「自由」とは何か。誰もがつねに欲し、簡単に言葉として口にできるが、その確かな形は何なのか、私にはなかなか答が見えてこない。たとえばレストランに入れば、メニューには数々の品揃え。誰にも束縛されることなく「自由に」食べたいものを食べられる。その状況に、多くの人は自由を感じるのだろう。また、映画館に行けば、邦画・洋画・アニメーションと、いろいろなものから観たい作品を選べる。そこには自由があると、みんな感じるのだろう。「選択の自由」という言葉もある。しかし、果たしてそこには自由という言葉がすんなりとあてはまるのだろうか。
レストランで好きなメニューを選ぶというその時点で、そこには「選ばなければならない不自由」、つまり、すべてのものを一挙に得ることはできない、という不自由があるのではないか。パスタも食べたい、焼き肉も食べたい、サラダ、味噌汁、デザートにショートケーキ、モンブラン、プリン、アイスクリーム…、と思っても、胃袋の容量に限りがあり、すべてを食べることはできない。メニューを選びはじめた時点で、選ばなければならない不自由に拘束されているのではないか。幼い頃にあれもこれもと食べ物を選んで食べきれず、親から叱られる…、そのような経験を持つ人も多いだろう。店が混んでいれば長時間待たなければならず、お気に入りの店が臨時休業ならば他の店を探さなければならない。運良くいい店に入れたとして、今日はパスタで明日は焼き肉にしよう、と思っても、極論を言えば、明日までにその店が焼失しないでいる確約はなく、明日に自分の命があるという保障さえもない。
映画館においても同様、どれかの作品を選ばなければならない。観はじめる時間も自分で決めることはできず、映画館が決めたスケジュールに厳密に沿わなければならない。「こんな映画を観たい」と思っても、そういう作品を上映していなければ、選ぶという行為さえ許されない。もっと言えば、自分で「こんな映画を作りたい」と思っても、技術も才能もなければまったく手の出しようがない、ということになる。おもしろそうだなと思って観た作品が、まったくつまらなかった、チケット代を損した、と思うケースだって少なくないだろう。そもそも映画館がない地域では、好き嫌い以前に映画そのものが観られないのだ。レンタルビデオ店があるとしても、封切りのリアルタイムで観ることは一切できない。ビデオ化されていない作品なら問題外だ。「自由」はどこにあるのか。
レストランやケーキ屋へ行っても、あるいは喫茶店へ行っても、スーパーマーケットの食料品売り場へ行っても、欲しい食べものがよりどりみどり、豊富な選択肢があるように見えるが、好き嫌いのある人はそのぶん選ぶものが限定されるし、むろんすべては食べられない。それよりも選ぶ以前に、そもそも食品選びという行為の根底には、「食べなければ死んでしまう」という逼迫に突き動かされている自分がいるのである。それは、ほんの数日の猶予さえも与えてはくれず、ほとんどひっきりなしに飲食していなければ、たちまち飢餓による死に直面せずにはいない。遭難時や災害時などには、てきめんにそれが顕れる。食べる自由があるならば、食べずにいられる自由があってもいいはずだが、食べずにいる自由はない。私たちは食べずにはいられない不自由にいつも追い立てられているのである。食べずにいられない不自由は、すなわち、メニューから何かしら限られた食べ物を選択しなければならない不自由へと連動している。そして、食べれば必ず代金を払わなければならず、その金はイヤでも働いて稼がなければならない。そう考えれば、飢餓に追い立てられっ放しで、どこにも「自由」はない。
そもそも、自分という存在自体が自由の産物なのだろうか。時代・地域・人種・性別・容姿・才能・財産・親兄弟・国籍など、どれを取っても自分の自由意思で選んだものはない。それらの条件はたまたま与えられたものであり、一度与えられたら、生涯それを基準として生き続けることになる。国籍や地域を変えたところで、それはレストランのメニューと同様、選ばなければならない不自由の中での選択にとどまるのである。顔や体を整形しようが同じことだ。ピカソのようになりたい(あるいはピカソ本人になりたい)と思っても、なれるはずがなく、逆にピカソ本人も、自分以外の誰かになりたいと思ったところで、彼以外の人間にはなれなかったし、彼のままでまったく違う才能を得ることもできなかったのである。絵は描けたが、一匹のてんとう虫さえ作る能力はなかった。そして、おそらく本人の意思に反して、すでにこの世から去っている。
