秋吉台めぐり 〜秋吉台・秋芳洞・秋吉台科学博物館・富海海岸 【2015年春】


秋吉台めぐり

(秋吉台・秋芳洞・秋吉台科学博物館 2015年4月下旬)




――文・Photo. きまぐれ睡龍――


 秋吉台は国内最大のカルスト台地である。山口県の西部(美祢市)に位置して県内屈指の観光地として全国的に知られており、その下方に形成されている秋芳洞(あきよしどう)という鍾乳洞とともに国の特別天然記念物に指定されている。秋吉台の広大な景観、そして無数の奇岩が彼方まで延々と立ち並んでいるさまは、特に初めて目にする人には、日常とかけ離れた別世界にたたずんだかのような感覚を鮮烈に抱かせることだろう。人知のおよばない大自然の深淵にみなぎる力が、途方もない年月をかけて、緻密かつ壮大に造りあげた格調の高さが漂うかのようである。

 カルストという名は、ユーゴスラビアにある石灰岩で形成されたカルスト地方に由来しており、石灰岩台地に見られる独特の地形のことをそう呼ぶ。石灰岩は雨水に溶けやすく、長年かけて溶かされた石灰岩たちが牙のような奇怪な姿(カレン)となって草原に露出し、ドリーネと称する特異な凹みやウバーレと呼ばれる谷間を台地上に生みだし、地中にしみ込んだ雨水が水流となって数々の洞穴をうがち、その中に美しい鍾乳石たちを輝かす。秋吉台は国内でもっとも広域を誇り、奇岩の多さと大地の凹凸に富んだ世界的なカルスト台地である。

 秋吉台は全体が石灰岩で構成されているが、この地域はおよそ3億年前には海底にあり、海の生物たちが造りだした巨大なサンゴ礁と生物たちの死骸とが長い時をかけて堆積し、石灰化していわゆる「秋吉石灰岩」となって秋吉台のもとになった。その後の地殻変動を経て大量の大理石や鉱床を地中に形成し、地上へ押し上げられて台地となり、風雨の溶食を受けながら無数の奇岩を地上に立ち上がらせて、そこにさまざまな動植物の繁殖と衰滅を繰り返させながら、自然豊かな現在の姿へと到達した。石灰岩中にはフズリナやサンゴなど大量の海生生物の化石が含まれている。そして台地上や周辺地域に堆積した土中にもさまざまな地上動物が埋もれて化石となり、秋吉台は国内有数の化石産地となった。今回の旅では、秋吉台と周辺地域で採取された化石の見学をメインの目的として、麓の秋芳洞入り口からスタートし、山上のカルスト台地、そして展望台に隣接する秋吉台科学博物館へと巡ってみた。

  
(バスターミナルからすぐの所にある秋芳洞へ通じる商店街)

●まず秋芳洞へ――

 秋芳洞は、秋吉台の地下およそ100メートルに形成されており、台地の下方に大きな洞口を開いている。秋芳洞という名は皇太子時代の昭和天皇によって命名された。入場券売り場まではお土産品を売る商店街になっており、多くの店が並んでいる。まだ午前9時台とあって観光客は少ない。さすがに化石・鍾乳石・大理石など、地元ならではの石を売っている店が目立つ。大量生産品のようにたくさん売られているが、品質や大きさによって値段はさまざま。化石はフズリナ・サンゴ・腕足類がほとんどだ。

  
(店先には化石や鍾乳石。商店街の先に秋芳洞の入場券売り場がある)

 中にはあきらかに秋吉台産ではない化石に「秋吉台産」と貼り紙があったりするものもチラリと目に入る。間違って貼ったのだろうが、それくらいは旅ののどかな一風景。店番のおばさんたちによる化石の説明が、化石にあまり詳しくない人のややいびつな“紋切り型”になっていて、にが笑いしながら黙って聞く。これまた一興というところだ。

  
(蛇行する森の小道を通過し、数段の滝が流れ出している洞口へ)

