会社員という仕事を選択する人は星の数ほどいて、その動機もさまざまだろう。しかし動機は何であれ、正社員として企業に勤める人がみな共通して宿命的に背負わなければならないいくつかの問題点がある。そして、その実情を認識できるかどうか、認識した上で問題解消に向けて行動できるか目をそむけて過ぎていくか、それによってその人自身の企業人としての資質と、その人が所属する企業の資質とが大きく左右されることとなる。
●世間への貢献、会社や職場への貢献、保身
何のために働くのか。ほとんどの労働者は生活のため、生きるために働くのだろう。まずは保身ということだ。自身の能力が、他の人たちには容易にマネできないくらいの技術レベルに達すればより良いだろう。それによって経営側からの信頼、上司からの信頼、職場仲間からの信頼を得られる。逆にもし周囲からの妬みにさらされる事があるとしても、その人を黙らせるほどの実力を持ってしまえば充分戦うことが出来る。能力アップは社内での発言にも説得力を持たせるし、仕事を与えてもらうのではなく自分の実力で世間から仕事を引き寄せることも可能となる。それが会社・職場・得意先、そして世間への貢献にもつながっていく。万が一、所属の企業が人員整理に動いた時には解雇される可能性を低く抑え、倒産などで職を失った場合でも新たな仕事を得る原動力になる可能性もある。身を守るとはそういうことだろう。それは同業の分野に限ったことではない。志の高さや理論能力が磨かれていれば、さまざまなことにも応用が利き、違う業種の世界に移っていく力にもなり得る。もちろん、並の努力によって得た能力ではそうしたことは覚束ない。世間への貢献と会社や職場への貢献、そして保身は連動しているものである。「生活のため、生きるため」に働くのであれば、それらを念頭に置き、並以上の能力を獲得することに努力を費やすのは大きな価値のあることだろう。
●後継者育成は実務担当者の腕しだい
どこの世界でも後継者の育成は難しい課題である。後継者または新人の育成に直接タッチするのは、ほとんどの場合が実務担当者であろう。管理職が付きっきりで日々の指導にあたるということはなかなかない。資料やテキストなどの教材を準備する時には実務内容に即したものを作るわけだが、その素材集めがしやすいのは管理職ではなく実務担当者であり、教材作製の立案・実行の中心的な立場に立つこととなる。教育をしくじれば管理職は責任を問われるのが当たり前だが、言わばそれは立場上の責任論であって、実質的な責任は実務担当者にかかってくる。実務担当者がそのことを認識していないと教材の準備はないがしろにされ、実際に教育にあたる時には「仕事をさせながらの上達」という場当たり的な手段に頼らなければならなくなる。つまり日々の実務を教材に使うことになるわけだが、それにはいろいろと弊害がともなう。
●実務を使っての研修からくる幣害
研修者が実務を教材として使ったあとには、その手落ち箇所をフォローするために教育係がやり直しをしてから納品しなければならない。研修期間中はそれをずっと続けることになる。納期があるので、二度手間の所要時間はやり直しの時間を狭める可能性を生み、品質の低下を招きかねない。納期に間に合わせるために研修作業を急がせれば、研修の質が落ちる。
内容が日々定まらない業務の場合は、教材として有効な内容かどうかは使った後でなければはっきり分からない。教材として充実した内容のものでなければ片手落ちな研修になってしまうし、研修を受ける人ごとに内容が異なってしまい、同じ基礎が身につかない。その差は、その後何年も埋められずに過ぎてしまうことが少なくなく、そのくり返しが当たり前になってしまうと、のちの組織運営に深刻な質の低下を招く可能性も出てくる。
実務は得意先からの「大切な預かり物」であって、社員研修のための教材ではない。実務を使っての研修は大事な預かり物だという意識を薄れさせ、それを助長もするだろう。教育内容の整理統一、内容の多様性と充実、効率化、これは組織運営の基礎作りに必要なことであり、そうした教材の整備は必須である。そしてその役割を担うのは実務担当者であって、その志と腕しだいで企業の運営内容が良くも悪くもなっていくということである。実務担当者が教育に目を向けず、誰か任せにしているような組織は質の低下が避けられない。そうした人が管理職になったら尚更である。指導のノウハウが分からないし、自分がやらなかった事を部下にやれとも言いにくくなってしまい、そうして誰か任せのサイクルが確定してしまうのではないか。
●教育意識の連鎖の構築
そして後継者の教育は教育係を担当する人自身の成長ともリンクしている。人に教えるためには自身の知識や技術が充実していなければならないからだ。教育をうまくこなすためには、せいぜい自身の能力アップをはかっておかなければならない。そして研修者には、将来的に自分が新人の教育に携わるかも知れないことを想定させながら研修を受けさせるべきだろう。自分が受ける研修の経験を将来の教師役につなげていく、そこでまた新人に将来に向けての教育者意識を持たせていく、そうしたサイクルが構築できれば、ひとつの安定した精神的・物理的基盤が得られるのではないか。
●プロが仕事で勉強?
