だんご三兄弟の怪


だんご三兄弟の怪



きまぐれ睡龍・筆


 速水けんたろうさんと重森あゆみさんが唄うNHKの童謡「だんご三兄弟」の大ヒット。テレビをつければどこからでも聞こえてくる。意外な歌が流行るもんだなどと思いながら、少し狂乱気味な騒ぎをよそに、さほどの興味も持たずに傍観していた。あれからもう3〜4年くらい経ったのだろうか。最近、テレビ番組のBGMとして流れ始めたのを何気なく聴いていたら、その出だしの歌詞が突然、私の耳朶の奥を刺激した。「♪串にささって団子…」という歌詞が。

 串に刺さって団子…? はて、妙だな。団子が串に刺さるんじゃなく、串が団子に刺さるんじゃないの? 串に刺さって団子…、じゃあ、もし包丁で刺されたら“庖丁に刺さった俺”かいな?

 どうでもいいような事なのだが、妙に引っかかった。それと同時に思いだしたのが「百舌鳥(もず)の速贄(はやにえ)」だ。百舌鳥という鳥はカエルやトカゲなどの餌をつかまえると、それを樹木の枝先に刺しておいて保存食にする習性があり、それを百舌鳥の速贄という。最近はほとんど目にしなくなった気がするが、私の幼少の時分には、木の高い所の枝先などにカエルや虫などが突き刺さって干からびている姿がよく見られた。

 さて、そこでだんご三兄弟だ。団子が串に刺さるのはおかしいとは思ったものの、百舌鳥の速贄はどうだろうか。空を見上げて「あ、木の枝がカエルに刺さっている」と言うのが正しいか? そうはいかない。この場合は「木の枝にカエルが刺さっている」と言わなければおかしなことになる。

 実際、串に刺さって団子という歌詞でも、それを聴く人は誰も違和感を感じることはないだろう。理屈からすれば団子が串に刺さるのはおかしいと思うのだが、百舌鳥の場合などは明らかに理屈の方がおかしい。

 あいにく私は言語学には精通していないので、そちらからアプローチする能力はないのだが、もしかしたら単に、刺さる側の大きさに関係しているだけだろうかという気もする。“庖丁に刺さった俺”ではおかしい。では、私の体よりも長い槍(ヤリ)ではどうか。“槍に刺さった俺”なら…。どうも違和感がなくなるような気がする。私の体より大きいか小さいかの違いによるのだろうか。では、カブトムシの標本はどうだろうか。虫ピンに刺さったカブトムシ…、虫ピンが刺さったカブトムシ…。はて、どちらも状況説明として違和感なく成立するような気がする。虫ピンがカブトムシより小さくても問題はなさそうだ。

 では、主観と客観の立場の差が違いを生んでいるのだろうか。私という主観とカブトムシという客観。私にとっての庖丁と同様に、カブトムシの立場に立てば“虫ピンに刺さった俺”は違和感が生じるのだろうか。私が標本にされて虫ピンで押されたとしたら“虫ピンに刺さった俺”はどうだろうか。虫ピンに刺さった俺、虫ピンに刺された俺、…やはり虫ピンに俺が刺さるのはちょっと変かな。空を見上げて「木の枝がカエルに刺さっている」というのはおかしい、では木が倒れてその枝先が下にいたカエルに刺さったらどうか、「木の枝がカエルに刺さっている」で違和感はなくなるのではないか。…うーん、どうもよく分からない。

 ひ弱な脳がガタピシと音をたててショートし始めたので、これくらいにしておく。今のところ私の脳では結論が出せそうもない。だんご三兄弟の歌詞、奇々怪々なり。



(2004年秋・記)




             
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