国友一貫斎史料原文


国友一貫斎史料原文

〈本文中で現代語訳風に引用したおもな史料の原文です〉


※ 出典が『一貫斎国友藤兵衛伝』のみとなっている文書は、同書自体に誤字・脱字が含まれている可能性があります。
現代では差別用語とされている言葉も若干含まれていますが、史料的見地から原文のままに掲載しています。


●国友鉄砲鍛冶の盛衰と国友一貫斎

   *気吹舎文集(平田篤胤筆)
〈前略〉斯て此をぢ。往し年ごろ四年ばかり。大江戸に来て在けるほど。己とは方外の人なる物から。互に物の道理を窮むる事をし。好み合ふより睦魂あひて。此よなく親しく交れるに。此をぢ書こそ読まね。神の道を尊みて。其事をば。余がをしへを善として。問ひあかすにぞ。上のくだり記せる鉄の鏡の考へを。委曲に語りて。〈以下略〉 (『平田篤胤全集』第15巻、気吹舎文集p.353、および『一貫斎国友藤兵衛伝』p.384)

   *平田篤胤書簡
〈前略〉不相替御もかきの由誠に同病ニ御座候事御察之如くに候誠に千里を行く馬は有れとも其を乗る伯楽なき事を古人も憤り候は尤もなる事にて目くら千人目くら千人の世の中には困り入候事に御座候世に真の目明たる伯楽だに候へば御互にもがきは相止み候事なれと是非なき物と歎息仕候事に御座候アヽアヽ〈以下略〉 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.389)

   *書簡(山田大円について)
〈前略〉右大円と申医者は目之療治之事は誠に口者にて御座候尤脈所え御抱之医者にて候所当年御当地え罷出候所日々之病人凡百人より百八十人も有之先江戸京大阪に無之と申事に御座候私共誠に兄弟の様心安仕候右之人工夫仕候儀は如何体之儀にても阿蘭陀之事工夫被致候間折々油を掛けに罷出申候〈以下略〉 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.168)



●国友一貫斎の銃砲製作

   *気砲に関する手記(風砲製作伝来記)
初発山田大円老蘭人に承候由文化十一戌年同人より造方伝来を請夫より色々雛形を拵相伺相談仕候処無相違出来仕候工夫相調同十二亥年小笠原相模守様大阪御家番之節右風炮出来方伝来を請工夫仕候段奉申上候処試に壱挺被仰付夫より於国元取掛り申候処同十三子年御呼出付出府仕細工之儀打捨置候処文政元寅年中春大円老出府に付右之段々御屋敷様え被奉申上候処試に壱挺被為仰付難有早速取掛り候〈以下略〉 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.169)

   *気砲記の序文
  気砲記序  蘭名ウインドルウル 俗ニ風砲ト云
昇平久シトイヘトモ安シテ不忘危ハ聖人之重戒也故ニ人々不廃武術就中銃砲之伎最盛ニ行ワル種々工夫便利ヲ尽セリ予嘗テ蘭人携来リシ気砲ノコトヲ聞クニ銕嚢中ニ気ヲ集メ是ヲ銃箇ニ培続シテ打放之其銃力三四分許ノ板ヲ九尺程ヘダテ試之鉛子忽板ヲ穿ツ勿論火薬ヲ不用火縄ヲ不仮誠ニ奇々妙々之術也然レトモ其制二発ニテ気皆散尽ス三発ハ打難シ故ニ武用之備ニナラズ徒ニ小児ノ弄ヒニヒトシ実ニ不用ノ品ナリサレトモ余其機巧ノ術ニ感シ若シコレニ工夫ヲ加エハ武用万分之一ニモ補ヒ無ニアラズト千辛万苦其理ヲ推窮メ且知己之人山田大円子ニ謀リ蘭人旧制ノ上エ別ニ新意ヲ加ヘ制作セリ今試ルニ鉛子遠奔リ堅木必貫打放ノ数勝於蘭制数十倍ト云ベシ然レトモ是等ノ小技何ソ深ク論スルニ足ラン哉今此書ヲ著述スルモ自ラ奇功ニホコルニ非ス只近来此気砲ノ制ヲ聞伝エ来問フ人日々門ニ満ツ一々対フルニ暇ナシ故ニ自ラコレヲ図写シ四方好事人ノ求メニ応スト云爾
  文政二年春 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.181、および『江戸科学古典叢書』第42巻p.173)