 樹木に囲まれた新緑の小道を抜けていくとすぐに、滔々と地下水をはき出す鍾乳洞の入り口が見えてくる。歩を進めるほどに爽やかな空気と水流の音が心地よくからみ合う。滝壺には小魚たちの姿も。洞口は高さ26メートル。洞内へ入ると幅広で天井の高い闇の世界。所々に大きなライトが灯されているが、全体的に洞内は暗く静かだ。総延長は10キロメートルにもおよぶが、そのうちの1キロほどが通路を整備されて観光客に公開されている。中は鍾乳石・石筍などの数々が見られる。長淵・洞内富士・蓬莱山・マリア観音・石灰華の滝などと名づけられた見どころがいろいろあるが、特に百枚皿と黄金柱(こがねばしら)の美しさには思わずため息が出る。

  
(有名な百枚皿〔左〕。右は鍾乳石のつらら「傘づくし」の一部)

  
(洞内随一の目玉である黄金柱。高さ15メートル・直径4メートルの大石柱)

 洞内には外界の太陽光と無縁な生活をしている生き物たちもいる。闇の中での生活は彼らの眼を退化させ、体の色素を消して透明もしくは白色化した。研究者たちの長年の調査により、巻貝・クモ・ムカデ・ヤスデ・カニムシ・ヨコエビ・ダニ、そしてトビムシ・ガロアムシ・ナガコムシなどの昆虫類が見つかり、多様な生物相の存在が明らかにされている。

 
 (ホラアナナガコムシ。『秋吉台3億年』〈秋吉台科学博物館 13版〉より転載)

 さらに、外部との往き来があるコウモリなどの外来性動物の生息場所にもなっている。観光途中でこれらの生き物たちの姿を見ることはなかなか出来ないのだろうが、鍾乳洞内が石と水ばかりの世界ではないことを小さな生き物たちが教えてくれている。洞内の通路を過ぎると、やがて黒谷口に到達する。そのすぐ先にある山道を登っていけば、カルスト地形を一望できる台地の頂上までさほど長い距離ではないが、所々に傾斜のきつい階段などもあるので、足腰の弱い人には少しきついかも知れない。

  
(黒谷口に到達。そのまま山道を登って頂上へ)

●秋吉台山頂と科学博物館へ――

 木々に囲まれた山道をぬけて頂上の土産物店に通じる道をのぼり終えると、突然景色が変わったかのように一気にカルスト地形が眼前に広がる。長年の雨水に溶かされて形作られたカレンと呼ばれる奇岩が、渺茫とした台地の彼方にまで無数に突き出ている。カレンが立ち並ぶこうした光景はカレンフェルドという。カレンフェルドはその奇怪な様子から、かつては地獄と称されたこともあったそうだ。季節や天候、時間帯によってはそのように見えるのかも知れないが、新緑があふれ始めて心地よい風が吹いている今回はむしろ、爽やかでおごそかな印象を受けた。

  
(山頂の土産物店と、そのそばから一望できるカルスト地形)

  
(解説などを記した看板と展望台から見おろす風景)

 展望台に立てば、さらにその広大さを目の当たりにできる。しかしそうした感動もそこそこに、まずは展望台の近くにある秋吉台科学博物館へ。ここには、秋吉台とその周辺地域から採取された古生代〜新生代の化石、各種岩石、現生生物など、およそ3億年分の歴史を垣間見られるさまざまな標本や、縄文〜古墳時代の遺物などが展示され、さらに秋吉台の初期の地質学研究に多大な業績のあった夭逝の先覚者・小澤儀明博士が紹介されている。

 
 (博物館の外観。「めざせ! Mine秋吉台ジオパーク」の看板が見える)

  
(ニッポンサイ〔左〕とヤベオオツノジカ〔右〕の骨格レプリカ)

