「いさぎ」という言葉が、近年、市民権を得つつあるのだろうか。たぶん、6〜7年くらい前からかと思うのだが、テレビで「いさぎ」という言葉を聞くようになり始め、今では多くの芸能人やスポーツ選手、一般人がそれを使うようになっている。
使い方としては、「いさぎいい」、「いさぎがいい」、あるいは、「いさぎ悪い」、「いさぎが悪い」というところだ。言うまでもなく、これは「潔(いさぎよ)い」から発した言い方なのだが、不思議なことに、私が見る限り、これらの使い方を“間違いである”として正そうとする発言などを、少なくともテレビ画面上ではまだ見たことがない。さすがに、アナウンサーやナレーターなど、言葉を商売にしている人たちがこれらの言い方を使っているのは聞いたことがないのだが、芸能人で冠番組のMCを担当している人たちの中には、使ってしまっている人の姿はしばしば見ることがある。たぶん、始まりとしては、誰かがテレビで言うようになったために、広く一般に浸透していったということだったのだろう。
まず、結論から言えば、「いさぎ」という言葉は存在せず、各種辞典類を見ても掲載されていない。これはおそらく、どれほど「いさぎ」が一般に浸透していっても、辞書に掲載するのは困難だろう。「潔(いさぎよ)い」の語源については複数の説があるようだが、おおむね、「清い」を語源としているらしい点で似かよっている。ある辞書によれば、「勇ましく、清い」が語源であるという。つまり、「勇(いさ)清(きよ)い」が転訛して「いさ・ぎよい」となり、いつしか清潔の「潔」の字をあてて「潔(いさぎよ)い」との表記になった、ということなのだろう。「いさ・ぎよい」なのである。「いさぎ」で区切って、「いい」や「悪い」を後ろに付けるべきものではないのだ。むろん、「潔」の字に「いさぎ」などという読み方はない。
たとえば、一昔前に使われていた「ナウい」という言葉は、英語の「Now」に形容詞の語尾「い」を付けた造語であり、今では辞書類にも掲載されていて、語源についてもそのように書かれている。「ナウ(Now)」がもともと単語として存在していたものなので、「ナウい」が形容詞のひとつとして辞書にもすんなりと掲載位置を得ることができたわけだ。しかし、「いさぎ」については、もともと単語として存在せず、後ろに「いい」か「悪い」を付けなければ使いようのない言い方であって、一般に広がっているといっても、「いさぎ」自体には言葉としての意味がないのである。「いさぎ」って何? と聞いてみても、誰ひとり答えられる人はいない。辞書に掲載するのが困難だというのは、そういうことだ。
「いさぎよい」の「よい」の部分を誰かが「良い」と混同して使ったために、「いさぎ」が分離されてしまって「いさぎ・いい」となり、「いさぎいい」が使われ出すと「いさぎ悪い」という言い方も使われ出して、今のように「あの政治家はいさぎが悪いですねぇ」などと言われるようになったのだろう。さすがにまだ、漢字表記で「潔(いさぎ)が悪い」などと使う例は出て来ていないようだが、今後、この言い方はどうなっていくのだろうか。
義務教育の国語の授業で、教師たちが「“いさぎ”は間違いですよ」と教えているのかどうかは知らないが、もし教えているとすれば、現在のテレビや一般での「いさぎ」の使用は、いっときの現象に終わるのかも知れない。テレビでも一般でもおそらく、すでに義務教育を終えている人たちによって「いさぎ」が使われている、つまり、間違いを指摘してくれる人のいない人たちがここ数年で使い始めた言い方であり、なお使い続けているという状況なのだろう。テレビの出演者たち自身が自己修正をしていきそうな傾向も見られないので、これからもし義務教育の世界で修正の努力がなされていくとしたら、「いさぎ」は遠くない将来に一般からもテレビの中からも消えていく可能性はあるのではないか。
時代によって言葉の意味や使い方に変化が生じるのは当たり前で、特に今のように情報の早い時代では当然加速度が付く。それはそれでいい。一時期言われていたKY(空気が読めない)などは、各単語の頭文字から取っているので、略語として語源も意味も成立し(本当は、「空気が読める」でもKYと略せてしまうので、略語としてはいい加減なものだが)、「KY発言」などの熟語的表現をともなってそれが広く普及・浸透すれば、いずれ辞書に掲載される必然性はあると思うが、「いさぎ」に関しては、私は意図的に改善していくべき言い方ではないかと思う。これは単なる間違いというレベルではない。言葉としておそらく永久に、語源も意味も与えられることがないだろうから。
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ついでに言うと、「他人事」と書いて「たにんごと」と読むのが普通になっているが、これも「いさぎ」と似たような経緯で生じたのではないかと思われる読み方である。本来は「ひとごと」と読むのであり、表記は「他人事」と「人事」の2通りがある。推測だが、「人事」という表記だと、「じんじ」という別の言葉(人事異動などの「じんじ」)と混同しかねないため、それを使うのを避ける傾向から、一般的には「他人事」という表記の方が多く使われるようになり、それを誰かが見たままに「たにんごと」と誤読したことによっていつしか広がってしまい、普通に使われるようになった、ということだったのではないか。
今となっては、多くの人が違和感なく「たにんごと」という読み方を使っており、パソコンでも「たにんごと」と入力・変換すれば「他人事」との漢字表記が出てくる。しかし、各種辞典類をひもとくと、「他人事」の読みはあくまで「ひとごと」だというスタンスに立っているようであり、「たにんごと」で辞書を引いても何も出てこない。間違いは間違いとして、国語の世界では容易に認めないらしい。しかし同じ間違いでも、こちらは「いさぎ」と違って、いずれ辞書の中に掲載位置を獲得できそうな気はする。
(2012年5月13日・記)
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