AKB48とサラリーマン


AKB48とサラリーマン



きまぐれ睡龍・筆


 アイドルグループとして最近とみに話題の多いAKB48。作詞家としても名高い秋元康氏のプロデュースのもと、7年ほど前に東京の秋葉原で結成された少女たちの小さなグループは、250席ほどのキャパシティの劇場でトレーニングと芸能活動をスタートし、わずかな客しか入らない苦節の日々を耐え忍んだすえに、今では、国内外に複数の姉妹グループを擁して東京ドーム公演をも満杯にさせる大組織に成長している。不況の日本において、なかなかCDが売れない音楽界でその人気は際立ち、性別年齢を問わない支持者を得て、その勢いは絶頂期に達しようとしている感がある。

 先日、私の知人がそんなAKB48について、「歌も踊りもうまくないシロウト集団じゃないか。何がおもしろいのか分からない。芸能と呼ぶ価値があるのか」と、冷ややかに評した。この知人に限らず、インターネット上でもその手の批判は多々投稿されているようで、「芸能界の質を下げた」、「みんな秋元にだまされている」、「はやく消えろ」などと、おそらく同様の意見を持っている人は世の中に数多くいるのだろう。テレビで見た限りで言わせてもらえば、私も彼女たちの歌唱力や踊りが手放しにすばらしいとは思っていない。人気では今や頂点にいると言っていいだろうが、単純に歌と踊りの実力だけでいえば、もっと優れたプロたちは、無名の芸能人たちも含めて数々いるように思う。しかし、彼女たちを単に「シロウト集団」と決めつけるのは、速断・短絡にすぎるのではないかとも思う。AKBに限らず、他のアイドルグループについても同じだ。シロウト集団という評価は、世の労働者たちが「プロ集団」といえるレベルで働いていると果たして言えるのかどうか、普段から疑問に思っている私の心に引っかかってくるのだ。

 AKBをシロウト集団だというのは、もちろん他の何かとくらべた上でのことだ。この手の批判がおもに何との比較によって言われているのか、どの程度の根拠にもとづく分析なのか定かではないが、仮に、その比較の代表的な存在を「宝塚歌劇団」であるとする。「劇団四季」でも何でもいいのだろうが、宝塚の人たちとくらべたら、AKBの女の子たちの歌や踊りのレベルは、多くの人たちの目には見劣りのするものとして映るのだろう。AKBは、倍率の高いオーディションをやっているとはいえ、基本的には普通の女の子たちの寄せ集めであり、容姿も、歌や踊りも一級品の人材ばかりを集めているわけではあるまい。むしろ、完成度が高く才能のとび抜けた人材は意図的に不合格としているように見受けられる。その点では、宝塚とは根本的に目標を異にしているのだろうと思う。AKBはおそらく、その辺で見かけそうな普通のシロウト少女たちの成長物語を演出するところに、価値を置いているのだろう。絶対的に高い素質を持っている子たちを集めてはいない。どこかのサーカス団みたいに元オリンピック体操選手を集めるなどというものともまったく違う。普通の子たちだから普通の人たちが共感あるいは感情移入しやすく、歌いやすいし、踊りもフォーメーションも真似して楽しめる、ということではないか。その子たちの素質でどこまでがんばれるか、結果につなげられるか。シロウト集団っぽく見えるのは、そういう子ばかり集めているならば当然なのである。宝塚レベルの踊りは、一般の人たち、特に小さい子供たちが真似して楽しめる娯楽ではあるまい。そもそも芸能界に、どれほどプロとシロウトを隔てる垣根の高さがあるのかも疑問だ。これといって芸がないシロウトでさえも、面白ければ一夜にして人気者になれて、その面白さが続くかぎりそれで稼いでいける、そういう安易さも許容されて、それが昔から娯楽として成立してきた多様な世界だったのではないか。高尚な芸能ばかりでなくシロウト芸も「芸」として持てはやされるのは、なにも近年始まったことではないし、歌舞伎でさえ初めは底辺のシロウト芸から発したはずだ。AKBをシロウト集団だと単純に批判や揶揄をするのは、あまり理論的ではない。