私たちには、この世に生を享ける前に、「生まれたい」という自由意思があったのかどうかさえ疑わしい。そして一度生まれたら、圧倒的な強制力をもって成長と老化が進行し、その果てに死を与えられる。そこに拒否という選択肢はない。死に方も死ぬ日時も、自分では決められない。生まれたくもなしに生まれ、時代・地域・人種・性別などを一方的に付与され、ひっきりなしに食べ続けなければならず、ひっきりなしに排便をせまられ、睡眠し、病原菌と闘い、金銭の入手と消耗に腐心し続け、理想と現実のきしみに心身を削られながら、死にたくもないのに死を押しつけられる。自由を口にするのは誰でも簡単だが、自由…? それがどこにあるというのか。好きなように生きる…? そんなことどうやったってできる訳がない。自分らしく生きる…? はなから自分らしく以外に生きる道などありはしない。
「死を選ぶ」という選択肢だけはあるように思えたとしても、それは選択の意思によって遂行できることだろうか。そうせざるを得ない状況によって、死へと追い込まれ、あるいは吸い込まれているだけで、そこへ自由意思によって進んでいくような“気がしている”だけではないのか。誰かのために命をすてるとしても、その場の致し方ない事情によってするのであって、その人は誰かのために死ぬことを目的に生きてきた訳ではあるまい。生まれる自由はなく死ぬ自由もない。その中でなす術なく行き着く結果のひとつに過ぎないのが、「死を選ぶ」ことなのではないか。好きこのんで死ぬのではなく、死ぬしかなくなった、あるいは生きる能力を失った、元々から生命力に恵まれていなかったという、いずれかの不自由に押し倒されているだけではないのか。もし死を選ぶ選択肢があるなら、「死んだことを取り消せる」、つまり死ぬ前に時間を戻して生き直せるという選択肢があっていいはずだが、それはない。
――時間の経過という圧倒的な推進力、それに抵抗し克服できるすべは何ひとつ与えられておらず、選択の自由はいっさい存在しないのだ。
私たちが感じる自由とは、おそらく、心身ともに最も苦痛や嫌悪からかけ離れた状態、もしくは快感を感じている状態、このいずれかにいて、ひっきりなしに自分を追い立ててくる不自由の存在を忘れていられる時間帯のことなのだろう。“不自由からのがれ続けること”。しかし、共通の価値観に向けてみんなで進んだとしても、それを全員で仲良く分け合うことができない場合もしばしばある。プロ野球選手になりたいといっても、みんながなれるはずもなく、ほとんどの人は挫折感を抱きながらその道から退いていく。プロになれたとしても、老化、ケガの蓄積、後輩選手の台頭などによって、着々と引退の時期は迫りくる。スタジアムで観客から歓喜の声を浴びる時間帯、それを得られる人はごく少数で、観る側と観られる側とに分離していく。しかも、どちらも長続きはしない。摂取と排泄の末に「死」という圧倒的な終着点が待っている。
“不自由からのがれ続けること”。しかし、自由の価値観には少なからず共有できないものがあり、人々の間で血みどろな価値観の対立が生じることはしばしばある。そこで対立を最小限にとどめるための共有ブレーキが必要となり、そのブレーキからいろいろと不自由を強いられる。法律などはその典型だろう。地球という広いようで狭いキャパシティの中で、限りある土地と水と食料を奪い合いながら、人より安らかな眠りと満腹感に自由を求めるエゴイズムにとらわれ、それを自分でコントロールできない不自由を抱えながら死へと引きずり寄せられる。「自由に」、「好きなように」、「自分らしく」と、はやりの歌などは簡単にいうが、世界中のすべての人がそうして生きていたら、自然環境も社会構造もたちまち崩壊してしまうのだ。