 1階の入り口をはいると、ニッポンサイとヤベオオツノジカの立派な骨格標本が出迎えてくれる。ニッポンサイの化石の発見は秋吉台が最初だったという。ガラス越しに見える広大なカルスト台地とヤベオオツノジカの、悠久の時を結ぶかのようなシルエットが美しい。その足下にはナウマン象、オオヤマネコ、オオカミ、トラ、ヒグマ、イノシシ、サル、ウサギ等の化石標本が陳列されている。

  
(ヤベオオツノジカ、ナウマン象、ムカシマンモス、トラなど)

  
(サル、ウサギ、ムササビ、イノシシ、アナグマなど)

 秋吉台と周辺地域からは、第四紀更新世に生息していた哺乳類の化石が数多く採取された。更新世当時は大陸と陸続きであったため、大陸から渡ってきた動物たちが日本各地に分布していた。当地からは多様な時代の化石が見つかっており、その保存状態も他の地域ではなかなか見られないほど良好なものがある。

 
(秋吉台の現生動植物の展示)

  
(両生類・爬虫類・魚類の標本と哺乳類の剥製など)

 秋吉台の地質学研究は、ひとりの若い学者が大正9年(1920)に発表した論文によって大きな転機を迎えた。東京帝国大学の小澤儀明氏が卒業論文作成のために秋吉台を調査・研究し、秋吉石灰岩が地殻変動によって大規模に上下ひっくり返った逆転構造になっていることを発見したのだ。同大学の助手に就任したばかりの頃に論文を発表し、海外からも注目される大発見となったのだった。化石は通常、古い時代のものが地層の下部から見つかり、時代の新しい化石ほど上部から採取されるのだが、秋吉台では逆になっており、化石が逆転構造発見の糸口をもたらしたのである。のちに他の学者たちから逆転構造を否定する論文も発表されたが、綿密なボーリング調査等により、現在では逆転構造であることが定説化している。

 逆転構造発見後の研究で博士号を取得した小澤青年は、31歳という若さで病没したが、11年ほどの短い研究生活のあいだに優秀な論文を数々発表し、「天才」と称された人物だったという。2階フロアでは、そうした小澤博士の業績を紹介・称揚する展示がなされている。

  
(小澤儀明博士の紹介パネルとカルストの写真展示)

  
(フズリナ〔左〕とサンゴ類〔右〕)

 秋吉石灰岩からは、フズリナ・サンゴ・コケムシ・腕足類・ウミユリ・アンモナイト・三葉虫・貝類などが見つかる。とりわけフズリナは、示準化石として時代ごとの体型の変化が明確に研究されているため、小澤博士の逆転構造説の信憑性を確かめる発掘調査において重要な存在となった。同フロアにはフズリナをはじめとする標本の数々が展示されている。これまでに秋吉台から採取されたフズリナは120種類を超えているという。

  
(コケムシ〔左〕とウミユリの茎〔右〕)

  
(アンモナイト〔左〕と二枚貝・巻貝〔右〕)

 さらに先へ進むと、地元産の各種鍾乳石・大理石、美祢市内の大嶺炭田から発掘された三畳紀の植物化石、そして国内各地から採取された化石や海外産の化石の数々も展示されている。大嶺炭田から採取される化石には昆虫も含まれ、国内最古の昆虫化石として知られている。世界的にも三畳紀の昆虫化石は稀少である。

  
(美祢の植物化石〔左〕と、秋吉台産の各種鍾乳石・大理石)

 秋吉台が育んだ豊かな自然環境は、人間を含む多くの生き物たちに生活の場を提供した。完新世に入ると縄文人も住みつくようになったとみられている。土器・石器などが秋吉台の各所から見つかっており、洞窟内からは人骨の一部も発見されている。弥生期から古墳時代にわたって古代人が残した遺物も見つかり、現代の人びとの生活や文化へとつながる源流の一端を垣間見ることができる。2階フロアには化石標本とともにいろいろな土器や須恵器、出土例の少ない稀少な鉄剣などが展示されている。

  
(古墳時代の遺物〔左〕と縄文〜弥生期の遺物〔右〕)