 私はサラリーマンである。AKBを「シロウト集団じゃないか」と言い切った私の知人もサラリーマンだ。サラリーマンという立場で仕事をしている人が世に何人くらいいるのか知らないが、日本の労働人口のうち相当数を占めているだろう事は、誰でも容易に想像がつくところだ。AKBの子たちをシロウト集団呼ばわりするのなら、サラリーマンたちはどうなのか。各企業がそれぞれ、入社試験や面接をしているとはいえ、基本的にはどこの社員も多くが普通の人たちの寄せ集めであって、一級品の人材ばかり集めている企業は、むしろ少数で特殊といってもいい。その点では、AKBの人材集めと結果的にあまり違いはあるまい。AKBが宝塚にくらべてシロウト集団であるなら、サラリーマンたちは果たして、芸能界における宝塚に匹敵するようなハイレベルを全員が目指して取り組み、それに見合う成果を出し続けているのかというと、これは、かなり心もとない。おそらく多くの企業では、なかなか自分の技術を高める努力をしない腰の重い社員たちの教育に手を焼き、経営者や管理職が頭を痛めている光景が多々見られるのではないか。部下たちがみんな、放っておいても宝塚レベルを目指し、高度な技術・知識・判断力をもつ職業人に成長する、そのような管理の楽な職場はなかなかあるまい。

 サラリーマンの大きな欠点のひとつは、安定的な立場に依存して自分の成長を停滞させてしまうことである。それはしばしば、基本給の設定と労働法による雇用の保護という最低保障によってもたらされると見ていいだろう。公務員の世界も似たり寄ったりかも知れない。そうした規定や制度自体は悪いことではないのだが、人はどうしても楽をしたがる。それが、基本給と勤務時間との枠内にのみ責任意識や自己開発意識を留まらせてしまう、つまり、勤務時間以外の努力はしない、私的な時間帯には仕事と関わりを持たない、というスタンスを生むのである。こういう“安定依存型”になってしまったサラリーマンは、職業人としての発展性が乏しくなる。それは、勤務時間中の努力はどこの企業の社員もやっている当たりまえの営みなのであり、当たりまえの営みからはおおむね平均的もしくはそれ以下の結果しか生み出されないからである。芸能界における「宝塚レベル」とは、当たりまえをはるかに越える秀逸した結果を要求される世界なのであり、当たり前の努力によって成し得るものではない。それこそがプロだと称するならば、そしてそこに達していないAKBをシロウト並みと称するならば、世間の企業にどれだけ、紛れもないプロと賞賛される「宝塚レベル」のサラリーマンがいるのだろうか。かなり怪しい話になってくる。

 多くのサラリーマンは、平均的やそれを少々下まわる能力の人たちでも給料をもらうことができ、法律に守られていて容易にクビにはならない、という環境に安住しがちとなる。そして、そうした人たちが企業内で多数を占めている場合でも、そうでない他の優秀な社員による品質管理のフィルターを通して商品を外部に出すため、組織の体裁としては「プロ集団」としてのメンツを維持できている、というのが実情だろう。宝塚のように、メンバーのひとり残らずが舞台上で衆目にさらされる仕事にはそのようなフィルターはなく、平均かそれ以下の能力の人が能力の高いメンバーの後ろに隠れ続けることはできない。それができるサラリーマンとは要求されるものが違う。彼女たちはつねに淘汰の波に耐えており、年功序列も終身雇用もない。宝塚レベルのサラリーマンなど、どこの企業にも少数しかおらず、それを目指している人さえ決して多数派ではない。しかしAKBはそうではない。結果的に宝塚レベルには到達できないとしても、少なくともそういう領域を全員で目指してトレーニングと公演活動をくり返し、いつも新しい何かを開拓する方向にむかっている。それをするとしないとでは大違いである。とび抜けた素質のないランナーでも、地道な訓練しだいではフルマラソンを3時間で走れるようになるかも知れない。そこを目指して結果を近づけていこうとするからこそ、たどたどしいながらも成長物語として見られるものになる。サラリーマンたちはみんな、優秀な素質が無いなりにも3時間ランナーを目指しているかというと、到底そうは思えない。与えられた仕事を与えられた指示やマニュアル通りにこなして、基本給をもらって勤務時間内のみで努力を終え、品質管理は他のできる同僚に任せたまま…、そうした受け身のサラリーマンたちの姿勢が世の多くを占めているのではなかろうか。しかも、それで「自分はがんばっている」と思い込んでしまえる独りよがりな怖さもある。そうした姿に、誰かを感動させる魅力的なドラマなど成り立つわけがない。


