみもしないように思うが。登山家がその山に登ることをひとつの目的として生まれるのだとすれば、その人を生んだ両親もそれをひとつの目的として結ばれ、両親それぞれの先祖は代々、子孫の登山という目的に向けて赤い糸で結ばれ続けてきたことになる。つまり、目的ではなく、時系列とは無関係な決定事項である。もちろん、その運命の系譜の中には、登山家が登る山がその場に形作られる大規模な造山運動、もっと言えば、地球や太陽系の形成や銀河の発生までもが組み込まれていなければならないはずだ。運命とは、人間の独立した主観のみによって成立する理屈や観念ではないのだから。
男女が運命の赤い糸によって結ばれるのであれば、生まれる前からすることがすべて決まっている、つまり、そこには自由意思がないことになる。そして、運命は誰に対してもえこひいきをせずに、ひとかたまりのものとして扱うので、結婚することだけでなく、その後に泥沼の離婚劇が起こったとしても、生まれた子供がすさんだ末に親を殺してムショ暮らしになったとしても、幸福と不幸とにかかわらず、すべての結果が運命の赤い糸、つまり「君を守るために生まれた」なかに組み込まれていなければならない。つまり、「君と離婚するために生まれた」というところまで実際は含まれているのだ。幸福に恵まれることだけを「運命」ととらえるのは、その場限りの、当事者たちだけの好き勝手な理屈に過ぎない。
ならば、人の行動は、それぞれの人の独立した自由意思によって行われているのだろうか。そうであれば、運命の赤い糸はいっさい存在しない。ある目的に向けて組み上げられたものではなく、そのつどの偶然的な現象の流れと交錯、たまたま出逢って、たまたま結婚するだけのこと、そして死ぬまで添い遂げるか悲惨な離婚劇に遭遇するかは、そのつどの流れしだいで出てくる結果である、ということだろう。いわゆる、「運命は自分で切り開ける」という、運命の赤い糸とは真逆の歌の文句が作られることとなる。同じ歌手が、一方では「君を守るために生まれた」と決定事項を歌い、他方では「運命を切り開け!」と未決定の自由意思を歌っていたりすると、「どっちやねん?」と突っ込みたくなってくる。どっちであろうと、別に害のあることではないのだが。要するに、運命というものがあるのかないのかは、その時々で、好き勝手に良い方に解釈しておけばいいだけ、ということなのだろう。
「そこに山があるから登るのだ」と言うが、逆に言えば「そこにある山にしか登れない」という、人間の自由意思を完全排除する現実もあるのだ。人生は運命なのか否か。この手のことは、考えはじめるときりがない。どうでもいいような事ではあるが、QUEENとSMAPの歌詞に接して思ったことをひと通り書いてみた。結論は出ない。ある意味、歌詞に率直に感情移入できずに引っかかってしまったり、女性に「僕は君を守るために生まれた」などと思ったことも言ったこともないわが身の不幸かとも思うのだが、こうした引っかかりは、生まれる前から私の脳内に仕組まれている運命なのか、それとも、行き当たりばったりの私の自由意思なのか…? いずれにしても、音楽はありがたい存在ではある。それだけが、今のところ言える結論だ。
(2012年5月21日・記)
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