 秋吉台はかつて大規模な破壊の危機に瀕したことがある。秋吉台は明治期から日本陸軍の軍事演習場として使われていて、終戦後、引き続いて進駐軍であるアメリカと連合国軍の演習場となっていたのだが、景観を大きく損壊させるような演習ではなかったという。それが昭和31年(1956)、爆弾を飛行機から投下する空爆演習を認めるよう米軍から政府に要請が来たのだ。

 敗戦国の日本人にとっては、なかば命令とも取れるような重い要請だったが、地元民や県によって反対が表明され、マスコミの詳細な報道によって注目度が高まり、現状保存の学術的価値を唱える国内外の多くの学者も協力しての反対運動に発展した。日本政府も動き、結果、空爆演習をまぬがれて秋吉台は保全されることとなった。それを受けて昭和33年、山頂に秋吉台科学博物館が建設され、その後の景観保全と研究の足場を広く一般の人たちに提供するようになったのだった。

 秋吉台科学博物館は山口県西部の山頂にあるため、とりわけ関東や北陸、東北などの遠方に住む人が気軽に見学に行ける施設ではないが、展示標本は多彩でいずれも質が高く、研究家にも一般の化石ファンにも見応えのあるものとなっている。

 ひと通りじっくりと見学したあと、展望台に隣接する土産物店でちょいと食事休憩。――

  

●カルスト台地をほっつき歩く――

 米軍による空爆演習の難をまぬがれた秋吉台では、太古から続いてきた雄大で緑豊かな景観が保たれた。かつてこの地の存続をめぐって展開された反対運動の喧噪など、まったくなかったかのように静かであり、観光客たちに不思議な光景を見せてくれている。見渡すかぎり、カレンと呼ばれる奇岩だらけだ。秋吉台は長径約17キロメートル、短径約7.5キロメートルと、カルスト台地としては国内最大の広さを誇る。標高は200〜400メートルだという。毎年2月下旬になると山焼きがおこなわれているそうだ。特に目標地点も定めず、デジカメをぶら下げながら気ままにほっつき歩いてみた。

 
(遠望。彼方の山並みにまで灰白色のカレンが乱立している)

  
(遠望〔左〕。右はあちこちに見られるすり鉢状の凹み〔ドリーネ〕)

 ドリーネと呼ばれるすり鉢状、あるいは皿状、バケツ状などの凹みが各所に見られる。秋吉台には川がなく、雨水はドリーネへ流れ込んでその底から地下へ流入し、麓へと流れ出ていく。地下水が石灰岩を溶かしながら浸潤し、膨大な時間をかけて大小の洞穴を地下にうがち、その中にさまざまな姿の鍾乳石や石筍、石柱を作り出すのだ。秋吉台はその面積に対するドリーネの数がたいへん多く、密集度の高さは世界一と言われている。

  
(見えないほど遠くまで続く無数のカレンと若草の緑)

  
(あちこちに巡らされている通路をたどる。遠くには車道〈カルストウェイ〉を走る車の姿も)

 各所に歩行用の通路が巡らされている。植物保護のために草地に踏み込まないよう、注意書きを記した小さな看板が道ばたのあちこちに立てられている。カルストウェイはゆるやかに蛇行しながら秋吉台を縦断している有料道路で、1970年に開通したそうだ。時折、自家用車や観光バスなどが流れるように通過していくのが見える。

  
(剣山の近辺まで脚をのばした。右はそこからの遠望で、彼方に小さく展望台と科学博物館が見える)

  
(遠望。右は雨水に溶かされてできた岩肌の独特な模様)

 表面に漣痕やみぞのような奇妙な模様が浮き出ている岩が各所に見られるが、これらは長年にわたって雨水に溶かされて生じたものである。形によって溶食条溝や溶食水溝などの分類がなされている。この岩肌はこうなるまでにどれ程の年月を要したのだろうか。

 
(岩の割れ目からのび出た植物)