   *気砲に関する申し渡し
先達て相届き候速水藤兵衛気炮張立の儀御届け申上候処伺書差出すべく有田播磨守殿相達せられ候に付き伺書差出置き申す処右気炮張立の義以来無用に致すべき旨申し渡し候様大久保加賀守殿仰せ渡され候間これに依り申し渡し候得ば其意藤兵衛え右の趣き申し渡すべく候以上
  辰十一月 (『江戸科学古典叢書』第42巻解説p.14)

   *鉄砲製作法の規格統一について(国友次郎助宛ての手紙)
去冬ハ私不存寄難有儀有之尤太夏松平越中守様江御出入被為仰付御目見仕此儀者先達而申上候通リニ而御座候然る処去十二月六日越中守様御隠居松平楽翁様右者田安様より御養子ニ被為入候御方ニ而御座候尤武芸其外万端炮術迄も其元を御取調誠に何ニ御ぬけ目無之御名君ニ而御座候右者御聞及も可有之と奉存候右御側役衆首藤金八殿と申人是ハ中島流炮術家ニ而此節房州御手当御台場掛リ被仰付被罷出有之候所此人炮術鉄炮之儀ニ付十二月六日ニ楽翁様江伺ニ被罷出候所右御尋之儀甚六ケ敷事共ニ而楽翁様にも御存知無之候ニ付幸国友藤兵衛出府仕居候間是江御尋候段被仰聞御定を受金八殿御殿より早馬ニ而会所江御越尤楽翁様より種々之御難モン御尋二付委く私共御答申上候所甚御悦ニ而其旨早速被申上候所翌七日又々金八殿御使ニ御越楽翁様大ニ御感心被為遊厚キ御悦の由右ニ付何卒書面ニ仕伝来致呉候段御意ノ趣被申聞候二付私共誠に冥加ニ相叶候儀尤鉄炮之儀者往古より未法立仕者無之候ニ付年来工夫仕壱分玉より拾貫目玉迄ニ万事ニ法を立譬御手当之節鉄炮職之者人々少ニ而差支候節右之書物を以御役人方御下知有之候得者如何程の大筒ニ而も張立も出来仕其外張立鍛方ワカシ方ニ而筒之強キヨワキ事併炮術之元万事往古より無之候新規之工夫仕法を立何卒折を以支配迄御聴ニも入度志願之所右御太主様御好ニ預リ候儀私冥加相叶候儀ニ御座候間委敷相認メ上納可仕と申上候所甚御悦ニ而又八日ニ御便被下十日ニ築地御殿江罷出候段御申越十日ニ右書物相認め持参仕候所私書面出来兼四ツ前ニ漸出殿仕候所其日御殿御直ニとつニ而御下屋敷江被為入候所江罷出弊印とゝまり右之書面御覧之上今日俄ニ下屋敷江罷出候間重而御目見被下候段被申聞結構成御料理頂戴仕候所又十二日ニ首藤金八殿御使ニ御越楽翁様御意之趣年来鉄炮之儀を取調候所是迄ゑとく不致候所此度書面ニ而はつめい致厚く忝尤公儀御手当等蒙此方之為ニ而無之公儀之御為ニ相成厚ク忝能鍛錬を被致たまれ人だと御感心之御答奉蒙御意候而絹地ニ御直筆之御書ニ而御年来楽翁様御取調之所と私共工夫之所とがつたひ仕人之知事少き事を被為伝候と申儀を御認メ拝領仕外御直筆御書壱枚併私共先祖拝領之能当之能之字を書判被為遊被下置拝領仕其上白銀七枚拝領仕首藤氏より金百疋頂戴仕誠に天命ニ相叶外聞実意共細工冥加ニ相叶末代之規模ニ相成難有仕合ニ奉存候〈以下略〉 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.205)