 あえて本質的なところまで話を広げれば、有史以降の人間世界そのものがシロウト保護という、ひとつの美徳や方式で成り立ってきた面がある。それは、もともと野生動物の一種だった人間が、野生から離れてさまざまな文明の利器を開発するようになってから、野生であれば生き残ることが難しかった弱者たちの命を生きながらえさせ、それを保護しつづけるゆとりを持てるようになった結果として成り立ってきた。その根本にあるファクターのひとつは“わが子可愛さ”の本能である。わが子は大切である。それがたとえ、出来の悪い子であっても、大きく育ち、長く生きて欲しいと願うものである。そしてそれが大方の人間たちにとっての共通認識であるため、お互いの子供を守り合う相互協力を生み、その他の身内や友人をも守り合うようになり、組織化され、倫理や社会規範を形成し、それが、野生の世界なら生きることの出来ない多くの人間を生存せしめるようになったのだ。野生の世界ならば、それこそ「宝塚レベル」の力強さや生存テクニックを持っている個体でなければ、生き残ることも子孫を残すこともできない。野生で生存を持続するためには、サラリーマンの「勤務時間中のみの努力」というスタンスはほとんど通用せず、たちまち他の生物の餌食にされてしまう。そのスタンスが通用している人間世界は、多くのシロウトが生きられる快適で優しい世界であり、シロウトを生かそうとする美徳の世界でもあり、また、シロウトによって支えられ、シロウトに振り回されて四苦八苦する世界だ、といえるのではないか。そしてそこには、あまたのシロウト芸が技術としても娯楽としても必然的に発生し、ある程度洗練されればひとつの形を成してくるのだろう。不完全さやいびつさに見出される「親しみやすさ」という価値観もあり、それは商売としても成立するようになる。完全無欠のプロや伝統芸能にばかり存在価値があるわけではない。シロウトを保護・尊重する世界においては、シロウト芸をみて誉めたり感動するのは当たり前の現象なのだ。

 そして、文化とは庶民化の歴史でもある。たとえば宮廷文化であったものが時代を経て徐々に庶民生活へと流入したり、古来の庶民文化と融合して新たなものへと変遷していくのは、世界中の文化のおおむねスタンダードな流れでもある。芸能でも職人技術でも、何でもそうだ。そして、文化の庶民化の過程では多くの場合、変化や革新を嫌う特に保守的な人たちからの、固陋な嘆きや侮蔑をともなう批判にさらされる。日本にロックミュージックという異質の音楽が入ってきた頃などは、その波に乗っていった若者たちを、当時の保守的・伝統的思考の人たちが、「深みがなくて騒がしいだけの音楽」であるとか「世も末だ」などと、どれだけ批判のネタにしたことか。かつて、マンガ文化が「子供だまし」、「低俗」、「読むと頭が悪くなる」などと、PTAをはじめとして世間から低く冷たく見られていたのも同じだ。知らないものや親しんだ事のないもの、一見幼稚そうに見えるもの、理解できないものや安そうに見えるものを、簡単に“低く見る”という癖、そうした感情が安直に介入してしまうのである。そして、完全に市民権を得たロックやマンガ文化のもたらす経済効果が、日本経済の一端を支えるまでに成長した今、固陋な元批判者たちは、昔よりも物資に恵まれた快適な社会生活を送れるようになってもいるのだ。その矛盾を、元批判者たちはどのように弁明するのか。

