JRのキャッチコピーとして、テレビで長く放映されている、「そうだ 京都、行こう」というのがありますよね・・・。
 唐突ですが実は、1年前の昨年の5月に、私が某テレビ局の、某番組に出場した時のこと。放映後に、多くの方々から、「出てたでしょう・・・」「見たよ・・・」などなど、あらためて電波の威力に感じ入ったものでした。
 然しながら、何故私がこの番組に出場したのか、単に私の顔と「焼き絵」を認識したのみで、私のコメントには覚えがないであろうと思います。それもその筈、司会者に問われた回答の、大半がカットされていましたから。
 実は、私の祖先は記録によると、所謂「三州武士」(現在の岡崎)で、徳川家康と何処かで繋がる一族だったようです。「だから何なんだ・・・」と言われそうなので、この一部は後述しますが、何となく、そんな縁を感じて、今回、一度は行ってみたかった、「そうだ 久能山東照宮、行こう」・・・が今回の旅行の目的でした。乗車券と宿泊券のみのフリー・プランでしたが、天候を含めて、ホテルなどなど、すべてが最高の旅でした。


初日、ホテルにチェックインしたのが、午後3時頃でしたので、夕食まで出掛けることにしました。
このホテルは、浜名湖の湖岸に位置する、地上13階、客室約400の大型ホテルでした。
最寄駅からホテルまでの道すがら、「舘山寺」まで16㎞との表示がありましたので、タクシーで行きました。
舘山寺温泉街から、庄内半島、大草山行きのロープウェイがありました。
 
このロープウェイの出発地点には、小規模ながら遊園地があって、小さい子供連れには良さそうでした。
ロープウェイを戻って、舘山寺まで歩きましたが、その途中の「浮見堂」です。この鐘は、舘山寺と友好提携している、中国蘇州寒山寺で作成された「寒山寺の鐘」の複製だそうです。明日はいよいよ東照宮です。
 
旅に出る時、天気予報は必ず気になりますよね!。実は今回、目的地の二日目は「雨」の予報でした。
こればかりはどうにもなりませんので、雨なら温泉に浸かって、ビールでも飲みながら、本を読めば良いかと、単行本を3冊持参しましたが、夜中に音をたてて降っていた雨が、朝にはウソのように上がっていました。
 
東照宮への参拝路は、昭和30年に静岡鉄道が、日本平ロープウェイを開通するまで、この1,159段の石段を登るのが唯一のものでした。1,159の数字は語呂合わせで「いちいちごくろうさん」と言われるそうです、⑦は、この石段を909段上がったところにある「一の門」です。
 
久能山東照宮の「楼門」です。この門をくぐって東照宮詣でが始まります。
二階部分には、後水尾天皇直筆の「東照大権現」の扁額が掲げられてあり、勅額御門とも呼ばれるそうです。
 
家康公没後、二代将軍秀忠公が、直ちに造営を命じた「社殿」です。本殿と拝殿を石の門で接続した「権現造」(ゴンゲンヅクリ)。当時最高の建築技術を結集し、後の日光東照宮を始め、全国に多数造営された東照宮の原型とされました。
 
⑩は国宝の本殿です。日光東照宮に比べると、ぐっと小規模ですが、それなりの重厚感はありました。
⑪は本殿の正面で、葵のご紋が威光を放っていました。
 
 
左の写真は、家康公御神廟までの参道をつなぐ廟所入り口です。右の写真は、ここから更に石段があって、最終1,159段に到達した、御神廟という訳です。
 
徳川家康公の遺骸が埋葬されていると言われる神廟です。地元ガイドの説明によると、家康公は座した姿勢で、生国岡崎を臨む西向きなんだそうです。しかし、当初ここは小さな祠だったとする説や、三代将軍家光公によって、日光東照宮に改葬されたという説などなど、後に誰も確認した者はいない筈で、諸説ありではないかと思います。
ただ、高さ5.5m、周囲8mというこの石塔は、巨大な一個の岩石を、ここで加工した、というのは本当のようです。
 
ホテル迄の帰り道は、ロープウェイで日本平へ出て、そこから静岡行きのバスを利用しました。
バスの窓からは、今まで見たことのないような、抜群の富士の雄姿が、極近にあって、最高に感激しました。 
 
浜名湖で、養殖本場のウナギも食べました。今後多分ここ静岡県へは、二度と来ることはないだろうと思います。
ここまで来たら、最後は矢張り「浜松城」を外す訳にはいきません。東京への帰路、途中下車しました。
 
浜松城の本丸です。明治時代の廃城令により石垣のみを残し、個人所有になったものが、後に再建されました。
城郭構造は、「梯郭式平山城」と言い、守りが堅く攻め難い造りなんだそうです。宿敵武田信玄が、城攻めを避けて野戦に導き、徳川軍が唯一敗北したと伝えられるのが、「姉川の決戦」です。
 
⑰は、城門から本丸を臨んだもの。⑱は、浜松城の案内表示板です。家康はこの城に元亀元年(1,570)6月に し、17年間在城したとありました。家康の後、城主は代々譜代大名が勤め、その多くは在城中に、老中にまで栄進したことから、この浜松城は「出世城」と称されたそうです。
 
何れも館内の展示物の一部です。我が家は父が独立するまで、代々銀座一丁目に居を構えていました。私は、子供のこと故、余り詳しく記憶にありませんが、タンスに三棹、刀剣類が格納してあったと聞きました。戦時中、父は召集で外地へ、我々は長野へ疎開し、東京大空襲のどさくさで人手に渡り、現在残っているのは、名目的な本籍地だけです。今此処には、余り大きくない雑居ビルが二棟建っています。
 
城外にも井戸跡がありましたが、1,958年の城再建時に地下から発見された井戸です。直径1.3m、深さ1m、籠城の際の貴重な水資源だったと思います。右は、明治の廃城令で建物はすべて壊されたものの、当時のまま残された石垣。自然石を組み合わせた「野面積み」で、400年の風雪に耐え、今なお当時の面影を残しています。
 
今年の3月に完成した、大手櫓越しの天守閣です。櫓はまだ木の香り漂う、美しいものでした。
 
ところで皆さんは、自分史とかルーツ探しってなことに興味を持ったことはありませんか?実は私は父を亡くした後、
これまでに一度も会ったことのなかった身内から、木村家祖先の一端を聞き、いつかそのルーツを辿ってみたいと
思って、結構あちこち探索したことがありました。2通あったという家系図の1部を関東大震災で 焼失、1部は秋田
親族にお貸し下されで、手紙を出状しましたが、居所不明だったなどなど、未だに「未完成交響曲」なのです。
今回の、「久能山、行こう」は、もしかしたら、その当時の諦めきれない気持ちが、最後に私を誘ったものなのかも
知れません。もちろん、今となっては「どうでもよいこと」になっていることは、言うまでもありません。 



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