最近たまたまキアヌ・リーブス主演の『マトリックス』という映画を観た。その中では、我々が暮らしている現実世界は「実体のない虚構」として描かれているが、我々にとって実体や現実世界とは何なのだろうか。
例えば、冷たいジュースの缶に触れば冷たいと感じ、我々はそれを現実だと考える。冷たさは手のひらから神経を伝わり、脳内での情報処理の結果「冷たい」と認識される。しかし、接触から認識までの一連の現象には必ず、刹那の時間経過が必要となる。接触と認識が時間差ゼロで連結することは物理的にあり得ない。ということは、冷たいと思った時点ですでに、それまでの一連の時間経過の分だけ、缶は手の体温によって温まっている。つまり我々が「今」という現実のつもりで感じている冷たさは、缶にとっては過去の出来事なのである。
視覚によってとらえる場合も同じだ。缶の形や色は光の伝達によって眼に届き、それを脳内の情報処理の末に認識する。その一連の現象にはやはり刹那の時間経過が必要であり、我々が形と色を認識した時点で、それは缶にとってはすでに過去の痕跡となっている。
缶と我々の間の時間差をゼロにするためには、我々が缶自身にならなければならない。それは缶だけでなく、すべての存在に対しても言えることで、その存在の中には我々自身まで含まれてしまう。なぜなら、我々が自分の存在を意識するということは、つまりは缶と同様、認識に至るまでに要する刹那の時間がそこに生じてしまうからだ。
我々の五感にとって実体は「今」に属する。過去は記憶や記録、未来は予測や願望であって、どちらも実体ではなく概念だ。となると、過去しかとらえることのできない、つまり対象物の「今」を知覚できない我々にとって、自己存在も含めたこの広大な現実世界は現実ではなく、すべてが過去の概念世界に属する、すなわち「実体がない」ということになるのではないか。
映画の中の「実体のない虚構」という設定を単にストーリーの一背景と見てしまうと、作者が作品の根底に広げた哲学が見えてこないのではないか。「スプーンは無いんだ」という少年の断定的なセリフは、社会のあらゆる従属的な既成概念から心を解放しようとする主人公の胸に響いていく。そのシーンには、作者が言わんとすることが何であるかが象徴されているように思われる。
(2001年・記)
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