明治の終わりごろ、それまで畔沢川で海国という温泉を営んでいた、初代(八造)が台風で施設を壊されたのを機会に鰍沢の町に出て、荒物屋などを経て現在の場所に割烹旅館国本屋を創業したのが大正の5年(1916)でした。
当時の鰍沢は明治36年(1903)に中央線が開通してもまだなお富士川舟運が栄えていた時期であり、町には1キロほどの道の両側に食料品を扱う問屋や商店が四十数軒、荒物、太物、呉服、石油などを扱う問屋が三十数軒、糸繭商が八軒、造り酒屋が四軒、旅館・料理屋が十数軒もあり、大勢の人でにぎわっていました。
昭和のはじめには舟運は衰退しましたが、町はまだ問屋街として、買い付けのお客さん、卸の業者さんなど多くの往来があり、また小室山参拝から身延山参拝へ向かう講の人たちや、早川入りの人たちが甲府まで往くときの中継地としてなっていました。
戦時中は一般のお客様は減りましたが、代わりに兵隊検査などの宿泊に利用され、19年に入ると疎開児童の受け入れをしました。
戦後、昭和23年ごろに食堂を併設しましたが、始めの数年間は食材もあまり手に入らず、ラーメンや氷などを売っていました。30年代にはいるとほぼ現在の商売の形になり、養殖のうなぎもずいぶん流通するようになり多くの人の口に入るようになりました。
40年ごろ【鰍沢に行ったらうなぎを食べよう】のキャッチコピーでラジオCMを流し県下でも鰻の専門店として評判のお店となりました。
大正、昭和、平成と時を経て、町並みもずいぶんと変わり、当時ほどの賑わいはなくなりましたがましたが、多くのお客様に【美味しい】といわれてきた味は今でも変わらずに守られています。
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創業からの当時からの建物で戦争を経て昭和23年にお店の向かって右側を食堂に改装。 (縄のれんがしてあります。) お蔵作りですが屋根の下の部分が黒っぽいのは戦時中に空襲を受けたときに白壁だと目立つために黒っぽく塗ったからだそうです。 |
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