●多彩な発明・考案

   *鋼製弩弓の製作由来書
  此度始て製造仕候弩之儀は先達而江戸表ニ而  松平楽翁様江気炮上納仕候節  楽翁様被 仰候ニは往昔より弩ニ品々有之中ニ茂孔明弩と云ヲ矢継無之一発毎ニ箱より矢落来り候様之品茂有之候所何れ茂業は不及云四五間之所ニ而も当リ兼畢竟手遊同様之物ニ而有之候間今少シ業等モ被用候様ニモ可相成様其方可致工夫由被 仰附候ニ付其後追々相考候所元来弓は弓之中墨ニ弦掛リ矢ハ弓之横手ニ附候得共手練之活ヲ以テ其当り附キ申候弩は台之横より弓ヲ通ヲし其弓之上を矢ハ通リ申候間弦ハ台ヲ摺リ勿論クワツモ無御座候故矢ノ弦ハナレノ時矢シヤクレ候ニ依而当り難定リ猶間数も通り兼候故先ツ弓ハ継弓ニ仕矢ハ弓之中墨ヲ通リ尤大弓ニ而カタ物ヲ射申候時弓ヲ推ス手之心持ニ而カタ物貫ケ候由弓術家ニ承候間此弩ニ其味合ヲゼンマイ仕掛ニ仕弦ヲ掛ケ申候時弓一寸五分程前江引附ケ弦ハナレノ時又弓ヲ壱寸五分センマイニ而向江推ス此仕掛ニ而矢ノサエ格別ニ相違仕又当りハ目当テヲ立テ七間半十五間廿間廿五間と出合ヲ定メ段々相様シ申候所当りは誠ニ鉄炮ニ格別相違不仕業は強キ弓ニ同シ然ル所竹ニ而拵申候弓ニ而相掛試申候所荒木之弓ニ而は暑ニ不被用漆塗ニ仕候而も日々相用候得ハ次第ニ力劣江又一日之中朝と昼夕と弓ニ強弱御坐候而迚茂小間ケ成る次第難定候ニ附又段々相考申候而此度釼ノ鍛ひ弓ニ仕候所此鍛加減誠ニ難渋ニ而弓ヲ半月ニ引候而オレズマガラズト申所甚六ケ敷御坐候得共追々相試漸壱挺出来仕候間別紙ニ大図仕奉差上候以上 (「国友一貫斎文書」および『一貫斎国友藤兵衛伝』p.259〜262)

   *神鏡の製作由来書
  此御鏡文化之度
水府ニ公御宝鏡有之表江大陽ヲ請候時裏成模様表江請候器江其影顕れ光国卿段々御穿鑿被為有候得共其理不訳候ニ付春水ト申唐人窺是ハ理ニ不与神鏡之由申上候ヨリ神鏡ト御称有之候処御先代
中納言様
被為召此理ヲ御尋ニ付愚意之儘奉申上候処被遊御満悦其理ヲ御側役衆ニも不為見認メ差出候様被為仰聞候間一間退キ相認メ封付上字ヲ記
上覧ニ備候処御感不斜夫より八田之御鏡之御形ニ仕裏ニ幣ヲ置大陽ヲ受候時幣是顕候様被為仰付其通リ製作仕奉上納候処御満悦被為有品々拝領物仕其後
南紀前
大納言様  御目通リ之節
水府公江上納之御鏡出来可仕哉御尋ニ付而出来可仕候得共数出来仕候而者御調法ニ不相成候間諸家より被仰付候得共御断可申上段御側衆関十兵衛殿被申聞其由奉申上候処御用人小笠原仁五左衛門殿其儀者此方様より御拶挨有之候間出来可仕段被仰付奉畏候処又別段御好ニ而壱寸五分之御鏡ニ五獄之真景ヲ置大陽ヲ請顕候様被為仰付奉畏出来仕奉上納候処御満悦御感不斜品々拝領物仕其砌御船被下和哥浦拝見被仰付御饗応無限奉恐入私生界之面目不過之難有奉存候〈以下略〉
  文化之年                一貫斎眠龍
 藤野大人 (「国友一貫斎文書」および『一貫斎国友藤兵衛伝』p.268)