 ロックは、クラシックと山脈を分かつ立派な音楽分野である。今となっては、ロックを「騒がしいだけ」などと安直に批判する人は、時代錯誤の分からず屋あつかいされてしまうだろう。ロックへのあこがれは、それを真似てみたいと思う中・高校生たちのにわかバンドでも、何とか形にできて歌ったり演奏したりという楽しみが許容されるが、クラシックはその点、容易にシロウトの一般人を寄せつけないだろう。ロックの許容範囲の広さという部分では、AKBが子供にも真似しやすい娯楽である点と似ているように思う。AKBをはじめとするアイドルたちの芸が文化の庶民化というひとつの過渡的な形として現れてきているのだとすれば、それを安直に批判すると、かつてのロック批判やマンガ蔑視の二の舞におちいりかねないのではないか。それに、顔やスタイルが可愛らしくて、若くて性格がほがらかなだけでは、あれほど売れるはずがない。そこには、数年にわたる並々ならぬ努力の蓄積があったであろう事は、彼女たちのパフォーマンスをテレビ画面で見ているだけでも、あるていどは想像できよう。いくらきらびやかで可憐な衣装を与え、高度な舞台装置を整備し、優秀な技術スタッフたちが裏方として支えても、本当に彼女たちがシロウト、文化祭や学生サークル活動に毛が生えた程度のレベルにすぎないものであれば、たとえ熱心でひいき目なファンであっても、そのパフォーマンスはとても正視できたものではあるまい。オリンピック選手になれなくとも、現在上位にいるメンバーたちは3時間ランナーくらいにはなっていて、さらに高いところを目指そうとして、新加入の少女たちもそれに続くため日々努力する、それがファンたちの目を惹きつけているのではないだろうか。お金を払ってでもその成長物語を応援する、それが間違っているとは私にはまったく思えない。

 「シロウト集団じゃないか」、「芸能と呼ぶ価値があるのか」と、批判するのは簡単である。しかし、彼女たちの存在が身近なものに感じられる人の立場に立った場合はどうだろうか。そのままその批判を彼女たちにぶつける事ができるのだろうか。おそらく、AKBをこのように批判した私の知人も、それと同意見の世間の人たちの多くも、たとえば自分の子供や身内がAKBやその他のアイドルグループに入って活躍すれば、喜んで応援し、擁護する立場へと豹変するのではないか。出来の悪い子でさえ可愛いのだから、それが各メディアにしばしば登場する人気者にでもなったら、その歌や踊りが宝塚に及ばないレベルであっても、その努力と成果を誇りに思うのではないか、という事だ。あるいは身内でなくとも、それが昔から近所に住んでいる親しい子であったり、同級生であったりしても、嬉しく思えて、ひいき目に見て自慢のタネにしたり、応援したりするのではないだろうか。身内や友人の立場であれば、彼女たちが普段からどれほどの努力を費やしているかも直接間接に見えてくるだろうし、批判者たちに対して、「あなた方は彼女たちの努力の何を知っているんだ」と真っ向から反論したくなるのではないか。AKBやその他のアイドルに対する批判や揶揄の多くは、少なからず理論的な分析と想像力に欠けていて、赤の他人ゆえの不理解と侮蔑とやっかみを多分に含んでしまっているのではないか。私にはそのように思えてならない。

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 私のサラリーマンとしての仕事ぶりとその成果を、親は喜んでくれて、上役からもそこそこ褒められ、その成果に準じて固定給+αをもらい、「プロ」として日々働いている。しかし、私ていどの能力を持つ人はたぶん世の中にたくさんいるだろう。自分が普段から「宝塚レベル」に匹敵する修練を重ね、それに相当する秀逸した結果を出し続けているなどと、とても胸を張って言えたものではない。ではAKBとくらべたらどうか。やはり、自分のやっている事が彼女たちの努力や結果に及ぶとは思えない。それでも私は「プロ」として生きている。それは、シロウト保護の人間社会であるがゆえ、そして労働法と基本給に守られているサラリーマンであるがゆえに得ている、「甘えが許される立ち位置」なのだろう。実際は甘えていられるような状況ではなく、正規雇用のサラリーマンたちが、低賃金で働くパートや非正規社員に寄りかかってしまっている側面があり(搾取していると言ってもいいだろう)、その構造と基本給が永久に温存され続けるものでない事はよくよく認識しなければならない。企業がそれに耐えられなくなって人員整理に向かった時、経営者は、宝塚レベルに達した社員・3時間ランナーの社員・組織に寄りかかる社員・低賃金の非正規社員、いずれを社内に残そうとするのか…。人はどうしても楽をしたがる。サラリーマン世界にはそうした依存心を差し挟みやすい安易さがあり、深刻な経営不振に陥らないかぎりはシロウトに優しい世界でもあるのだ。AKBやその他のアイドルをシロウト呼ばわりしながらも、みずからはそうした安定に依存してシロウトレベルになってしまってはいないか、サラリーマンをはじめとして少なからぬ労働者は、保護されることに長年なれてしまって、そうした省察に欠けているように思える。

