人は過去・現在・未来という時系列の中で考え、物事を整理・把握している…つもりでいる。そして、その過現未の中でもっとも、いや、唯一確かな存在だと思っているのが、現在、つまり「今」ということだろう。今この瞬間に見えているもの、聞こえている音や触れているもの、考えている事々、人が五感と記憶と思考力をもって捉えている現在のそれらが「今」であり、そこを「私」という存在を自覚する物理的・精神的なよすがにして、皆でそれを同質な、普遍的なものとして共有している…つもりでいるのだ。しかし、実際は「今」という普遍的な基準は、厳密には固定されておらず、したがって「私」という個の自覚と時間上におけるその確固たる立ち位置も固定しがたい。過現未という時系列も主観に左右されるあやふやな概念である。「今」と「私」という、ほぼ同一物と言ってもいいであろうこの両者は、まったくその正体が判然としないのだ。
まず、私たちにとって共有されているはずの時系列上の「今」について考えてみるが、取っかかりとして例をひとつ挙げるとすれば、それは星であろう。夜空に輝く星々は、地球との間にたいへんな距離を隔てているが、仮に地球から100万光年の彼方にある星の輝きを見あげた時には、その星の100万年前の姿を私たちは見ていることになる。その星から発せられた光が地球に届くまでに100万年かかるのであるから、私たちが「今」見ているのは、星自身にとっては100万年も前の「過去」の姿だ。宇宙にみる星たちはすべて、千差万別の距離を隔てた「過去」の姿であって、それぞれに主観的な「今」という時間があるとすれば、それらの間の距離をゼロにしないかぎり、相互の「今」が時間差ゼロで連結・共有することはない。「今」という普遍的な基準を固定しがたいのは、そういうことだ。主観的な今と、客体それぞれにとっての今は、普遍的な時系列上にならぶ同質の「今」であると断定できる物理的根拠がないのだ。
もっと身近な例でいえば、太陽である。太陽から発せられた光が地球に達するまでには、8分17〜19秒(ざっと8分としておく)ほどの時間を要するという。つまり、私たちが空を見上げた時にみる太陽の姿は、私たちにとっては「今」の姿だが、太陽自身にとっては8分前の「過去」の姿なのである。位置もそのぶん、見た目とは違うところになっているはずだ。私たちは太陽と誤差ゼロで「今」という時間を共有することができない。共有はすべて記憶と推定という予測の範疇(共有しているつもり)に入ってしまうのだ。極端にいえば、太陽が一瞬にして消滅したとしたら、私たちがその事実を知るのは8分後になり、その間は私たちにとって太陽の実在は記憶に基づく推定の範疇に入る、それが推定に入るとすれば、今この瞬間に太陽で何が起こっているか分からない私たちは常に、太陽が推定を脱して実在の今という範疇にあることを知るのが物理的に不可能だということだ。そして、太陽が消滅した事実を知った時点で、それはすでに過去の出来事として私たちの脳に入ってくる。私たちは太陽の過去の姿しか捉えることができないのだ。そしてその逆も同様だ。もし太陽に私たちの姿が見えているとしたら、それは、私たちからすれば8分前の私たちを見ていることになり、太陽に意思という主観があるとすれば、彼には私たちの実体としての存在を確認するすべがないのである。物理的な距離で隔てられている限り、双方の主観的な時間差がゼロで結びつくことはない。主観的な「今」は、それぞれ主観の持ち主だけのものであって、時間に推定以外の普遍的な基準はない。私たちが時計によって認識している時間は、それを見る立場にとってのそれぞれの主観の範疇に属しており、主観の枠を越えてまったく同じ時間を共有できるものではないのだ。