   *神鏡について(平田篤胤書簡)
右鉄鏡うらに摩利支天之梵字御ほり付之由此は甚だ之俗事以の外宜しからざる儀に御座候間必々御止め可被成候小子先年鹿島香取両宮ヘ納候者両面にうたせ申候右者少々考ヘ御座候ての事なり然れども常の鏡に両面はいかがに御座候ヘばやはり先達ての御幣かまたは榊などを御付可被成候一体神代大御神ヘ献リ候神鏡を榊に付て上リ候因縁も御座候得者なり榊にシデを下げ候形もよろしく候事鉄弩も出来之由是また拝見致し度事に御座候御註文は無御座候得共鉄鏡の因縁もまた風炮の事次手ながら相認め候是は謂ゆる御まけにかねて貴君の名物たる事を書記し度存候処今度はよき序なる故に認め申候 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.273)

   *距離測定器に関する書簡
一土田氏町見即座の見積りと申事有之是ハ甚心元なく尤是ハ菅氏ニ而も町間見付候人者向々ニテ或は木竹何ニ而も有之候得者大方ハ積り出来候得共委敷事ハ知レ不申甚是ハ心元なく御座候尤町ケン見積りの道具此度私共珍敷道具拝見仕奥タントヲト申者是ハ天ノ星迄も委敷町間積り出来阿蘭陀より相渡り候品ニ而山田大円老手ニ入弐十両ニ而京極周防守様江御世話被致候尤仕掛ケノカガミ二枚外仕掛の丸キ目かね五枚四角成目かね五枚夫ニ遠目かねを仕掛け段々ニ向之者を引寄候様ニ拵ヘ下ノ所ニテ町間ヲハカリ候様ニ仕掛ケ有之候誠に珍敷道具拝見仕候大円老是ハ随分出来候由被申居候町間の遠目かね事も申遣す (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.276)

   *青銅製御懐中書の説明書
  青銅御懐中書
一元先之処に朱肉を入次ノ所糊入ニ仕候所漸工夫付継立ノネシノ中ヲ通シ糊ノヘラノ柄御ミヽカキノ所ハ朱肉ノ処迄通シ置候得者ツカニ糊付不申又ハ墨入糊入も少しニ而も長ク相成申候此御筆ハ誠に大骨被仕候
一御印為御彫被為遊候時右青銅蝋吹難出来カネ故差込内より少しひろけ候而トメ候事故御印彫候時強キ事仕候とねしユルミ候間
         如此鉄ノ棒ニ松ヤニヲ付中ヘ差込候は
     御印を彫候様被仰付被下置候
     奉願上候此線を間違不申候様被仰付可被下候
右青銅ハ錫鉛等々加候金と違黒ク相成候事無御座候得共折々綿絹御キレニ而御ふき被為遊可被下候已上
   代金三歩弐朱
 外様より重るよりハ壱両壱分
   子十月              国友眠龍 (「国友一貫斎文書」および『一貫斎国友藤兵衛伝』p.277)

