久我山昔話





     

食料不足
敗戦前後は、食料不足で何でも配給だった。
人見街道〔当時は久我山街道〕の踏切際に、八百屋〔現在の毎日新 聞店〕があり、配給物を受け取りに久我山橋まで並んでいた。空き 地を耕して、カボチャを植えた。雌花に雄花を付けるのは、毎朝子 供の仕事だった。そば屋に行く時は、配給された外食券を持ってい ないと、食べられなかった。
戦争は国民を苦しめる。(平成30 年6月 112)


馬の餌
戦中・戦後は、食料不足で困っていた。
牛馬の飼料も不足で、恵比寿のビール工場より、搾り滓(しぼりか す)の麦を、牛車(うしぐるま)で引き取って来て天日干(てんぴほ し)をしたんだ。人見街道の道端でむしろ〔藁で編んだ敷物〕を敷 いて干したが、始めは湯気が立つほど、湿っていた。牟礼・新川よ り、久我山に牛・馬の餌として、買いに来たんだとさ。(平成30 年 12 月 118)


ニコヨン
もう、 70 年前の事じゃった。敗戦後の生活苦で収入が無く、住民 は困っておった。
世間では、ニコヨンと呼ばれた救済事業が有り、道路工事・道の草 取り・側溝清掃などが行われた。一日中、働いて 240 円〔ニコヨ ン〕なんだ。久我山にニコヨンで働いた人が、今 100歳を迎えて 生活してるんだ。(筆者の知人)(平成29 年11 月 105)





 

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