超能力でスプーン曲げ


超能力でスプーン曲げ



きまぐれ睡龍・筆


 超能力者が見せるパフォーマンスの定番といえばスプーン曲げだろう。私が少年の頃にユリゲラーがセンセーショナルに日本のテレビ界に登場し、一大ブームを巻き起こして、類似の自称超能力者たちも登場してそれぞれ注目の的となった。私も当初、興味深々でテレビ画面に釘づけになり、あれは本物かニセモノか、本物ならすごいなとか、どこかにタネがあるのではないかと、食い入るように観ていたのだが、ある時ふと思った。スプーン曲げって超能力か? と。

 それ以後、急にスプーン曲げに対する興味がしぼんだ。超能力? よくよく見れば能力に「超」が付くほどのことではあるまい。それが本物かニセモノかという議論もどうでもいいように思えて来た。スプーンを曲げることに何の価値があるのかと考えるようになったのだ。

 能力の上に「超」を付けるのであれば、スプーンを曲げるなどと小さいことを言わず、工事現場の太い鉄骨を直角に曲げてみせるとか、大陸間弾道ミサイルが飛んで来たら念力で宇宙にはじき飛ばすとか、それくらいのことをして欲しいものだ。丸めて耳に詰めた紙に書いてある文字を耳で読むとか、透視と称して封筒に入った紙に書かれている簡単な文字や図形を封筒越しにうすぼんやりと読み取るとか、どれを取ってもやることがみみっちい。子供心にすべてがアホらしく見えて来たのだ。

 オッサンになった今でも、そのアホらしさにほとんど変化はない。昔と今とで、超能力がもたらす結果に技術的な進歩がほとんど見られないのも一因だ。超能力者のパフォーマンスをバラエティー番組で取り上げて、お笑い芸人が絶妙な突っ込みでそれを茶化す、そうしたやり取りなら面白いし、脳生理学的な分析というなら興味がわかないこともないが、神秘性を煽りながら大げさな演出で超能力を取り上げ、本物かニセモノかの検証をする番組にはどうにも興味が集中しない。どっちでもいいという気になってしまう。

 能力は、何らかの結果を生みだしてこその能力だろうと思う。人の能力はいろいろとあるが、優秀な能力は必ず優秀な結果を生んでいる。学者の能力、芸術家の能力、スポーツ選手の能力、どれを取っても然りだ。ダ・ヴィンチやアインシュタインの業績、そしてシェイクスピアやミケランジェロやピカソの作品を見よ、シュバイツアーやガンジー、エジソン、更にはペレやジョーダンや王貞治、ジョン・レノンやブルース・リー、タモリやビートたけしや明石家さんまを見よ、いずれもケタ外れの結果を生み出したではないか。しかし、それでも彼らの能力の上に「超」は付かないのだ。それに引きかえ、スプーン曲げが超能力とはどういうことか? 結果だけを見れば手で曲げたのとほぼ変わらない。子供でも出来るし、スプーンを曲げる超能力よりもスプーンを作る職人技術のほうがどう考えても価値が高い。ましてやスプーン曲げが先人たちの偉業までをもさしおいて「超」と冠を付けるほどのことだろうか…、とてもそうは思えない。「超はそういう意味ではない、未知、あるいは通常ではない能力ということだ」というかも知れないが、それもどちらでもいいことで、結果が貧弱なことに変わりはないのだ。

 しかし、どうやらいつの世にも、超能力はスピリチュアルな魅力を漂わせながら多くの人たちのツボをくすぐるものらしい。目に見えない不思議な力が身近に存在して欲しいという人々の願望が、超能力者たちに活動の場を提供しているのだが、ややもすれば、それが詐欺的な要素を含んで問題をひき起こすことにもなる。手品として披露するなら「うまいなァ」ということになるが、超能力として披露するとややこしいことになりがちだ。娯楽として楽しんでいるぶんには差し支えないのだろうが、いずれにしろ、私はスプーンを曲げる程度のことしか出来ないような超能力はほぼ眼中にない。それが本物であってもだ。私にとっては、超能力者よりも米つぶに字を書く変なおじさんのほうがはるかにすごい。



(2004年秋・記)




             
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