   *御懐中筆の使用説明書
  御懐中筆御用ヒ様
一墨を入替候時元先共捻を抜綿を抜筆を中江押込候得者先江抜ケ申候夫より筒ノ内并ニ筆共水ニ而能洗候而元之通ニ筆を元より入候得者筆ノ先少シ出候をツマミ引出シ元之通ニ仕夫より墨を随分コヲク仕候而右ノ筒江八分シメニ相成候程入申候尤墨入候時元先共捻を抜候而墨入申候先捻差置候而者墨難入候尤墨入候時筆ヨリ墨おち候者ぬくひ候事跡は能程出申候
一墨カスリ候得者  此所をツマミ少シ差込申候
又墨出過候者少シ引出シ候と宜敷筆ノ抜さしニ而過不足之カケン出来申候但墨ノコヲキ薄きニ而墨出方過不足も有之又筒御懐中ニ而アタヽマリ候時墨太ク出申候又筒ヒヱ候時者墨カスリ申候其時少シ御アタヽメ御用ヒ被下候様尤仕込候時程能仕置候得者其余墨出方過不足者寒暖而已之事ニ御座候猶御考御用ヒ被下候様
一筆先損候者御差替之時筆は真書ニ而毛太き方宜敷候
   右之通御試御用ヒ可被下候
  文政十一子年           一貫斎国友眠龍 (「国友一貫斎文書」および『一貫斎国友藤兵衛伝』p.278)

   *玉燈の使用説明書
一とうしん四筋三寸七八分位生しふニつけ木綿の上ニならへ能干ハ心実直ニ相成り候様ニ心得とふしん一体を油ニ入蛇腹ととうしんのかたき不申候様実直ニさし印迄に水を入其上ヘ油ヲ入紙燭にて燈し明らかなる事奇妙也幾夜も用ひ候へは水濁り水仕替候時ハ底ニ捻有捻ヲシ油ニ而留メ置候捻ヲ貫き候ヘハ水ぬける也油少しも捨リ不申候生アクニ而あらひ水をなかし木綿切ニ而ふき綿切ニテ清ふき致シ候ヘハ元のことく美敷相成候毎々かくのことし (「国友一貫斎文書」および『一貫斎国友藤兵衛伝』p.279)

   *浮タスキ注文書
一浮タスキハ羽二重一幅弐ツ折長サハカネニテ六尺位
一浮袋是ハ頭巾之如クニ相用ひ首にて能クハリ申候図ハいか様ニ而も宜敷御座候只頭より首迄掛リ候様仕立可然御座候尤目ガネ弐ツ入候得者能見ヘ宜敷御座候 (「国友一貫斎文書」)

   *阿鼻機流大鳥秘術の説明書
  阿鼻機流
   大鳥秘術
是は大に鳥の形に作り人を乗あおり立れハ空を飛行也箱の中に木馬の様成物を作り人是に腰懸てたゝき羽尾羽共につかふ也片羽三間に仕立れハ尾ハ一間にて吉 (「国友一貫斎文書」)

   *真金の鏡に添ふるふみ(平田篤胤筆)
近きほど西洋なる国より。風炮とて。火力を仮らず。風吹こめて放ち出る鉄炮の。いさゝか其形ばかり造れる物の渡れるを見て。固よりこよなき考工者にし有れば。なほ種々に考へ造り試みて。遂にいと奇異きまでなる。風炮なも造り出ける。その工みの巨細なる事どもは。気砲図とて。身づから記せる物あるに就て。見るべし。猶この外に。形は常の鏡ながら。日向に照せば。裡なる絵やうの影うつる鏡を始め。人の目を驚かす。奇しき物ども。数しらず造り出たり。中中に世の工夫者など云ふ。生青き徒の。かけても及ぶべき翁にあらず。〈中略〉其後しも国友よりは。をりをりは消息して。いと親やかに訪るゝを。己は例の事おほく。消息かく事の物うき性にし有れば。常に心にたえぬ物から。返事さへに。其度ごとには。贈らで過せしを。此八月の廿日と云ふ日に。七月の二十五日と云ふ日に書きて。早馬使に出せる。消息の来れるを見れば。鉄鏡を造るわざを考へ得て。いと麗しく造りいで。また鉄の弩をも造れる由しるして。彼神世の起源を。疾くかき記し賜ひねと云ひ遣せたり。 (『平田篤胤全集』第15巻p.353、および『一貫斎国友藤兵衛伝』p.196)