そしてそれは、人間と星との遠距離間だけにとどまる話ではない。たとえば、私とAさんが同じ時計を同時に見たとする。この時、時計とAさん、時計と私、そしてAさんと私の間にはそれぞれ物理的な距離がある。この時、各自が「今」という主観的な時間を持っているとする。仮に、時計とAさんとの間に、光の速度で1秒の距離があり、時計と私の間には光の速度で2秒の距離があるとする。この場合、時計自身が12時00分00秒を指した瞬間、Aさんの目には11時59分59秒を指す時計の姿が見えており、私の目には11時59分58秒を指す時計の姿が見えている。それぞれの持つ主観的な「今」を“客観的な立場で観察する者”からみたと仮定すれば、時計とAさんと私のそれぞれの「今」は、1秒ずつのズレが生じていることになる。距離の差は必ず、主観的な時間どうしのズレを生じさせ、それらが推定ではなく、すべて時間差ゼロで同じ「今」を共有することは物理的に不可能である。“客観的な立場で観察する者”という設定も、あくまで推定上の設定に過ぎない。時間差ゼロで「今」の共有を可能にするためには、これらの三者が“同一体でかつ同一意思”にならなければならないだろう。たとえ1ミリという距離であっても、相互の間に主体と客体としての距離がある限り、光が伝達する時間が発生しているのである。私たちの五感ではその差を体感としてとらえることがまったく出来ないため、これらの三者が完全に同じ時間を共有しているかのように思い込んでいるに過ぎないのだ。
そして、そうした時間差は、自己と他者の間のみの話ではなく、自分自身の体にも起こっている。たとえば自身の手のひらを見た時、手と目との間には距離があるので、陽光なり室内灯なりの光が手のひらに当たってその映像が目に届くまでには、何万分の1秒か何億分の1秒か分からないが必ず時間の経過がある。人は常に、自身の手のひらの過去の姿しか見られないのであって、手のひら自身の「今」を見ているのではない。ほんの1ミリでも0.1ミリでも距離がある限り、手のひらの「今」と眼球の「今」とが時間差ゼロで連結することはない。そしてそれは、光によって事物をとらえる場合ばかりではない。人間が持つ感覚機能のすべてについて、同様のことが言える。
たとえば熱はどうだろうか。目の前の冷たい机の上に手のひらを置いたとする。人はその冷たさを「今」の冷たさとして認識するのだが、実際、その冷たさは手のひらから脳へとつながっている神経を伝わって、脳内で過去の記憶との照合を経た上で「冷たい」と判断している。つまり、手のひらから脳までの情報伝達と、判断に至るまでの情報処理にそれぞれわずかな時間の経過が発生しているのである。ということは、脳が最終判断した「今」の冷たさは、机自身にとっては「過去」の温度なのであり、机自身は、手のひらが触れて脳によって最終判断に至るまでのあいだの時間経過分、手のひらの温度によって温まってしまっているのである。人が机自身の主観的な「今」の冷たさを感じ取ることはできず、たちまちのうちに、星や太陽の光と同様、過去の出来事という推定の範疇に入ってしまっているのだ。これは、時計を見たときの眼球と脳との間でも同じことが起こっている。眼球に届いた光映像は、視神経を伝わって脳内に至り、情報処理を経て「ただいま12時00分00秒」と最終判断を下すまでの所要時間がなければならず、時計から発した光映像が眼球に届くまでの時間経過だけでは済まないわけだ。つまり、眼球がとらえた時間と、脳がとらえた時間さえも、それぞれに主観的な差が発生してしまい、双方が時間差ゼロで連結することはできないのである。手のひらの「今」も眼球の「今」も、私という主観にとっての「今」ではないという理屈になってしまうのだ。
そうなると、いったい「私」の所在地はどこなのかという疑問が生じる。私たちは、自分の手や自分の目を「今」この瞬間に駆使しているつもりでいるのだが、実際は、私と手、私と目は、それぞれ時間差ゼロで連結してはいない。物理的な距離がそれぞれの間にある限り、ゼロでの連結、同じ「今」の共有はないのである。もっと言えば、脳は各部位の機能が分化しており、それぞれの間でのネットワーク機能によって相互の情報伝達を電気信号にもとづいて行なっているのであり、そこには情報伝達に物理的時間経過が発生しているということであるから、脳内の各部位それぞれにまで主観的な時間があり、共有不可能なものになっているのである。そしてさらに厳密に言えば、その主観的な時間と物理的距離は、脳細胞1つひとつの個体差にまで及んでいるはずである。