 秋吉台ではさまざまな植物や動物たちの姿も見られる。今回は4月下旬というまだ芽吹きはじめの季節柄でやや寂しげではあったが、所々で草花たちの姿に接し、豊かな自然に浴することができた。植物の写真をたくさん撮ったが、風がけっこう強くて葉や花がなかなかジッとしていてくれなかったため静止画を撮るのに苦心した。秋吉台にはこの地特有の植生も見られ、名前に「アキヨシ」と付いている植物もあるという。もちろん、観光客による草花の持ち帰りなどもってのほかだ。

  

  

  

  

 虫や動物たちの姿はまだ少なく、なかなか出会えなかったが、少しは撮影することが出来た。トンボ・コガネムシ・トカゲなどもいたのだが、トンボとトカゲにはカメラを構える隙さえなくあっという間に逃げられてしまった。小鳥たちもいたが、声はすれど姿はほとんど見えず…。

 疲労で足が重くなるくらい、時間の余裕の範囲でぐるぐるとあちこちを歩きまわってみた。より遠くまで歩いてみたいとの思いもあったがほどほどに留め、やや名残惜しさを感じつつ、いつかまた来ようと思いながらスタート地点の商店街へ向かって下山した。

  

  

 カルスト台地として国内最大規模であり、化石の発掘・研究の地としても国内屈指の場所である秋吉台を今回訪れ、秋芳洞の美しさと、秋吉台科学博物館の豊富な展示資料の数々を目にした。天候に恵まれさえすれば、楽しく気持ちのいい旅ができる観光地である。

 
 (「美祢市観光PRポスター」より〈モデル・坂井朝香さん〉)
 
※秋吉台・秋芳洞・秋吉台科学博物館に関する観光サイト
http://www.karusuto.com/



――― 付 記(富海海岸 散策) ―――


 旅のついでにJR山陽本線にある富海(とのみ)駅に降り立ち、防府(ほうふ)市の海水浴場として知られる富海海岸を散策した。およそ350メートルにわたるという遠浅の砂浜を踏みしめながら、シーズンオフのほぼ無人の波打ちぎわで、しばし瀬戸内海の静かな潮の音に心を洗われた。真偽のほどは知らないが、かつて歌手の南沙織さんと森高千里さんが唄ってヒットした「17才」の出だしの歌詞〜“誰もいない海”は、富海海岸のことだという。作詞した有馬三恵子さんが防府の出身なのだ。

  
(JR富海駅の無人木造駅舎と、すぐ傍にある観光案内図)

  
(徒歩3〜4分ほどで海岸へ到着)

 潮が引いた直後の午前中には、砂の上をはい回るカニやヤドカリ、スナモグリや巻貝たちのみずみずしい命が陽光のもとに現れる。きっと人間が住みつくよりもはるか昔から繰り返されてきた営みなのだろう。都会やその近郊では陸海ともに徐々に生き物たちが姿を消している近年にあって、こうした光景にはホッとさせられる。

  

  
(砂浜の生き物たち)

 富海は江戸期の船蔵と飛船(とびふね)で知られた町でもある。飛船は幕末の志士たちの移動にも使われたというが、今の町並みは動乱の当時を感じさせない静かなたたずまいだ。海岸付近の住宅地には幕末の歴史に関わった人たちにゆかりのある建物が残っており、伊藤博文・井上馨両公の上陸記念碑や、さらに昔の脇古墳、茶臼山古戦場など、歴史的な見どころがいくつもある。山口県内はどこへ行っても、幕末維新の痕跡が数多く残されているようだ。

  
(船蔵通りへの入り口。右は勤王志士たちの支援者・大和屋政助の船蔵)

  

 毎年、海開きの前には“富海海岸クリーン作戦”という清掃作業がおこなわれているという。地域のそうした努力の甲斐もあってのことだろう。砂浜も海の色も美しく、爽やかな潮の香りと生き物たちの息づかいが感じられる平和で穏やかな場所だった。 (2015年5月上旬・記)




 


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