●天体観測への情熱

   *望遠鏡に関する手記(成瀬隼人正関係)
此度御上覧奉願上候テレスコツフ遠目鏡右者成瀬隼人正様ニ而蘭製之テレスコツフ御目鏡拝見被仰付其後拾四五ケ年程打掛リ漸出来仕候 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.282)

   *望遠鏡に関する手記(間重新関係)
又大阪にて測量方御役人間五郎兵衛え江戸天文方先生足立左内殿より私右目鏡製作之儀御聞及にて右五郎兵衛方え申参り候儀御用に相立候品哉見届ケ申越候様参り候由ニテ同人ヨリ早ク披見致度段度々被申越尤同人方ニモ蘭製之テレスコツフ目鏡所持ニテ為見申度と段々申参り候に付持参仕候所只今私出来之目鏡蘭製トハ業モバイ余大キク見え引付も余程違同人大ニ被致感心蘭製よりも格別に能出来之由被申聞其由早速江戸表に申遣し候様被申聞 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.255、および『近世日本天文学史(下)』p.591。但し、後者は『藤兵衛伝』からの引用)

   *「白昼水星南中実測記」(間重新筆)
〈前略〉西洋には近年測器にテリスコップを用ること往々見ゆ此鏡にあらずんば日月星の極大を視る事成らざるなるべし論弁を俟ざる所歟拙家洋製テリスコップ一具を蔵せり長さ一尺五六寸許にして常体星鏡の五六尺許之視力を有てり今測の如き用には充てられず又友人何某テリスコッペン一器を蔵す古製と見ゆ時々借り得て観望す拙蔵に比較しては日月較々倍形までにもあらざれども鏡中に満塞する位に相見ゆ今度之を用たくありしが工面あしくて用ざる也テリスコップは銅鏡の進退によつて其視度を定む其銅鏡 本邦に於て未だ其製有らず近日江州御鉄炮師国友藤兵衛鋳工に精練なるを以此銅鏡を製造し玉も亦自分琢磨して終にテリスコッペンを製作すテリスコッペンの創製とす余去年初て見之又或侯へ買及びしも藤兵衛手元に有し時持参したるを以是亦能く見得たり遠鏡の窮理は不案内と思わるれども巧思はある者と察しぬ同人製造のテリスコップにて太陽を望み試るに太陽全体の半分は鏡外に溢るゝ位なりき小大黒点数十を見る最も其極大を見るもの歟さりながら此鏡の一難は暗きに在り凡そ物の極大を見るはテリスコッペンより外に製は有るまじき歟と思わる誠に傑出の妙工夫なるものなり三枚玉の星鏡を用事とは従来用ひ馴ざるを以歟何にとやら用ひ苦しき如く思ふものなり此鏡を能く平素用ひ馴れば両蝕凌犯等実測に係るもの此鏡器にしかじと覚ゆ〈以下略〉 (『近世日本天文学史(下)』p.661)

   *天保7年8月15日の黒点観測図
日ノ黒点者煙之様ニ相見江申候日ハ惣体火モヱ黒所者火ノモヱ不申所ト奉存夫故黒キ所ノフチ薄クにじみ候様ニ見江申候ハ煙ノ火ノ有所江カヽリ候と奉存候右黒点昼迄と昼から聊違候事も御座候又年中天気之節ニ日々窺候所大躰により候黒点ハ御座候得共同様之黒点ハ未見受不申候黒点数多キ時も又少キ時も御座候得共少しニ而も日ニ出申候右黒点左ノ下より出右之上江十日前後ノ内ニ入申候 (「国友一貫斎文書」および『一貫斎国友藤兵衛伝』p.335、『近世日本天文学史(下)』p.861)