後継者の育成ばかりではない。中堅・ベテランが自身の能力アップをはかる際に、多くの人は仕事をしながらの上達だけでまかなおうとする。しかし「仕事で勉強」はプロのやるべきことではない。実務は教材ではなく、勤務時間は勉強時間ではない。たとえば俳優や芸人が本番の舞台に勉強目的で上がることはない。そこは金を払って観に来ている客にプロとしての腕を披露する場である。そこでの経験は勉強にはなるものの、それは結果としてなるだけである。彼らはそれ以外の場とそれ以外の時間帯の中で学習やトレーニングをしているのである。会社員にとっての職場・勤務時間は俳優・芸人にとっての舞台と同じであり、プロとしての腕を振るう場なのである。そこには常に得意先から支払われる金が人件費として流れているのであって、勉強のための専門学校ではないのだ。仕事を勉強に使うことが容認されるのは新卒の新人くらいだろう。仕事経験はいい勉強にはなる。しかし、勉強目的で仕事をするようではプロの意識としていかがなものか。
●自助努力型の社員と後継者育成
自助努力型、つまり、日頃からプライベートな時間をも惜しまずに能力アップにつとめるタイプの会社員は、少数だろうがどこの企業にも大概いるものだ。そうした社員はそうでない社員よりも知識・技術が上回る。そして企業は、その人の能力=自社の能力という使い方をすることになるが、その後継者育成の必要にせまられた時に企業は苦慮する。自助努力型の社員の後継者は同様の努力を惜しまない人でなければならず、勤務時間内の経験値だけで満足する社員ではなかなか追いつけない。かと言って、企業は社員にプライベートな時間での学習を、奨励はできても強制する権限はなく、社員たちの自主性にまかせなければならない。自主性まかせでは大抵の社員はやらず、後継者は育ちにくい。「私がやらなきゃ誰がやる?」という向こうっ気の強さと決断力のある人はなかなかいないものだ。
●実力の差と待遇との不均衡
自助努力型とそうでない社員との間には能力の差が発生し、著しい能力差を生じることもあるが、それはしばしば給与面での不均衡、つまり高い能力を発揮しても給料は他の人たちとあまり差がない、という状態を生じさせる。能力に相応した待遇を得られない社員が不満を抱いた場合、失望感から志気を維持できない、あるいは会社を辞めてしまう、ということにもなるのだが、企業が能力に応じた給与形態を導入しようとすると、労働組合を持つ企業の場合はそことの摩擦を生む。企業は営利団体であると同時に、いわば社会の縮図としての要素もともなう。なかなか能力の上達しない人や向上心の欠けている人も一緒くたに進んで行かなければならない。容易に実力不足な人を切り捨てられず、強い人もそうでない人も共に歩んでいく地域社会や国家などと重なる側面もあるということだ。労組はそういう点、不利な立場に立ちやすい人たちを守る上で、経営側による軽率な切り捨て、あるいはその他の暴走を抑制する役割を果たすものではあり、大きな存在価値があると言えよう。しかし、能力が高く努力も貢献度も高い社員の不満や失望感に対しては、何ら助けの手を差しのべることができない。ややもすれば、サボタージュ傾向の社員たちを守り、温存させて、経営の足、そして同僚である自助努力型社員の足までをも引っ張るという幣害を生んでしまい、品質の低下、志気の低下にまでつながりかねない。これは労組に内包する逃れがたい弱点であろう。
●パートや臨時社員への依存
パートや臨時社員が正社員と同等の仕事に従事する企業は深刻な矛盾を抱える。特にパートや臨時が質の高い仕事のできる人であったりすると、正社員よりも難易度の高い仕事を任されるケースも多くなり、近年の人員削減傾向の中にあっては1人あたりの作業負担が増し、パートや臨時の利点である勤務時間の調節の自由は往々にして失われ、正社員並みの拘束時間となっても給与などの待遇は正社員の半分以下ということになる。これは言い方を変えれば、正社員がパートたち抜きで、正社員の実力だけで自分たちの給与レベルを維持できていないということになり、とりわけ正社員によって構成される労組は企業側に対する賃上げ要求の説得力を失うのである。正社員の多くはその現実を直視しない。「自分には胸を張って、パートたちより高い給料をもらう資格があるのだろうか」という自己省察ができず、パート依存から抜け出すための道をみずから積極的に模索していこうとはしない。パートや臨時への依存は、正社員としてのプライドをも空虚にさせてしまう。
●同業他社との競争