ある脳細胞とその隣にいる脳細胞との間には、ほんのミクロン単位とはいえ物理的な距離があるからだ。脳細胞それぞれが独立した存在である限り、それぞれの主観による時間差の発生は避けられない。その点では、100万光年の彼方にある星と地球との距離も、隣り合う脳細胞の間にある距離も、「距離」であることに違いはないのだ。ならば、脳内のどこに「今」と「私」が所在しているのか。140億個あるとも言われる脳細胞の中のどれかたったひとつに、「今」と「私」を位置づける厳密な基準点があるのだろうか。「今」とは、そして「私」とは何なのか、どこに所在しているのか。
―「私」という個としての人格は、今までたった1つの脳細胞によって形成されてきたのではなく、目・鼻・口・耳、そして手足や筋肉、骨や内臓の駆使という、自己が持つ各パーツによる過去の積み重ねで形成されたものではないか―、という反論を試みてみようにも、なにぶん、過現未のうちの「現」こそが唯一確かな存在であり「私」であるとの認識に立ってしまっていては、過去の積み重ねという言いぶんも、やはり推定とか記憶とか、曖昧さの払拭できない根拠にすべて属してしまうのだから、過去の私も私だと言おうとしても、たった1億分の1秒前の自分さえも検証サンプルとして「今」という目前に摘出することができないのだ。そもそも、「今」という普遍的な意味での所在地が確定できないのだから、「今という目前」などというフィールド自体が設定できない。物理学にも数学にも、その他のさまざまな科学分野にも、おそらくそうしたフィールドを設定する機能はなく、この壁を越えることはできまい。科学はとても楽しく素晴らしい世界ではあるが、推定の範疇を超越して普遍的な「今」を厳密に固定する能力があるとは思えない。数学や物理学の定理、そしてその他のすべての学問は、「共有しているつもりの今」という記憶と推定の範疇にあって、同質で普遍的な「今」を固定できない。それを固定できなければ、「私」という個の存在も固定化できないのだ。
主体と客体とが、それぞれの主観を越えて同じ時間を共有するためには、“相互が同一体の同一意思”にならなければならないだろうと前記したが、そうなると、その具体的な避難場所としてはせいぜい、主客同一とか、個や自我の滅却とか、大宇宙との同化とか、時間や死の超越などというような、哲学者か宗教家が好みそうな概念を想定するくらいがいいとこだろう。実際、科学本位の世界に不信感をもつ人や嫌気がさした人が、そこを避難場所にして身体の安定を得ようとすることは珍しくあるまい。「今」とか「私」を物理的な実体のない想念として相対化してしまうということ…。しかしそれは、そう思い込める人たちにとってのみの、ややもすれば独りよがりな世界観に過ぎず、科学に越えられない壁があるのと同様、「思い込める人たちにとってのみの結論」という壁に突き当たってもがくことになるのではないか。だから歴史上、多くの偉大な思想家たちがいくら頑張っても、ほとんどの人々は釈迦にもイエスにもなれず、ソクラテスにも老子にもなれないまま、過去のトラウマと未来への不安に苛まれ、自分の立ち位置が分からずに苦悩し続けてきたのではないか。哲学や宗教が科学同様に素晴らしいものであっても、やはり問題の解決能力があるとは思えない。
「今」と「私」の所在地…、それを見つける方法も、それを無視する方法も、私にはさっぱり分からない。物理的限界として、「たった1億分の1秒前の自分さえも検証サンプルとして摘出できない」のであるならば、「今」すなわち「私」という範疇には体験として属し得ない“死”という出来事が、この問題を解決してくれることもまったく期待できず、死は答にならない、ということになる。そして死に期待できないなら、おそらく死と表裏一体である“生”にも期待できないという、スタートもゴールも見えない更なるスパイラルの深淵で翻弄され続けるしかないのだろうか。
(2012年10月15日・記)
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