   *「和蘭天説」の黒点解説(司馬江漢筆)
日輪ノ中黒点アリ右ノ説ト同シ小ナルモノハ甚多シ水中ニ垢ヲ見ガゴトシ日光ニ輝キテ不見ト雖日輪ノ中ニ麗テ黒点ヲナス其状チ円ナル者アリ或ハ長キモノアリ二三点或ハ五六点最モ多キコトアリ予遮日鏡ヲ以テ是ヲ観ルニ如図雪雹ヲ盂中ニ設ケ消ヲ俟テコレヲ見ルニ水底土砂アリ雹尤モ多シ土気天ニ升ルノ証ナリ雷斧ハ信州水内郡雷屋敷ト云処ニアルヲ視ル亦上州榛那山ノ神宝ニ二品アリ予ガ相識東都駿台平井氏蔵スル者アリ其余諸国ニ甚多シ日輪中ノ黒点流星ノ類ニシテ地ニ近キ天ノ中部ニアリ地気ノ土砂ヲ天気燥火ノタメニ凝結デ星ノゴトシ小ナル者ハ光リヲ不為漸滅ス或ハ堕者アリ〈以下略〉 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.343、および『近世日本天文学史(下)』p.862)



●飢饉と望遠鏡の売却

   *望遠鏡の購入願い書
天文台其他御国々之諸公様に差出し候儀は今一段能相成候てより上納仕度候間此度奉願上候御儀者十分出来迄之取続難出来別而当年不作に而私村方米無御座彦根御領分より他領え米出し候儀不相成必死之仕合に而米壱俵に付七拾五匁より八拾匁之米調右直段にても調候得者宜敷候得共調兼誠に難渋仕候に付出来秋之節来五月迄之米調置度家内一同申居候得共何分致方無御座候間只今取掛り候目鏡来四五月頃には出来可仕と奉存候間出来次第奉上納置又存念通りに出来仕候様に相成候節十分に御直し奉上納候間右目鏡成瀬隼人正様え御買入に相成候御直段者金八拾五両に而御買入之由承知仕候間諸家様より被仰付候御直段者同様奉願上候所此度願通り御聞済被下置候はば外々様え者御内々にて七拾両にて奉上納候間何卒当年米四拾俵調候之御金今度拝借仕残り之所者御目鏡上納之節頂戴仕候様何卒右之段御憐愍を以御聞済被為 下置候ハヽ生々世々冥加に相叶難有仕合に奉存候右之段奉願上度此段御聞済御執成偏奉願上候以上 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.357)

   *望遠鏡の購入願い書(加賀前田家宛て)
  乍恐書付を以奉願上候
此度テレスコツフ遠目鏡
御上覧之儀奉願上候処
御上覧義被為 成下重々難有仕合ニ奉存候然ル処兼而心願之儀者右目鏡製作ニ取掛候節より存念通り出来候ハヽ 御当家様江御上納奉願上度心願ニ而漸出来仕蘭製よりハ業も大キク引付も宜敷日月星等ハ格別ニ明ラカニ相窺候得者私存念通り出来と申儀ニ而者無御座右製作ニ取掛り而より十ケ年余に相成其内夥敷入用相掛り今日取続キ難相成有様ニ相成候ニ付存念通出来迄之所試斗仕居候而者今日家内渇命ニ及候ニ付心外存念通りニ者無御座候得共
御上覧奉願上候御儀ニ御座候尤右目鏡之儀ハ第一三光之所窺候御目鏡ニ而地合之所常之目鏡より少々クラク候所是も次第ニ宜敷相成乍去モアイ気無之日受之所窺候時者常之目鏡よりも明ラカニ見江候得共日裏之所ニ而者夫程ニ無御座右等之所ハ追々相考宜敷可仕与奉存候尤業大キク見江候間場所セマク見江月迚も三ツニも掛ケ候ハてハ見切かたく右者天文方等ニ而者其所御賞美有之候得共
上々様御慰ニハ御不自由ニ御座候間日月等も丸ニ窺候玉ヲ仕掛ケ候筒別ニ壱ツ添今地合之所も明らカニあかるく相成候様工夫仕猶御思召被為 在候ハヽ可成程相考
御思召通リニ出来仕候間只今
御上覧被為 下置候御目鏡二丁之内何レニ而も此度格別之御憐愍を以御買上被為 下置候右奉申上通りニ出来之上御引替ニ仕候間此度之所御救と被為 思召被下置御慈悲之御憐愍を以御聞済御買上被為 下置候様御執成幾重ニも奉願上度然ル処在所表より書状差越候所
出立之砌者米四斗俵ニ而百目ニ而調候所次第ニ高直ニ相成只今ニ而ハ四斗俵ニ而弐両ニ相成とんと致方無之趣申越尤去冬より当春江向人気殊之外悪く相成騒動差起り候趣之所段々春作宜敷追々順気ハ無此上豊作之様子ニ而人気納り安心仕居候所此度米弐両ニ相成尤弐両出シ其米難調候由此上如何程高直ニ相成候哉も難斗候由ニ而爾今大変差起候様子之人気ニ相成下職等も私帰村を待兼日々無心ニ参り其内ニ者無体之無心等申参り候者も御座候由   私帰村仕候ハヽ少々之儀者如何様共仕候様申なため置大心配仕日々御当家様御首尾而已奉神江祈候事而已申越右之仕合ニ而大心配候乍恐此段御賢察被下置
御当家様御儀数代御影を以連面相続仕居候所猶又此度必死之難渋之所格別之御慈悲を以御救と
思召被為 下置此度之御目鏡右願通り御聞済御買上ケ被為 下置候ハヽ   私家内下職迄相助り御厚恩之儀永々忘却不仕生々世々冥加ニ相叶難有仕合ニ奉存候何分右之段幾重にも御聞済被為 成下候様御執成偏奉願上候以上
  酉七月            国友藤兵衛
     米村大右衛門様 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.359)



