鯉が窪湿原 岡山県阿哲郡哲西町 2004.8.26

広島から中国縦貫道の東城IC迄2時間、ICを出てすぐ右折しR182を約8km道の駅鯉が窪の前を右折して山道に入るとあとは一本道を3キロほどで管理棟前の駐車場につく。
この場所は6年前の7月5日に来たことがありますが、当時はまだ花にもカメラにもあまり興味がなく、何かのついでに寄ったようなことでアルバムを見ても近くの巨大水車の前での記念写真はあっても、湿原での写真はほとんどない。わずかにオカトラノオ、シモツケソウなどを何気なく撮ったのが残っておりました。
今回また来て見てずいぶん整備もされており、沢山の花があり、見ごたえのある湿原だなとつくづく思いました。下記のパンフレットの内容に共感し、ここに記載します。
この場所は6年前の7月5日に来たことがありますが、当時はまだ花にもカメラにもあまり興味がなく、何かのついでに寄ったようなことでアルバムを見ても近くの巨大水車の前での記念写真はあっても、湿原での写真はほとんどない。わずかにオカトラノオ、シモツケソウなどを何気なく撮ったのが残っておりました。
今回また来て見てずいぶん整備もされており、沢山の花があり、見ごたえのある湿原だなとつくづく思いました。下記のパンフレットの内容に共感し、ここに記載します。
土手にエゾミソハギが咲く鯉が窪池の奥を望む
パンフレットより
《鯉が窪池は、300年昔の元禄8年(1694年)に灌がい用水池として築造され、安政年間(1854年〜1860年)に当時の備中松山藩主板倉氏が修築したと伝えられ、満水時の面積は2.7ヘクタールあり、下流の水田約45ヘクタールを潤しています。湿原はこの池の上流に集中して広がり、面積3.6ヘクタールで、一周すれば、2.4キロメートルあります。この湿原には、満朝系の残留植物をはじめ、日中共通植物や寒地植物、日本固有植物、その他周辺の植物を含め、およそ300種類を超える植物が自生しています。中にはオグラセンノウ、ビッチュウフウロ、ミコシギクなど貴重な植物が多数生育し、これは標高550mの中層地にある湿原としてはきわめて珍しく、「鯉が窪湿生植物群落」として昭和54年国の天然記念物に指定され、哲西町が保護管理にあたっています。
鯉が窪湿原は「西の尾瀬沼」とも形容される湿原ですが、尾瀬沼に比べると標高は1000m以上も低く、多彩な植物が自生しています。特に満朝系の植物であるオグラセンノウ、ビッチュウフウロ、ミコシギク等、かって日本が大陸と陸続きであったころ、満州、朝鮮、日本と広く分布していたと考えられる植物であり,しだいに離ればなれに分布するようになったもので、これらの植物は残留植物と呼ばれ、滅び行く運命にあると考えられる植物です。その中でもオグラセンノウは、この鯉が窪湿原周辺と北九州、朝鮮北部だけにある貴重な植物です。》
《鯉が窪池は、300年昔の元禄8年(1694年)に灌がい用水池として築造され、安政年間(1854年〜1860年)に当時の備中松山藩主板倉氏が修築したと伝えられ、満水時の面積は2.7ヘクタールあり、下流の水田約45ヘクタールを潤しています。湿原はこの池の上流に集中して広がり、面積3.6ヘクタールで、一周すれば、2.4キロメートルあります。この湿原には、満朝系の残留植物をはじめ、日中共通植物や寒地植物、日本固有植物、その他周辺の植物を含め、およそ300種類を超える植物が自生しています。中にはオグラセンノウ、ビッチュウフウロ、ミコシギクなど貴重な植物が多数生育し、これは標高550mの中層地にある湿原としてはきわめて珍しく、「鯉が窪湿生植物群落」として昭和54年国の天然記念物に指定され、哲西町が保護管理にあたっています。
鯉が窪湿原は「西の尾瀬沼」とも形容される湿原ですが、尾瀬沼に比べると標高は1000m以上も低く、多彩な植物が自生しています。特に満朝系の植物であるオグラセンノウ、ビッチュウフウロ、ミコシギク等、かって日本が大陸と陸続きであったころ、満州、朝鮮、日本と広く分布していたと考えられる植物であり,しだいに離ればなれに分布するようになったもので、これらの植物は残留植物と呼ばれ、滅び行く運命にあると考えられる植物です。その中でもオグラセンノウは、この鯉が窪湿原周辺と北九州、朝鮮北部だけにある貴重な植物です。》
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また簡単な説明を図鑑などから引用したりして追加しました。
また簡単な説明を図鑑などから引用したりして追加しました。