 私がもしAKBの子たちをシロウト並みで芸能としての価値が低いなどと批判すれば、それは即座に、自分に向けた刃としてせまって来てしまうだろう。AKB48…、彼女たちは、その辺のサラリーマンなどよりも立派なものではないのか。その成長物語は、魅力もあり微笑ましくもあり、見習うべき部分さえあるだろう。世のサラリーマンの中に、彼女たちの前で、「自分は君たちよりも努力して、見る人を感心させるようなレベルの高い結果を出しているプロだよ」と、胸を張れる人がどれくらいいるか。それは知名度や収入などの問題ではない。芸能人よりも収入が低いからサラリーマンはシロウトでいいというわけではないのだ。もちろん、好き嫌いは人それぞれだ。AKBやアイドルたちが生理的に嫌いだという人は、それはそれでいい。あるいは宝塚や劇団四季に技術的に劣ると評することも、間違いではない。「何がおもしろいのか分からない」という私の知人の発言もひとつの意見ではあるし、3時間ランナーよりも2時間ランナーの方がやっぱり良いという見方であってもいい。批判に値する欠点も何かとあるだろうし、総合プロデューサーの秋元康氏の戦術に疑問の目を向ける余地もあるのだろう。しかし、安直なシロウト呼ばわりは、多くの人たちにとって、「そういうお前自身はどうなんだ?」と自分に唾を吐くことになりかねない気がする。特に、“安定依存型”にはまって自分の成長を停滞させ、2時間どころか3時間ランナーにさえなれていない、それを目指してさえいないサラリーマンたちは…、という事だ。

 秋元康氏は彼女たちの歌や踊りを通して、遠まわしに、世のサラリーマンやその他の労働者たちの尻をたたいて、「この子たちはひたむきに高みを目指してがんばっているぞ」、「もっと元気を出せよ」、「アンタたちの底力はその程度じゃないだろ」、「みんなで3時間ランナーを目指すだけでも世の中もりあがるぞ」と言っているのかも知れない。そして彼にとっては、自身やAKBにぼろくそな批判をぶつけてくる人々でさえも、敵ではなく、少女たちの成長物語を演出する“AKB48劇場の出演者の一部”であり、“こやし”でもあり、社会貢献につなげていく要素のひとつとして意識しているのではないか。そしてまたAKBは、単に「観る芸能」としてだけではなく、次々と繰り出される巧みな企画の数々、リーダーの高橋みなみの統率力など、好き嫌いとは別に、組織運営のひとつのモデルとしても見るべき点はあるのだろう。簡単にシロウト集団だと言って切りすててしまうだけでは能のない、もったいない存在なのではなかろうかと思う。

 

 …ついでの話だが、アイドル批判にともなって、「オタク」と呼ばれる熱心なファンたちも批判や侮蔑の対象にされがちだ。しかし、世間のどの分野でも、とりわけ特殊技能の世界の第一線で活動している人たちはオタクだらけではないのか。作家はあれこれ書いては推敲せずにいられない物語オタク、科学者は昼も夜もとめどない調査と蒐集と実験オタクだ。ファーブルなどはふんころがしをひたすら追いかけた異常なほどの昆虫オタクだったろう。イチローは驚異的にストイックな野球オタク、立川談志や明石家さんまは笑いの事をひっきりなしに考えるオタク芸人だ。彼らの能力や業績の優秀さは言うまでもないし、その周囲には、有名にしろ無名にしろ、彼らを育てたり支えたり、影響を与えた大勢のオタクたちがいただろう。各分野の中枢には、病的なくらいそれに没頭できるオタク気質の人たちがいて、“安定依存型”の人間が入り込む隙はない。アイドルオタクやアニメオタクとて、一概に見てくれだけで馬鹿にできるものではあるまい。彼らの集中力や熱心さを人材として見た時に、より魅力ある没頭の素質が隠れているかも知れない、と捉える事もできるのではないか。「変なヤツ」と「すごいヤツ」は、けっこう紙一重のところにいるのだ。

 むしろ、オタクをただ気持ち悪いとあなどって笑いものにしている人たちの方が、私には没頭の素質に乏しい凡人に見えてくる。


(2012年9月13日・記)




             
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