そこで倫理・道徳・法律などという堅苦しい不自由な理念や制約をこしらえて、がんじがらめの生活を設定しなければならない。その日々の中で、ひっきりなしの生理学的な逼迫や社会規範から“解放された気でいられる時間帯”をわずかに得る、またはそうした何かを人々に与えられる人間になる、そこに自由というものが見出せる“気がする”ということだろう。そしてそこに、ブレーキを自分で自分に課するという積極的なスタンスによって、個人も他者も“解放された気でいられる時間帯”を少しでも多く共有できる環境を作ること、そのための人間教育が、ひとつの理想型として求められるのだろう。
多くを求めない、あれこれと悩むことをしない、利己を捨てた博愛の心、そのような聖人君子か仙人のような生き方にこそ、最良の自由が得られるという理想型。しかし、多くを求めるエゴや、ささいな物事に何かと悩むことから数々の文化が発展している事実をないがしろにして、君子然たる物の言い方がどこまで通用するのかは、心もとないものがある。実際、世の中にダメ人間や強欲なヤカラがたくさんいなければ、小説もテレビドラマも成立しないのだ。悩める人々がいなければ坊さんも神父もメシが食えず、宗教芸術も存在し得なかった。といって、自然環境も社会規範も、人々の野放図な自由を容認してはくれず、聖人君子たる行いを少なからずそこに要求してもくる。矛盾の輪の上をぐるぐると回り続けるようなもので、理想型はその終着点になってくれてはいない。
自由と不自由は表裏一体で、植物と昆虫と、水と酸素と、大地と太陽と宇宙空間と時間…、それら膨大なものを得たようでいながら、ひとつたりとも我がものにできない。それらがひとつでも欠ければ命の灯がともり続かず、そして灯芯が尽きればあっさりお別れ。尽きる前に、強風に吹き倒されて終わることもあろう。燃え始める日も消える日も自分では決められない、自分が自分であることもやめられない、個人と他者とのひっきりなしの軋みに苛まれ、やることなすこと矛盾だらけ。生まれる理由も生きる理由も、死ななければならない理由もまるで分からない。「分かった」と思っても、それは、飢餓に追い立てられっ放しの選ばなければならない不自由の中で「押しつけられた結論」に過ぎないのである。歴史上の哲学者や教祖たちが示した結論でさえも、その範疇を越えられない。哲人たちが書物に示した結論の数々は、レストランのメニューに書かれた品々と変わることがない。それらすべてを得る方法や、すべての人が生物である自己から脱却できる方法を我々に示している訳ではないのだ。得る側も、人によって脳のキャパシティや機能性に格差があって、必ずしも同じ食べ物を美味しいとは感じない。今日とつぜん死ぬ人に対して、イエスや釈迦でさえ何かを語り聞かせてやる自由はなかっただろう。選択の自由という不自由、自己と他者との取り払いがたい軋轢…、どこに個人の自由意思が介在できる隙があるのか。
ひっきりなしの飲食・排泄・睡眠・老化・金銭消耗という不自由、そこからできるだけ逃れようとする自我が自然環境や社会規範とのあいだに招く摩擦、エゴイズムの亢進とそれへの自己批判、またはそこからの逃避とそしらぬ顔、夢と挫折、生涯自分でしかいられない自分、そして一切とどまることなく、いつ来るかも分からない死へのカウントダウン、哲学や宗教が示す理想論が超えることのできない限界…。つまるところ、「自由とは○○である」という自己満足的な主張さえも許される余地のないほど、時間だけが容赦なく経過していく現実のみが、否応なしに認識させられるに過ぎないような気がするのである。
ここまでこの文章を書いてきたことも、私の自由意思で書いたのか、何かに突き動かされて書いたのか。他にやることがないから、他のことができる才能も技術もないから、仕方なくこうせざるを得ずに書いただけなのではないか、それさえもよく分からない。「悟り」か「開き直り」に身の置き場を求めても、それらが「そうせざるを得ない結果」や「押しつけられた結論」であるとすれば、やはり自由意思による到達点とは言えまい。自由とは何か、…私の脳からは答が出てこない。
(2012年5月4日・記)
前頁へ戻る |