●職人気質と弟子の精神教育

   *起請文
  起証文之事
此度改而師弟の契約結候上者都而一切之細工別而此度之気炮製作方ハ勿論其外諸秘事密書ハ不及申尊家之口談不寄何事他家他人雖為親子兄弟決而口外江出間鋪或者人繁場所にて秘書を開他言等堅く致間鋪勿論酒狂之上たりとも決て前文密事を洩間鋪候若我口より於洩者御恨憤之程及家滅退転候共御存分之事に候堅く起証文致候上者御互に別心無底意致度候億万一右之条於背者
梵天帝釈四天王大日本六拾余州大小之祇神別而伊豆箱根権現三島大明神八幡大菩薩春日大明神天満在自在天神之可蒙神罰抄罰者也
  文政五午年閏正月            高橋鉄三郎
                              知義花押 血判
     国友藤兵衛殿 (『一貫斎国友藤兵衛伝』p.232)



●終焉と結び

   *国友一貫斎翁顕彰碑の全文
  国友一貫斎翁顕彰碑
皇紀二千六百年ニ際シ国友一貫斎翁百年忌ヲ施行セントスルヤ翁ノ事跡 天聴ニ達シ従五位ヲ追贈セラル翁通称藤兵衛世々近江国坂田郡国友村ニ住シ鉄砲鍛冶年寄脇ヲ家職トス幼ニシテ穎悟聡明家ヲ嗣クヤ能当流鍛冶術ヲ創始シ斯界ニ一新紀元ヲ劃ス其他早打気砲鋼製弩弓神鏡鋳作町間見積遠目鏡懐中筆玉燈天体観測用反射望遠鏡等皆翁ノ創案発明ニ由ル翁又タ平田篤胤ノ門ニ学ヒ力ヲ村治ニ効シ私ヲ捨テ公ニ奉ス其ノ徳沢近隣ニ洽シ茲ニ其ノ遺徳ヲ顕彰シ碑ヲ建テント欲シテ文ヲ予ニ徴ス仍チ其ノ梗概ヲ記シテ後昆ニ□クト云爾
  昭和十七年十二月  蘇峰徳富正敬篆額
    海軍大佐正五位勲四等有馬成甫撰文  佐藤重太郎 書
                              竹原芳男  刻字 (『江戸時代の科学技術 国友一貫斎から広がる世界』p.186)
    ※ □印は言偏に念 (環境依存文字)


             
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