同業他社との競争は企業の宿命だが、企業に求められる競争力は、当然のことながら最低でも平均以上の技能を発揮する力である。平均レベルの企業だと、何らかの危機に見舞われた時に切り抜ける武器に乏しいため、たちまち存続が危うくなる。平均レベル以下の企業などは論外だ。企業は常に平均レベル以上の武器を持っている必要があるのだが、後継者育成に苦慮するのと同様、企業がそうした武器を維持することも容易ではない。武器は多くの場合、自助努力型の社員によって作られ、維持されるからだ。多くの社員は自身の能力アップが勤務時間中の努力のみにとどまり、それで自分の責任が果たされている、勤務時間(給与)以上の仕事や勉強はしない、というスタンスに立っている。しかし、それはどこの企業の社員もやっている当たり前のこと、普通のことである。競争力としての武器には平均以上またはとび抜けた質が求められるが、普通の努力から普通以上の結果は出せないし、それを維持できるものでもない。自助努力型の社員が多い企業ほど強く、少ない企業ほど脆弱となるのは必然である。経営者や管理職の努力だけでどうなるものではない。名門の高校野球部は優秀な監督の手腕だけで強くなるわけではなく、選手たちの昼も夜もないトレーニングによって得ている強さなのである。企業だって同じだ。世のどれほどの会社員がそうした現実を直視できるのだろうか。勤務時間中、与えられた仕事を与えられた指示通りにこなせば給料分の義務は果たせる、そう言ってしまえばそれまでのことだ。しかし、もし一企業内の社員全員がそれをしていたら、その企業はシビアな競争の渦の中でたちまち淘汰にさらされる。
会社員のあり方にはっきりした正解は求めにくい。あとは、個々の人たちの仕事に対する思い入れ、志やプライドが、その人の企業人としてのスタンスや人生観を決定していくのだろうが、企業が求めるのは平均満足タイプの社員ではない。それは経営者の要望だけでなく、世間が企業に求める「質の良い会社」という要望の必要条件でもあるのだ。しかし、多くの会社員は平均満足レベルかそれ以下の位置に留まって、たとえパート依存の矛盾を自身の中に抱えていようとも、なるべく楽をする道を優先したいのである。しかしそういう人自身が一消費者の立場に立てば、平均レベルを大きく上回る企業の製品を買い求めたいと常に思っているはずだ。その人はそうした自己矛盾をどう捉えるのだろうか。平均レベルでは存続し得ない企業と平均以上の努力をしたくない会社員、その双方がせめぎ合いを続け、バランスを取りながら綱渡りのような危うい足取りで進んで行くしかないのだろうか。
★追記 “組織改革”
改革は組織運営に滞りが生じた時に必要になる。企業であれ労組であれ、自治会組織であれ幼稚園のママさんの会であれ、どこでも同じことだが、改革に着手しようとすると、既存の温室に馴れてしまっている人たちからの異論・反論を浴びるものだ。異論・反論には「時期尚早」「石橋を叩いて渡るべき」「従来の伝統に合わない」などというような言葉が使われがちだが、そう言う人たちの多くは、みずから適切な時期を判断してはくれないし、率先して石橋を渡ってもくれないものだ。面倒なことは先送りしたいとか、自分が改革の責任を負う立場に立ちたくないとか、組織内に波風を立てたくないとか、そうした意識が言葉の裏に隠れている場合がほとんどである。多くの意見を勘案することは必要だが、時間をかけることは改革案を骨抜きにさせる時間を作るのとあまり変わらないことが多い。結果、改革が手遅れになって何らかの弊害が発生したとしても、「時期尚早」や「石橋を叩いて」と言っていた人たちはいっさい責任を取らないのが世の常だ。改革は、成功率を高めたければスピード勝負での実行が必要となる。批判を恐れずに改革に突入できるか、しがらみに気がねして足取りを鈍らせ潰されてしまうか…。
ひとつ言えるのは、省庁、警察組織、教育委員会、企業、各種労組など、どこにおいても、組織に滞りや腐敗が生じる大きな原因のひとつは、しがらみに対する「気がね」によって、言うべきことやするべきことが出来ずに通過させてしまうことにある。どこかの組織の腐敗がマスコミを騒がした時などは、それを目にした私たち一般者も多くは批判する側に立つが、では自分が所属するさまざまな組織を見渡して指摘・改善すべき問題点を見出した時、しがらみに気がねせずにその改善に向けて発言・行動ができるのか。その自己省察なくして誰かのやったことを批判するのは片手落ちではなかろうかと思う。言うだけなら誰でも立派なことが言えるのだ。
(2005年1月・記)
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